第四話
アデライーダは、王宮へ向かう馬車の中で、窓の外を眺めていた。見慣れた王都の街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。
彼女は、いつものように公爵としての礼装を身につけていた。装飾は控えめだが、仕立てのよい衣装である。胸元には、マシェフスキー公爵家の紋章が飾られていた。
母エリザヴェータが亡くなってから、長い年月が過ぎた。八歳で爵位を継いだとき、彼女はまだ、当主という立場の重さを十分には理解していなかった。けれど、母は彼女に多くのことを教えてくれた。公爵家が何を守るべきなのか。領民の暮らしを支えるとは、どういうことなのか。家臣たちの言葉を聞き、必要なことを確かめ、判断を下すとは、どういうことなのか。
母は、何度も言っていた。分からないことがあれば、尋ねなさい。知らないことがあれば、調べなさい。そして、誰かが何かを訴えたときには、その言葉を聞くだけで終わらせず、必要なことを確かめなさい。
人を疑うためではない。誰かを傷つけないために。
アデライーダは、その教えを忘れたことはなかった。
だからこそ、エウゲーニーの行動は、彼女にとって理解しがたいものだった。彼は、幼いころから自分を知っていた。 自分がどのような人間なのか、何を大切にしているのか、少なくとも、他の誰よりも知る機会があったはずだった。それなのに、彼は、短い付き合いのエメリヤンやカミラの言葉を信じた。自分が何を言っても、彼は耳を貸さなかった。
彼女は、最初からエウゲーニーを嫌っていたわけではない。恋愛感情はなかった。けれど、互いに信頼し、支え合える家族になれるのなら、それでよいと思っていた。幼いころの友情を、夫婦になってからも大切にしていけると考えていた。
しかし、彼は、自分がその関係を守るために必要なことをしなかった。相手の言葉を聞くこと。判らないことを確かめること。そして、自分が間違っている可能性を考えること。それらをしないまま、自分の信じたい話を選んだ。
アデライーダは、窓の外から視線を戻した。
馬車は、王宮の門をくぐろうとしていた。今日、彼女はエウゲーニーと会う。彼が何を言うのかは、まだ判らない。
謝罪するのだろう。事情を説明するのだろう。或いは、自分が知らなかったことを理由に、何かを訴えるのかもしれない。
けれど、彼がどのような言葉を口にしたとしても、彼女の意思は変わらなかった。婚約を解消する。それは、彼を罰するためではない。自分自身の人生を、自分で決めるためだった。
王妃の執務室には、ヴィクトーリヤとエウゲーニーが待っていた。
アデライーダが入室すると、二人が立ち上がる。
「おはようございます、王妃陛下」
「おはよう、デールシュカ。来てくれてありがとう」
ヴィクトーリヤは、姪に微笑みかけた。
「殿下」
アデライーダは、エウゲーニーにも礼をした。エウゲーニーは、その呼び方に、僅かに顔を強張らせた。以前なら、彼女は自分を「イェーニャ様」と呼んでいた。今は、ただ「殿下」だった。
アデライーダは、彼の表情に気づいていたが、何も言わなかった。
「こちらへ」
ヴィクトーリヤに促され、アデライーダは席についた。
机の上には、マシェフスキー公爵家の爵位継承に関する記録が用意されていた。ヴィクトーリヤは、その書類を開いた。
「まず、確認しておきましょう。アデライーダが八歳で爵位を継いだこと。私が後見人に指名されたこと。いずれも正式な記録に残っています」
彼女は、エウゲーニーのほうを見た。
「ゲオルギーは、公爵ではありません。再婚後は公爵家の籍からも外れています。ゲオルギーの庶子でありマシェフスキーの血を持たぬエメリヤンに、マシェフスキー公爵家を継ぐ権利はありません」
エウゲーニーは、唇を引き結んだ。
アデライーダは、彼の表情を見ていた。彼が自分を公爵令嬢だと思っていたことは、既にヴィクトーリヤから聞いていた。その事実に、驚きがなかったわけではない。彼女にとって、自分が公爵であることは、幼いころからの当たり前だった。母が亡くなり、爵位を継いでからは、その責任を果たすために学び続けてきた。学術院でも、公爵として扱われていた。
エウゲーニーが知らなかったということは、彼が自分のことをほとんど知ろうとしていなかったということだった。それは、思っていた以上に悲しいことだった。
けれど、今ここで、彼を責め立てるつもりはなかった。彼が何を知らなかったのか。何を誤解していたのか。
それらは、これから彼自身が向き合わなければならない問題だ。
アデライーダは、彼を見た。
「殿下。お話があるのでしょう?」
エウゲーニーは、はっとしたように顔を上げた。
「……ああ。うん」
彼は、何度か言葉を探した。
「僕は、君のことを誤解していた」
漸く口にした言葉は、思っていたよりも小さかった。
「エメリヤンの言うことを信じてしまった。カミラの訴えを聞いて、君に事情を尋ねなかった」
アデライーダは、黙って聞いていた。
「君が何を言おうとしていたのか、きちんと聞くべきだった。君の言葉を確かめる前に、僕は、君が間違っていると決めつけていた」
エウゲーニーは、深く頭を下げた。
「本当に、すまなかった」
その謝罪に、嘘はなかった。アデライーダには、それが分かった。彼は、以前よりも自分の過ちを理解している。少なくとも、全てをエメリヤンやカミラの責任にして済ませようとはしていなかった。
彼は、自分が間違っていたことを認めている。だからこそ、アデライーダは、彼の謝罪を受け止めようと思った。
「……でも」
エウゲーニーは、顔を上げた。
「君も、僕に説明してくれればよかったんだ」
アデライーダは、瞬きをした。
「僕は、君が公爵だということも知らなかった。エメリヤンが後嗣ではないことも、知らなかったんだ。君が何も言ってくれなかったから、僕は……」
言葉が続かなかった。彼自身、今の言葉が、先ほどの謝罪と矛盾していることに気づいたのだろう。
アデライーダは、静かに息を吐いた。
「私は、何度も説明しようとしました」
声を荒らげることはなかった。
「殿下は、そのたびにエメリヤンやカミラの言葉を優先されました」
「……」
「私は、殿下が何も知らないことを責めているのではありません。知らないことを確かめようともせず、私の言葉を聞こうとしなかったことを申し上げているのです」
エウゲーニーは、言葉を失った。
自分は、彼女が何も説明しなかったのだと思っていた。けれど、彼女は説明しようとしていた。自分が、それを聞かなかったのだ。
その事実を、今度こそ認めなければならなかった。
「……それでも、僕たちは幼馴染じゃないか」
エウゲーニーは、苦しそうに言った。アデライーダは、彼を見つめた。
「ええ。幼馴染でした」
彼女は、静かに答えた。
「だからこそ、私は殿下を信じていました」
その言葉は、エウゲーニーの胸に深く刺さった。
彼女は、過去の友情を否定していない。幼いころの思い出を、嘘だったことにしているわけでもない。彼女は、確かに自分を信じていた。
だからこそ、今の拒絶があるのだ。
ヴィクトーリヤは、二人のやり取りを静かに見守っていた。
エウゲーニーが、自分の過ちを認め始めたことは分かる。けれど、彼の謝罪には、まだ甘えが残っていた。自分が知らなかったのだから、アデライーダにも説明する責任があったのではないか。幼馴染なのだから、もう一度やり直せるのではないか。
そうした期待が、彼の言葉の端々に見え隠れしている。それでも、ヴィクトーリヤは、彼を急かさなかった。
反省とは、一度の叱責で完成するものではない。但し、アデライーダに、その成長を待つ義務はない。
「アデライーダ」
ヴィクトーリヤは、姪に向き直った。
「婚約解消について、改めて貴女の意思を確認したいの。今も、その意思に変わりはありませんか」
「はい」
アデライーダは、迷いなく答えた。
「私は、エウゲーニー殿下との婚約を解消したいと考えております」
エウゲーニーが、顔を上げた。
「待ってくれ。僕は、反省しているんだ」
「そのことは、理解しております」
「もう二度と、同じことはしない。これからは、君の話をきちんと聞く。君を信じる」
彼は、必死に言葉を重ねた。
「だから、婚約を続けることは出来ないだろうか」
アデライーダは、暫く黙っていた。彼が反省していることは、分かる。今後、彼が変わる可能性もあるだろう。けれど、それは、彼と婚姻関係を結ぶかどうかとは別の問題だった。
「殿下が反省なさったことは、理解いたしました」
アデライーダは、落ち着いた声で言った。
「けれど、反省なさったからといって、私が殿下を夫にしなければならない理由にはなりません」
エウゲーニーは、息を呑んだ。
「私は、殿下を許すことと、殿下を再び信じることを、同じには考えられないのです」
彼女は、言葉を選びながら続けた。
「殿下が今後、正しく学び、他人の言葉をきちんと聞き、責任ある行動を取られるようになることは、よいことだと思います。けれど、それによって、私が失った信頼が自動的に戻るわけではありません」
「……」
「私は、殿下に変わっていただくために婚約を続けるのではありません。私自身が、殿下と結婚したいと思えないのです」
ヴィクトーリヤは、静かに頷いた。
「解りました。貴女の意思を尊重します」
彼女は、用意されていた書類を手元に引き寄せた。
「婚約解消の手続きは、王家とマシェフスキー公爵家の婚約規則に従って進めます。私が後見人として必要な確認を行い、正式な承認を整えます」
それは、王妃が一方的に決めることではなかった。
アデライーダ自身が、婚約を解消すると決めたのだ。ヴィクトーリヤは、その意思を尊重し、必要な手続きを進める。
エウゲーニーは、机の上の書類を見つめていた。そこには、彼が思い描いていた未来を取り戻すための言葉は、どこにもなかった。
婚約解消の手続きが進むなか、ヴィクトーリヤはエウゲーニーに、今後の立場について改めて説明した。
彼には、王位継承権がない。第一王子ではあるが、王太子ではない。婚約解消によって、マシェフスキー公爵家の婿となる将来も失われる。但し、王族としての身分そのものが、自動的に消えるわけではなかった。
「貴方には、王族として学び直してもらいます」
ヴィクトーリヤは告げた。
「自分の立場を正しく理解し、王族として何をすべきなのか、改めて学びなさい。これまでの教育に不足があったのなら、今から補えばよいのです」
エウゲーニーは、静かに頷いた。
王太子ではなかった。アデライーダは、自分が思っていたような公爵令嬢ではなかった。エメリヤンは、公爵家の後嗣ではなかった。
自分が信じていた未来は、最初から存在していなかったのだ。それでも、自分の行動によって失ったものがあることは、変わらない。
エウゲーニーは、漸くそのことを認め始めていた。




