表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ベルン戦記 〜辺境出身者の成り上がり物語〜  作者: 膝栗毛


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/12

第四章 エリアスの教室

引き継ぎお楽しみください

エリアスの「教室」は、砦の外れにある小さな物置小屋だった。

正確には物置小屋だった場所で、今は地図と書類が山積みになっている。エリアスが勝手に使い始めたらしく、砦の兵たちは「副官殿の巣」と呼んでいた。本人はその呼び名を嫌っていたが、定着してしまったので諦めていた。

アルスが最初にそこへ呼ばれたのは、将軍に会った翌朝だった。

扉を開けると、エリアスが地図を広げた机の前に立っていた。振り返りもせずに言った。

「遅い」

「呼ばれた時刻の五分前です」

「準備は十分前に終わらせておくものだ。座れ」

椅子は一脚しかなかった。アルスが座ると、エリアスは地図を指差した。

「今の戦線の状況を説明してみろ。知っている範囲で構わない」

アルスは地図を見た。帝国の東部国境から、聖王国の侵攻経路が赤い線で引かれている。いくつかの地点に旗の印がある。

「聖王国軍の主力は、ここ、カルマ街道を南下しています。目標はおそらく帝国東部の要衝、ランドール城塞でしょう。ランドールを落とせば、帝国東部の防衛線が崩れる」

「続けろ」

「ただ、主力の南下と並行して、別動隊が国境沿いの小村を順に制圧しています。カルデンもその一つでした。これは補給線の確保が目的だと思われます。主力部隊が深く入り込む前に、後方の安全を固めている」

エリアスは少しの間、黙っていた。

「正しい。では、帝国側の対応は」

「現状は後手に回っています。辺境守備隊は各所の火消しに追われていて、主力がどこにいるかの情報が、少なくとも前線には届いていません」

「情報が届いていない、というのは何故だと思う」

アルスは少し考えた。「伝令の系統が整備されていないか、整備されていても機能していないか」

「両方だ」エリアスは机に手をついた。「帝国軍の情報伝達は、指揮系統に沿って上から下へ流れる。現場の情報が上に届くまでに時間がかかり、上からの指示が下に届くまでにまた時間がかかる。その間に状況が変わる。戦場というのは、常にその繰り返しだ」

「では、どうすれば」

「お前ならどう考える」

アルスは、答えを急がなかった。

頭の中で、戦術論の一節を反芻した。古い言葉だったが、妙に引っかかっていた部分だ。情報は水と同じで、高いところから低いところへ流れる。将が水を上から注ぐのではなく、現場から湧き出る水を集める仕組みを作れ。

「現場から情報を吸い上げる独立した経路を作る、ということでしょうか。指揮系統とは別に」

エリアスは、初めてアルスの方を真っ直ぐ見た。

「その発想はどこから来た」

「本です。戦術論の一節です」

「どの戦術論だ」

「題名がわからないんです。表紙が剥がれていて」

エリアスは眉をひそめた。「内容を覚えているか」

「ほとんど全部」

「……そうか」副官は何か言いかけて、止めた。それから静かに言った。「その本、後で見せろ。話を戻す」


それからの二週間、アルスはエリアスの元で、本では学べなかったことを叩き込まれた。

最初に教えられたのは、兵站の計算だった。

「一人の兵士が一日に必要な食糧は何グラムか」エリアスは言った。

「わかりません」

「これを知らなければ、どんな作戦も絵空事だ。三千の兵を十日間動かすのに、どれだけの荷馬車が必要か。その荷馬車を動かす馬は何頭か。馬に必要な飼料は。輸送路の道幅は荷馬車が並走できるか。雨が降ったら泥道になって速度が落ちる、その場合の予備日数は」

数字が次々と出てきた。アルスは必死に頭に入れた。

「戦記にはこういうことが書かれていませんでした」

「当たり前だ」エリアスは言った。「戦記は英雄の話を書く。荷馬車の数を計算した話を書いても、誰も読まない。しかし戦争で負ける原因の半分は、兵站の失敗だ」

次に教えられたのは、組織の話だった。

百人の兵を動かすのと、千人の兵を動かすのでは、何が違うか。指揮の階層をどう作るか。命令の形式を統一することがなぜ重要か。伝令が誤った情報を持ち帰ったとき、どう検証するか。

アルスは毎晩、天幕に戻ってから今日学んだことを本の余白に書き留めた。三冊の本の余白は、みるみる埋まっていった。

「お前は飲み込みが早い」ある日、エリアスが言った。褒め言葉ではなく、確認するような口調だった。

「本で読んだことと繋がるので」

「それが問題でもある」

「問題ですか」

エリアスは机の上に地図を広げた。「本の知識は、過去の戦場から抽出されたものだ。だが実際の戦場は、常に違う。地形が違う、敵が違う、天候が違う、兵の練度が違う。本の答えを当てはめようとして失敗した将軍を、俺は何人も見てきた」

「わかります」アルスは言った。「だから俺は、本から答えを探すのではなく、考え方を借りているつもりです」

エリアスは少し間を置いた。「考え方、か」

「はい。この状況でこの将軍ならどう考えるか、という問いを立てる道具として使っています。答えは、今の状況から自分で出さなければならない」

エリアスはしばらく黙っていた。

それから、珍しく少し長い沈黙の後に言った。「俺が士官学校で四年かけて学んだことを、お前は独学でやっていたわけだ」

アルスは何も言わなかった。

「羨ましいとは思わない」エリアスは続けた。「ただ、惜しいとは思う。正しい環境で、正しい順序で学んでいれば、お前は今頃どこにいたか」

「辺境の農村にいたと思います」アルスは言った。「機会がなければ、学ぶ場所もありません」

エリアスは、その答えを聞いて何か考えるような顔をした。が、それ以上その話題を続けなかった。


三週間目に、エリアスは初めてアルスを実際の作戦会議に連れて行った。

会議室には将校たちが集まっていた。全員がアルスより階級が上で、ほとんどが貴族か士官学校の出身だった。アルスが入ると、何人かが露骨に顔をしかめた。

「エリアス、これは何だ」一人の将校が言った。三十代、鷹のように鋭い顔立ち。「一兵卒を会議に連れ込むつもりか」

「情報整理担当として同席させます」エリアスは淡々と答えた。「将軍の許可はいただいています」

将校は不満そうだったが、黙った。

会議が始まった。

議題は、聖王国軍の別動隊への対処だった。国境沿いの村を順に制圧している部隊を、どこかで叩く必要があるという点では全員が一致していた。問題は、どこで、どうやって、だった。

「ここで待ち伏せして正面から叩く」一人の将校が地図を指差した。

「この地点は開けた平地だ。待ち伏せには向かない」別の将校が反論した。

「ならここだ」

「補給路から遠すぎる」

議論は噛み合わなかった。

アルスは黙って聞きながら、地図を見ていた。

将校たちの議論を聞きながら、ずっと別のことを考えていた。相手の別動隊は、今どこにいるか。次にどの村を目標にするか。移動の速度から逆算すると、三日後にはどのあたりにいるか。

地理誌の記憶が頭の中で展開した。国境沿いの地形。川の位置。森の広がり。

「エスタ川の渡河点」アルスは思わず口に出した。

会議室が静かになった。

全員がアルスを見た。

「何?」先ほどの将校が、明らかに不快そうな顔で言った。

アルスは一瞬、黙ればよかったと思った。しかし言ってしまった以上、続けるしかない。

「相手の別動隊が次に向かうとすれば、エスタ川沿いのフォルン村です。今の進行速度から逆算すると、三日後の早朝に渡河点を通過するはずです。渡河中は部隊が縦長になり、展開できない。そこを突けば、平地での正面対決を避けられます」

将校たちは互いに顔を見合わせた。

「根拠は」エリアスが静かに言った。試すような口調だった。

「別動隊がこれまでに制圧した村の間隔と、日数から計算しました。一日あたりの移動距離は約十五里。次の目標がフォルン村だとすれば、出発点からの距離は四十五里。三日で到達する計算です」アルスは続けた。「エスタ川の渡河点については、地理誌に記載があります。この時期、水量が増えて渡れる場所が一箇所に絞られます。そこを通らざるを得ない」

沈黙があった。

「地理誌?」先ほどの将校が嘲るような口調で言った。「本の話か。戦場は本の通りには動かんぞ、小僧」

「おっしゃる通りです」アルスは答えた。「外れるかもしれません。ただ、斥候を一組、エスタ川方面に出すだけで確認できます。外れていても損失はない」

将校は何か言おうとしたが、その前にゲオルグ将軍の声が響いた。

「斥候を出せ」

短い、一言だった。

将校は口を閉じた。


二日後、斥候が戻ってきた。

報告は、アルスの読みとほぼ一致していた。別動隊は予想通りエスタ川方面へ向かっており、三日目の早朝に渡河点を通過する見込みだという。

エリアスがアルスのところに来て、無表情のまま言った。

「当たっていた」

「運もあります」

「運だけではない」エリアスはしばらくアルスを見た。「作戦案を出せ。俺が整えて将軍に上げる」

アルスは、布袋から「ハルデン戦役記」を取り出した。

七十年前の渡河阻止作戦のページを開いた。余白に書き込まれた自分の文字が並んでいる。

この状況でこの将軍ならどう考えるか。

頭の中が動き始めた。


エスタ川での作戦は、成功した。

渡河中の別動隊を側面から突き、混乱したところを正面から押した。川が退路を塞ぎ、相手は展開できなかった。損耗は軽微、捕虜を多数確保した。

会議室で嘲った将校は、何も言わなかった。

ゲオルグ将軍は作戦後、一言だけエリアスに言ったという。

「あいつの階級を上げる手続きを始めろ」

エリアスは「少し早くありませんか」と答えた。

将軍は「遅すぎるくらいだ」と言った。


その夜、アルスはロイに話した。

天幕の中で、ロイは黙ってアルスの話を聞いた。それから大きく伸びをして、言った。

「なんか、お前がどんどん遠くに行く気がするな」

「そんなことはない」

「いや、する」ロイは笑った。悲しそうではなく、どこか誇らしそうな顔で。「俺たち、カルデンの前はただの農村の悪ガキだったのに」

「お前は今でも十分悪ガキだ」

「うるさい」ロイは笑い、それから真顔になった。「なあ、アルス。お前、どこまで行くつもりだ」

アルスは少し考えた。

どこまで、という問いに答えはなかった。目標があって動いているわけではなかった。ただ、目の前に考えるべきことがあり、考えれば次の問いが生まれ、その問いを追いかけているだけだった。

「わからない」アルスは正直に言った。「ただ、考えることを止めたくない」

「それだけか」

「それだけだ」

ロイはしばらく黙った。それから、また笑った。

「じゃあ俺は、お前が考えている間、ずっと隣で槍を振るっていてやる」

アルスは、ロイの顔を見た。

何か言おうとして、言葉が出なかった。

代わりに、小さく頷いた。

ロイはそれで十分だというように、天幕の外を見た。

夜空に星が出ていた。辺境の村で見ていた星と、同じ星だった。ただ、見ている場所が少しだけ変わっていた。

まだほんの少しだけ。

しかし確実に、二人は前に進んでいた。

次回もお楽しみに

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ