第四章 エリアスの教室
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エリアスの「教室」は、砦の外れにある小さな物置小屋だった。
正確には物置小屋だった場所で、今は地図と書類が山積みになっている。エリアスが勝手に使い始めたらしく、砦の兵たちは「副官殿の巣」と呼んでいた。本人はその呼び名を嫌っていたが、定着してしまったので諦めていた。
アルスが最初にそこへ呼ばれたのは、将軍に会った翌朝だった。
扉を開けると、エリアスが地図を広げた机の前に立っていた。振り返りもせずに言った。
「遅い」
「呼ばれた時刻の五分前です」
「準備は十分前に終わらせておくものだ。座れ」
椅子は一脚しかなかった。アルスが座ると、エリアスは地図を指差した。
「今の戦線の状況を説明してみろ。知っている範囲で構わない」
アルスは地図を見た。帝国の東部国境から、聖王国の侵攻経路が赤い線で引かれている。いくつかの地点に旗の印がある。
「聖王国軍の主力は、ここ、カルマ街道を南下しています。目標はおそらく帝国東部の要衝、ランドール城塞でしょう。ランドールを落とせば、帝国東部の防衛線が崩れる」
「続けろ」
「ただ、主力の南下と並行して、別動隊が国境沿いの小村を順に制圧しています。カルデンもその一つでした。これは補給線の確保が目的だと思われます。主力部隊が深く入り込む前に、後方の安全を固めている」
エリアスは少しの間、黙っていた。
「正しい。では、帝国側の対応は」
「現状は後手に回っています。辺境守備隊は各所の火消しに追われていて、主力がどこにいるかの情報が、少なくとも前線には届いていません」
「情報が届いていない、というのは何故だと思う」
アルスは少し考えた。「伝令の系統が整備されていないか、整備されていても機能していないか」
「両方だ」エリアスは机に手をついた。「帝国軍の情報伝達は、指揮系統に沿って上から下へ流れる。現場の情報が上に届くまでに時間がかかり、上からの指示が下に届くまでにまた時間がかかる。その間に状況が変わる。戦場というのは、常にその繰り返しだ」
「では、どうすれば」
「お前ならどう考える」
アルスは、答えを急がなかった。
頭の中で、戦術論の一節を反芻した。古い言葉だったが、妙に引っかかっていた部分だ。情報は水と同じで、高いところから低いところへ流れる。将が水を上から注ぐのではなく、現場から湧き出る水を集める仕組みを作れ。
「現場から情報を吸い上げる独立した経路を作る、ということでしょうか。指揮系統とは別に」
エリアスは、初めてアルスの方を真っ直ぐ見た。
「その発想はどこから来た」
「本です。戦術論の一節です」
「どの戦術論だ」
「題名がわからないんです。表紙が剥がれていて」
エリアスは眉をひそめた。「内容を覚えているか」
「ほとんど全部」
「……そうか」副官は何か言いかけて、止めた。それから静かに言った。「その本、後で見せろ。話を戻す」
それからの二週間、アルスはエリアスの元で、本では学べなかったことを叩き込まれた。
最初に教えられたのは、兵站の計算だった。
「一人の兵士が一日に必要な食糧は何グラムか」エリアスは言った。
「わかりません」
「これを知らなければ、どんな作戦も絵空事だ。三千の兵を十日間動かすのに、どれだけの荷馬車が必要か。その荷馬車を動かす馬は何頭か。馬に必要な飼料は。輸送路の道幅は荷馬車が並走できるか。雨が降ったら泥道になって速度が落ちる、その場合の予備日数は」
数字が次々と出てきた。アルスは必死に頭に入れた。
「戦記にはこういうことが書かれていませんでした」
「当たり前だ」エリアスは言った。「戦記は英雄の話を書く。荷馬車の数を計算した話を書いても、誰も読まない。しかし戦争で負ける原因の半分は、兵站の失敗だ」
次に教えられたのは、組織の話だった。
百人の兵を動かすのと、千人の兵を動かすのでは、何が違うか。指揮の階層をどう作るか。命令の形式を統一することがなぜ重要か。伝令が誤った情報を持ち帰ったとき、どう検証するか。
アルスは毎晩、天幕に戻ってから今日学んだことを本の余白に書き留めた。三冊の本の余白は、みるみる埋まっていった。
「お前は飲み込みが早い」ある日、エリアスが言った。褒め言葉ではなく、確認するような口調だった。
「本で読んだことと繋がるので」
「それが問題でもある」
「問題ですか」
エリアスは机の上に地図を広げた。「本の知識は、過去の戦場から抽出されたものだ。だが実際の戦場は、常に違う。地形が違う、敵が違う、天候が違う、兵の練度が違う。本の答えを当てはめようとして失敗した将軍を、俺は何人も見てきた」
「わかります」アルスは言った。「だから俺は、本から答えを探すのではなく、考え方を借りているつもりです」
エリアスは少し間を置いた。「考え方、か」
「はい。この状況でこの将軍ならどう考えるか、という問いを立てる道具として使っています。答えは、今の状況から自分で出さなければならない」
エリアスはしばらく黙っていた。
それから、珍しく少し長い沈黙の後に言った。「俺が士官学校で四年かけて学んだことを、お前は独学でやっていたわけだ」
アルスは何も言わなかった。
「羨ましいとは思わない」エリアスは続けた。「ただ、惜しいとは思う。正しい環境で、正しい順序で学んでいれば、お前は今頃どこにいたか」
「辺境の農村にいたと思います」アルスは言った。「機会がなければ、学ぶ場所もありません」
エリアスは、その答えを聞いて何か考えるような顔をした。が、それ以上その話題を続けなかった。
三週間目に、エリアスは初めてアルスを実際の作戦会議に連れて行った。
会議室には将校たちが集まっていた。全員がアルスより階級が上で、ほとんどが貴族か士官学校の出身だった。アルスが入ると、何人かが露骨に顔をしかめた。
「エリアス、これは何だ」一人の将校が言った。三十代、鷹のように鋭い顔立ち。「一兵卒を会議に連れ込むつもりか」
「情報整理担当として同席させます」エリアスは淡々と答えた。「将軍の許可はいただいています」
将校は不満そうだったが、黙った。
会議が始まった。
議題は、聖王国軍の別動隊への対処だった。国境沿いの村を順に制圧している部隊を、どこかで叩く必要があるという点では全員が一致していた。問題は、どこで、どうやって、だった。
「ここで待ち伏せして正面から叩く」一人の将校が地図を指差した。
「この地点は開けた平地だ。待ち伏せには向かない」別の将校が反論した。
「ならここだ」
「補給路から遠すぎる」
議論は噛み合わなかった。
アルスは黙って聞きながら、地図を見ていた。
将校たちの議論を聞きながら、ずっと別のことを考えていた。相手の別動隊は、今どこにいるか。次にどの村を目標にするか。移動の速度から逆算すると、三日後にはどのあたりにいるか。
地理誌の記憶が頭の中で展開した。国境沿いの地形。川の位置。森の広がり。
「エスタ川の渡河点」アルスは思わず口に出した。
会議室が静かになった。
全員がアルスを見た。
「何?」先ほどの将校が、明らかに不快そうな顔で言った。
アルスは一瞬、黙ればよかったと思った。しかし言ってしまった以上、続けるしかない。
「相手の別動隊が次に向かうとすれば、エスタ川沿いのフォルン村です。今の進行速度から逆算すると、三日後の早朝に渡河点を通過するはずです。渡河中は部隊が縦長になり、展開できない。そこを突けば、平地での正面対決を避けられます」
将校たちは互いに顔を見合わせた。
「根拠は」エリアスが静かに言った。試すような口調だった。
「別動隊がこれまでに制圧した村の間隔と、日数から計算しました。一日あたりの移動距離は約十五里。次の目標がフォルン村だとすれば、出発点からの距離は四十五里。三日で到達する計算です」アルスは続けた。「エスタ川の渡河点については、地理誌に記載があります。この時期、水量が増えて渡れる場所が一箇所に絞られます。そこを通らざるを得ない」
沈黙があった。
「地理誌?」先ほどの将校が嘲るような口調で言った。「本の話か。戦場は本の通りには動かんぞ、小僧」
「おっしゃる通りです」アルスは答えた。「外れるかもしれません。ただ、斥候を一組、エスタ川方面に出すだけで確認できます。外れていても損失はない」
将校は何か言おうとしたが、その前にゲオルグ将軍の声が響いた。
「斥候を出せ」
短い、一言だった。
将校は口を閉じた。
二日後、斥候が戻ってきた。
報告は、アルスの読みとほぼ一致していた。別動隊は予想通りエスタ川方面へ向かっており、三日目の早朝に渡河点を通過する見込みだという。
エリアスがアルスのところに来て、無表情のまま言った。
「当たっていた」
「運もあります」
「運だけではない」エリアスはしばらくアルスを見た。「作戦案を出せ。俺が整えて将軍に上げる」
アルスは、布袋から「ハルデン戦役記」を取り出した。
七十年前の渡河阻止作戦のページを開いた。余白に書き込まれた自分の文字が並んでいる。
この状況でこの将軍ならどう考えるか。
頭の中が動き始めた。
エスタ川での作戦は、成功した。
渡河中の別動隊を側面から突き、混乱したところを正面から押した。川が退路を塞ぎ、相手は展開できなかった。損耗は軽微、捕虜を多数確保した。
会議室で嘲った将校は、何も言わなかった。
ゲオルグ将軍は作戦後、一言だけエリアスに言ったという。
「あいつの階級を上げる手続きを始めろ」
エリアスは「少し早くありませんか」と答えた。
将軍は「遅すぎるくらいだ」と言った。
その夜、アルスはロイに話した。
天幕の中で、ロイは黙ってアルスの話を聞いた。それから大きく伸びをして、言った。
「なんか、お前がどんどん遠くに行く気がするな」
「そんなことはない」
「いや、する」ロイは笑った。悲しそうではなく、どこか誇らしそうな顔で。「俺たち、カルデンの前はただの農村の悪ガキだったのに」
「お前は今でも十分悪ガキだ」
「うるさい」ロイは笑い、それから真顔になった。「なあ、アルス。お前、どこまで行くつもりだ」
アルスは少し考えた。
どこまで、という問いに答えはなかった。目標があって動いているわけではなかった。ただ、目の前に考えるべきことがあり、考えれば次の問いが生まれ、その問いを追いかけているだけだった。
「わからない」アルスは正直に言った。「ただ、考えることを止めたくない」
「それだけか」
「それだけだ」
ロイはしばらく黙った。それから、また笑った。
「じゃあ俺は、お前が考えている間、ずっと隣で槍を振るっていてやる」
アルスは、ロイの顔を見た。
何か言おうとして、言葉が出なかった。
代わりに、小さく頷いた。
ロイはそれで十分だというように、天幕の外を見た。
夜空に星が出ていた。辺境の村で見ていた星と、同じ星だった。ただ、見ている場所が少しだけ変わっていた。
まだほんの少しだけ。
しかし確実に、二人は前に進んでいた。
次回もお楽しみに




