第一章 辺境の村と、三冊の本
引き継ぎお楽しみください
帝国の地図を広げると、その東の果てに、ほとんど読めないほど小さな文字で「ベルン村」と記されている。
もっとも、その地図を持っている者が帝都にどれだけいるかは怪しいものだった。辺境の開拓村など、帝国にとっては地図の余白を埋めるための文字に過ぎない。税を納め、兵を差し出し、あとは静かに土を耕していればいい。そういう場所だった。
村には百二十人ほどが暮らしていた。農夫、猟師、鍛冶屋、それから数人の女衆。識字率などという言葉すら存在しない土地で、自分の名前を書ける者は十人もいなかった。
それでも村人たちは、不満を持っていなかった。
知らないということは、時として、幸福に似ている。
アルス・ベルンは、その幸福を持てなかった子供だった。
原因は明白だ。老司祭のせいである。
ガレン・ロースという名のその老人は、もともと帝都の神殿に仕えていたが、何かの不始末――本人は生涯語らなかった――でベルン村に流れ着き、そのまま村の小さな礼拝堂に居着いた。村人たちは彼を「神父様」と呼んで敬ったが、正直なところ、老人が祈りの言葉以外に何を考えているのか、誰も気にしなかった。
ただ一人を除いて。
アルスが初めて礼拝堂の扉を叩いたのは、七歳の冬だった。理由は単純だ。老司祭が持っている「紙に字が書いてある薄い板みたいなもの」が何なのか、どうしても気になって仕方がなかったのだ。
「本だよ」と老司祭は言った。
「本って何ですか」
「言葉を閉じ込めておく箱みたいなものだ。死んだ人間の言葉も、遠くにいる人間の言葉も、ここに入っている」
七歳のアルスは、しばらく黙って考えた。それから顔を上げ、こう言った。
「死んだ人の言葉が聞けるんですか」
「読める者にはな」
「教えてください」
老司祭は驚いたように眉を上げた。そして、長い沈黙の後、静かに笑った。
「座りなさい」
それから六年、アルスは暇さえあれば礼拝堂に通った。
最初の一年は文字を覚えた。老司祭は厳しかった。間違えると膝の上に定規を打ち付けた。それでもアルスは通い続けた。字を覚えた先に、あの「死んだ人間の言葉」が待っているとわかっていたから。
二年目、アルスはようやく本を読み始めた。
最初に読んだのは農業の手引書だった。正直なところ、面白くはなかった。しかし老司祭は「つまらないと感じる本にも、必ず一つは学べることがある」と言い、アルスは渋々最後まで読んだ。後に彼は認めることになる。その本が、「兵站」というものの本質を最初に教えてくれたと。食糧がなければ、人は動けない。それは軍も農場も変わらない。
三年目以降、アルスは老司祭の蔵書を片端から読んだ。
神学書、地理誌、商業の記録、そして――アルスが最も貪るように読んだ――戦記。
帝国建国時の英雄たちの戦い。遠い北方の王国が異民族の侵攻を退けた記録。百年前の大戦役で無名の将が大軍を翻弄した戦術の詳細。アルスは何度も読み返し、余白に自分の考えを書き込み、眠れない夜には天井を見ながら「もし自分がこの将軍だったら」と繰り返し考えた。
老司祭はある日、余白が書き込みで埋まった戦記を見て、静かに言った。
「お前は将軍にでもなるつもりか」
「なれるとは思っていません」アルスは答えた。「ただ、考えることが面白いんです」
老司祭はまた、あの静かな笑みを浮かべた。
アルスが十三歳の春、老司祭は死んだ。
冬の寒さが残る朝、礼拝堂に行くと老人は椅子に座ったまま冷たくなっていた。苦しんだ様子はなかった。眠るように、穏やかな顔で逝っていた。膝の上には一冊の本が開かれていたままだった。
村長が蔵書の処分を決めたとき、アルスは申し出た。
「本を、もらえませんか」
村長は首を傾げた。本の価値がわかる者は村にいない。邪魔になるだけだ、と思っていたのだろう。あっさり頷いた。
アルスが選んだのは三冊だった。
一冊目は地理誌。帝国の地形、河川、主要な街道が記されたもの。
二冊目は「ハルデン戦役記」。七十年前の大戦を生き延びた将軍が書き記した実戦の記録。
三冊目は、表紙が半分剥がれ、題名すら読めなくなった古い本。中身は諸国の戦術論を集めたもので、老司祭が最も大切にしていた一冊だった。
三冊を布袋に入れ、アルスは礼拝堂を後にした。
振り返らなかった。
老司祭が教えてくれたことは、すでに全部、頭の中にある。そう思っていたから。
それから五年が経った。
アルスは十八歳になっていた。背は村の男たちより少し低く、腕っぷしは同い年のロイの半分もない。相変わらず、暇さえあれば本を読んでいた。
そのアルスのもとに、徴兵の令状が届いたのは、春の終わりのことだった。
「戦争だってよ」
ロイ・バロウが牧草地の柵に腰かけながら、妙に明るい声で言った。大柄な身体に、よく日焼けした顔。笑うと目が細くなる、その顔で、今も能天気に笑っていた。
「知ってる」アルスは隣に座り、膝の上の本から目を上げずに答えた。
「お前、怖くないのか」
「怖い」
「全然そう見えないけど」
「見えなくても怖い」アルスは本のページをめくった。「ただ、怖いと思っていても令状は来る。来た以上は行くしかない。それだけのことだ」
ロイは少しの間、黙ってアルスを見ていた。それから盛大にため息をついた。
「お前ってさあ、もやしのくせして、時々すごく腹立つこと言うよな」
「もやしは余計だ」
「だって本当のことじゃないか」ロイは笑い、それから少し真顔になった。「なあ、アルス。お前、その本、戦場に持って行くのか」
アルスは布袋の中の三冊に目をやった。
「ああ」
「役に立つのか、そんなもん」
アルスはしばらく考えた。本当のことを言えば、わからない、だった。本の中の戦いと、これから自分が行く戦場が同じとは限らない。読んだことが全て正しいとも限らない。
それでも。
「死んだ英雄たちが、俺に全部教えてくれた」アルスは静かに言った。「武器は持っていないけど、俺にはこれがある」
ロイはしばらく、その横顔を見つめた。
それから、ぐしゃりと乱暴にアルスの頭を撫でた。
「わかった。じゃあ俺が身体を張るから、お前が頭を使え。二人合わせりゃ一人前だ」
アルスは、本から顔を上げた。
そして珍しく、笑った。
「合わせても一人前かどうか怪しいけどな」
「うるさい」
二人の少年は、そうして並んで笑った。
春の光が、牧草地に傾いていた。
翌朝、彼らは村を出た。
次回もお楽しみに




