第五話
エメリヤンが呼び出されたのは、学術院長と、マシェフスキー公爵家の関係者が立ち会う場だった。
彼は、最初から不満そうな顔をしていた。
「いったい、何の用ですか」
学院長は、机の上に書類を並べた。
「エメリヤン・ゲオルギエヴィチ・タラノフ。君が学術院内で、自分をマシェフスキー公爵家の後嗣と称していた件について、確認したいことがある」
「後嗣であることは事実です」
エメリヤンは、すぐに答えた。
「父上は公爵なのですから」
「ゲオルギーは、公爵ではない」
学院長は、淡々と告げた。
「前公爵エリザヴェータの夫ではあったが、公爵家の当主ではない。そもそも彼はマシェフスキーの血筋ではないから、継承資格を初めから持たない。再婚後は公爵家の籍からも外れている」
「そんなはずはありません!」
エメリヤンは、声を荒らげた。
「父上は、ずっと公爵家にいらっしゃった。僕は、父上の跡を継ぐのです!」
「君の父親がどこに住んでいたかということと、爵位を持っているかどうかは別の話だ」
学院長は、記録を指し示した。
「ここに、正式な記録がある。マシェフスキー公爵家の当主は、アデライーダ・ゲオルギエヴナ・マシェフスカヤ公爵だ」
エメリヤンは、書類を見ようともしなかった。
「姉上が公爵になったのは、父上がそう認めたからでしょう」
その言葉に、立ち会っていた者たちの表情が変わった。
エメリヤンは、自分の姉が公爵だとは考えていなかった。彼の認識では、父ゲオルギーこそが公爵であり、自分はその跡を継ぐ者だった。姉が公爵家にいるのは、父の娘だからであり、父の決定によって家の中で役割を与えられているのだと思っていた。
彼は、自分が何を知らないのかさえ、理解していなかった。
「君は、学術院に入学してから、何年も学んできたはずだ」
学院長は、声を落とした。
「正式な記録を確認することも、私に尋ねることも出来た。だが、君は自分の立場を疑わず、後嗣であると称し続けた」
「父上と母上が、そう仰っていたのです!」
「幼いころに、そう教えられたこと自体を責めているのではない」
学院長は、きっぱりと言った。
「しかし、君はもう幼い子どもではない。学術院に通い、知識を得る機会があった。自分の身分に関わることを確認する責任は、君自身にもあったのだ」
エメリヤンは、口を閉じた。彼は、父と母の言葉を信じていた。それは事実だった。だが、彼は、自分にとって都合のよい言葉を疑おうとしなかった。
自分は後嗣である。いつか公爵家を継ぐ。そう思っていれば、姉の下にいることも、学術院で周囲に気を遣われることも、自分が将来の当主として扱われているのだと解釈できた。
その考えが間違っている可能性を、彼は考えなかった。
「君の処分については、学術院の規則に従って判断する」
学院長は続けた。
「平民であること自体は、退学の理由にはならない。しかし、虚偽の身分を主張し、他の学生に誤った認識を与え、不当な態度を取ったことについては、別の問題だ」
「僕は、嘘をついたつもりはありません!」
「君が嘘をついたつもりだったかどうかだけで、判断するわけにはいかない」
学院長は、報告書を閉じた。
「君が自分の立場を確認せず、事実ではないことを周囲に主張し続けた。その結果、他の学生に誤解を与えた。それについて、責任を取ってもらう」
エメリヤンは、唇を噛んだ。
彼は、これまで、自分が公爵家の後嗣であることを疑ったことがなかった。エウゲーニーも、自分を将来の側近として扱っていた。彼は、自分が王太子の近くに立つ人間なのだと思っていた。
その未来が、今、目の前で崩れていく。自分は公爵家の後嗣ではない。父は公爵ではない。自分は、マシェフスキー姓を名乗る立場にもない。エウゲーニーが将来、王太子として即位することもない。
彼が思い描いていた未来は、全て、誰かの言葉を疑わずに信じたことから生まれた幻想だった。エメリヤンは、その事実を受け入れられなかった。
だが、受け入れられないからといって、現実が変わるわけではなかった。
エメリヤンの処遇が決まったあと、ゲオルギーとアセルにも、事実が伝えられた。ゲオルギーは、自分が公爵家の籍から外れていることを、改めて正式な記録によって確認させられた。彼は、かつてエリザヴェータの夫としてマシェフスキー公爵家に身を置いていた。だが、当主ではなかった。再婚した時点で、公爵家の籍からも外れている。公爵でも、公爵代理でもない。
アセルもまた、自分が公爵夫人ではないことを認めざるを得なかった。二人は、エメリヤンが公爵家を継ぐという未来を信じていた。その未来が、最初から存在しなかったと知らされたのである。
但し、アデライーダは、彼らを必要以上に追い詰めるつもりはなかった。彼らが自分たちの誤認を支えてきた背景には、身分や立場についての誤った理解があった。それを正すことは必要だ。
だが、彼らを見せしめのために辱めることが、アデライーダの目的ではなかった。彼女は、エメリヤンを公爵家の後嗣として扱うことはない。
それだけは、はっきりしていた。
カミラは、自分の訴えが正式に確認されると聞いたとき、最初は安堵していた。
エウゲーニーが、自分の言葉を信じてくれると思っていたからだ。アデライーダは自分を虐めている。エウゲーニーは、それを理解してくれた。ならば、いずれ彼はアデライーダとの婚約を解消し、自分を正式な妻として迎えてくれるのではないか。カミラは、そう期待していた。
しかし、学院長から事実確認の結果を伝えられたとき、その期待は崩れた。
アデライーダがカミラを虐めていたという訴えは、複数の報告者の証言や記録と一致しなかった。カミラが不快に感じたことや、思いどおりにならなかったことはあったのかもしれない。だが、それをもって、アデライーダが不当に彼女を虐げていたと断定することは出来なかった。
カミラは、言葉を失った。
「私は、本当に傷ついたのです!」
彼女は訴えた。
「アデライーダ様は、私に冷たかったのです!」
「君が傷ついたと感じたことそのものを、否定しているわけではない」
学院長は、落ち着いて答えた。
「しかし、君が不快に感じたことと、相手が君を虐めたという事実は、同じではない。君は、自分の訴えを裏付けるために、何を確認したのかね」
カミラは、答えられなかった。
彼女は、アデライーダが自分に冷たいと感じた。だから、アデライーダは自分を虐めているのだと思った。
エウゲーニーに訴えれば、彼は自分を守ってくれる。彼がアデライーダとの婚約を解消すれば、自分がその場所に入れる。そう考えていた。
だが、彼女は、自分の感じたことが事実と一致するのか、確かめようとしなかった。アデライーダが何を考えていたのか、彼女の立場がどういうものなのか、知ろうともしなかった。そして、彼女が自分の望みを叶えるために、他人を悪者に仕立て上げたことは、身分や教育環境の不足によって正当化されるものではなかった。
カミラは、学術院の規則に基づく処分を受けることになった。その内容は、平民の出身であることや、十分な教育を受けてこなかったことを理由とするものではない。虚偽の訴えによって他者の名誉を損ない、事実確認を怠ったまま周囲に誤解を広げたことに対するものだった。父である男爵からも、厳しく叱責された。
カミラは、自分が望んでいた未来を失った。けれど、そもそも彼女が期待していた地位は、最初から約束されていたものではなかった。
エウゲーニーは王太子ではない。アデライーダは、彼女が思い描いていたような、婚約者に選ばれただけの公爵令嬢ではない。
そして、カミラ自身も、誰かを貶めることで、その人の場所を自分のものに出来るわけではなかった。
全ての手続きが進んだあと、エウゲーニーは、もう一度だけアデライーダと話す機会を求めた。
ヴィクトーリヤは、姪の意思を確認した。
「会いたくないのであれば、断ってもよいのよ」
「分かっています、叔母上」
アデライーダは、静かに答えた。
「短い時間であれば、構いません」
それは、復縁の可能性を残すためではなかった。幼馴染だった相手との関係に、自分自身で区切りをつけるためだった。
面談の場に現れたエウゲーニーは、以前よりも落ち着いていた。彼は、アデライーダを見ると、深く頭を下げた。
「……君に、謝りたい」
「お話を伺います、殿下」
彼は、暫く言葉を探した。
「僕は、自分が王太子だと思い込んでいた。エメリヤンの言葉を信じて、彼が公爵家の後嗣だと誤解していた。カミラの訴えを確かめず、君を責めた」
彼は、一度、息をついた。
「そして何より、君が何を言おうとしていたのか、聞こうとしなかった」
アデライーダは、黙って聞いていた。
「君が何度も説明しようとしていたことを、今なら解る」
エウゲーニーの声は、少し震えていた。
「僕は、自分が信じたいことばかりを信じていたんだ。君が何を言っても、エメリヤンやカミラの言葉のほうが正しいと思い込んでいた」
彼は、再び頭を下げた。
「本当に、すまなかった」
その謝罪には、嘘がなかった。
アデライーダは、彼が自分の過ちを認めていることを理解した。
彼は、以前よりも多くのことに気づいている。自分が何を知らなかったのか。何を確かめなかったのか。そして、誰の言葉を聞かなかったのか。彼は、漸くそれを認めたのだ。
だからこそ、彼女は、その謝罪を否定しなかった。
「……謝罪は、受け止めました」
アデライーダは、静かに言った。エウゲーニーは、少しだけ顔を上げた。
「それなら、もう一度やり直せないだろうか」
その言葉に、アデライーダは目を伏せた。
「僕は変わる。これからは、君の話をきちんと聞く。君を信じる。もう、同じことはしない」
彼は、彼女の反応を待った。
「僕たちは幼馴染だったじゃないか。君だって、僕を嫌いだったわけじゃないだろう?」
そこに、彼の甘えがあった。
彼は、自分が間違っていたことを認めた。だが、そのことによって、アデライーダにもう一度機会を与えてもらえると期待していた。彼女がかつて自分を大切に思っていたことを知っているからこそ、その情に頼ろうとしていた。
アデライーダは、幼いころのエウゲーニーを思い出した。一緒に庭を歩いたこと。彼が「デーリャ」と呼んでくれたこと。恋愛感情がなくとも、家族になれればよいと思っていたこと。その思い出は、嘘ではない。だからこそ、彼女は、過去そのものを否定しなかった。
「殿下を嫌いだったわけではありません」
アデライーダは、静かに答えた。
「幼いころは、殿下と家族になれればよいと思っていました。恋愛感情がなくとも、互いに信頼し、支え合える夫婦になれると思っていたのです」
エウゲーニーは、彼女を見つめていた。
「けれど、私は殿下に信じてもらえませんでした」
彼は、何か言おうとした。しかし、言葉が出なかった。
「私は、殿下が反省なさったことを疑っているわけではありません」
アデライーダは続けた。
「今のお言葉が、心からのものだということも判ります」
彼女は、彼を責めるために話しているのではない。彼が反省したことを否定するつもりもなかった。ただ、そのことと、自分が彼と結婚することは別なのだ。
「けれど、反省したからといって、失われた信頼が元に戻るわけではありません」
アデライーダは、まっすぐに彼を見た。
「私は、殿下を許すことは出来るかもしれません。けれど、殿下を再び信じて、夫として人生を預けることは出来ないのです」
エウゲーニーは、何も言えなかった。
彼は、謝罪すれば、少しずつでも元の関係に戻れると思っていた。自分が間違っていたと認めれば、彼女も理解してくれる。長年の友情があるのだから、やり直す機会を与えてくれる。そう期待していた。
けれど、アデライーダは、彼の反省を認めたうえで、婚約を継続しないと告げている。彼女は、彼を嫌っているわけではない。だからといって、彼を夫にする必要もない。
その違いが、漸く彼にも見え始めていた。
「……それなら、いつかは」
エウゲーニーは、声を絞り出した。
「いつか、僕をもう一度信じてくれる可能性はないのか?」
アデライーダは、すぐには答えなかった。
彼は、まだ完全には諦められないのだ。反省した自分には、未来の可能性を残してほしい。いつか変わった自分を見て、彼女がもう一度、心を開いてくれることを期待している。その願いが、彼の中に残っている。
アデライーダは、曖昧な希望を与えなかった。
「それを、私に約束させないでください」
彼女の声は、静かだった。
「殿下がこれからどのような方になるのかは、殿下ご自身の問題です」
「……」
「私は、殿下が正しく学び、立派な人間になられることを妨げるつもりはありません」
彼女は、言葉を切った。
「けれど、その先に私がいることを、当然だと思わないでください」
エウゲーニーは、黙った。
彼女は、自分の反省を否定していない。彼がこれから変わる可能性も、否定していない。ただ、変わった自分への褒賞として、アデライーダを求めることは許さないのだ。
彼が今後、立派な人間になったとしても、それは彼自身が果たすべき責任である。アデライーダが与える報酬ではない。そのことを、彼は漸く理解し始めていた。
面談は、それ以上続かなかった。
アデライーダは立ち上がり、退出しようとした。
「デーリャ」
エウゲーニーが、思わず彼女を呼び止めた。
幼いころと同じ呼び方だった。アデライーダは、足を止めた。ほんの一瞬だけ、懐かしさが胸をよぎる。けれど、彼女は振り返り、静かに答えた。
「何か、ご用でしょうか。殿下」
それだけだった。
彼女は、もう彼を「イェーニャ様」と呼ばない。
エウゲーニーも、二度と彼女を「デーリャ」と呼ぶことは出来ないのだと理解した。




