第三話
暫くの間、エウゲーニーは顔を上げられなかった。
ヴィクトーリヤの問いは、彼が想像していたどの叱責よりも、答えにくいものだった。
何故、アデライーダを信じなかったのか。彼女は幼馴染だった。幼いころから親しくしていた。互いの性格を知っていたはずだった。それなのに、彼は彼女の言葉を聞かなかった。
エウゲーニーは、何か言わなければと思った。
「……彼女が何も説明してくれなかったからです」
漸く口にした言葉は、自分でも頼りなく聞こえた。
「何も?」
「僕が、彼女は公爵だと知らなかったことも。エメリヤンの父上が公爵ではないことも。彼女は、僕に何も言いませんでした」
ヴィクトーリヤは、すぐには答えなかった。その沈黙を、エウゲーニーは自分への非難だと感じた。
「……僕は、知りませんでした。だから、エメリヤンが後嗣だと信じていたのです」
「そう」
ヴィクトーリヤは、静かに頷いた。
「では、貴方は、マシェフスキー公爵家の後嗣を決めるのが誰なのか、知っている?」
「……公爵家の当主、ではないのですか」
「そうです」
「ならば、エメリヤンの父上が……」
「ゲオルギーは、当主ではありません」
エウゲーニーは口を閉じた。
「アデライーダが八歳で爵位を継いだことは、正式な記録に残っています。貴方が知らなかったとしても、記録が存在しないわけではありません。学術院でも、彼女は公爵として扱われています」
「ですが、僕は……」
「知らないことがあるのは、恥ではありません」
ヴィクトーリヤは、彼の言葉を遮った。
「誰にでも、知らないことはあるわ。問題は、知らないことをどうするかです」
彼女は、机の上の報告書を指先で揃えた。
「貴方は、知らないことを確かめなかった。自分の認識が正しいのか、誰かに尋ねることもしなかった。そのまま、自分の判断が正しいものとして振る舞った」
「……」
「そして、その判断によって、アデライーダを傷つけた」
エウゲーニーは、反論できなかった。
彼は、自分が何も知らなかったことを理由にしたかった。知らなかったのだから、間違えるのも仕方がない。そう言えば、全てが少しだけ軽くなるような気がした。
けれど、ヴィクトーリヤは、その逃げ道を塞ぐように言った。
「貴方は、知らなかったことを責められているのではないの」
彼女の声は、厳しくも落ち着いていた。
「知らないことを知ろうとしなかったこと。そして、知ろうともしないまま、他人を裁いたことを問われているのよ」
エウゲーニーは、俯いた。
彼は、カミラを助けたいと思っていた。エメリヤンを信頼していた。その気持ちが嘘だったとは思わない。
しかし、その二人を信じるために、彼は何をしたのだろう。カミラが泣いていたから、彼女の訴えを信じた。エメリヤンが自信を持って語ったから、その身分を信じた。どちらも、自分にとって納得しやすい話だった。
一方で、アデライーダが否定すると、彼は彼女が自分に隠し事をしているのだと考えた。彼女が説明しようとすれば、言い訳をしているのだと思った。何故なら、彼は既に、彼女が悪いのだと信じていたからだ。
「……僕は、彼女を知っていたつもりでした」
エウゲーニーは、ぽつりと言った。
「そうでしょうね」
ヴィクトーリヤは答えた。
「でも、知っていると思うことと、相手を知ろうとし続けることは違うのよ」
その言葉に、エウゲーニーは顔を上げた。
幼いころのアデライーダが、脳裏に浮かぶ。庭の小道を並んで歩いたこと。彼女が本を抱えて、難しい言葉の意味を尋ねてきたこと。彼が失敗したとき、彼女が笑いながら励ましてくれたこと。彼女が公爵家の勉強に疲れていると知ったとき、何とか元気づけようとしたこと。
彼は、あのころの彼女を知っていた。けれど、今の彼女を知ろうとしていただろうか。彼女が忙しくしている理由を、きちんと尋ねたことがあっただろうか。彼女が何を考え、どのような責任を背負っているのか、知ろうとしたことがあっただろうか。
エウゲーニーは、答えられなかった。
幼いころ、エウゲーニーはアデライーダを「デーリャ」と呼んでいた。アデライーダは、彼を「イェーニャ様」と呼んでいた。彼女の母エリザヴェータが存命だったころ、二人はよく一緒に過ごした。
エウゲーニーは、アデライーダが公爵家の跡を継ぐための勉強をしていることを知っていた。彼女はまだ幼かったが、母親の隣で領地のことを学び、家臣たちの報告を聞くこともあった。
彼には、その様子が少し不思議だった。自分は王族の子どもとして育てられていたが、難しいことを学ぶ時間は、アデライーダほど多くなかった。それでも、彼女が勉強に疲れているときは、少しでも気分転換になるようにと考えた。
「デーリャ、そんなに難しい顔をしていたら、眉間に皺が出来るよ」
「イェーニャ様だって、さっきから同じところを読んでいるじゃないですか」
「それは……」
「解らないところがあるのでしょう?」
アデライーダは、くすりと笑った。彼は、むっとしたふりをして本を閉じた。
「解っているよ。少し考えていただけだ」
「では、私にも教えてくださいませ」
彼女は、悪戯っぽく笑った。
エウゲーニーは、仕方がないなという顔をしながら、彼女の隣に座った。
彼女が解らないところを説明しているうちに、自分も理解できていない部分があると気づくこともあった。そのたびに、二人で本を読み直した。
アデライーダは、解らないことを恥ずかしがらなかった。知らないことがあれば、尋ねた。間違っていれば、訂正してもらおうとした。
エウゲーニーは、そんな彼女を、賢いと思っていた。彼女は、何でも出来る完璧な少女ではなかった。疲れて不機嫌になることもあったし、思うようにいかずに拗ねることもあった。
けれど、彼女は自分の間違いを認めることが出来た。そして、相手の話を聞くことが出来た。彼は、そのことを知っていたはずだった。
いつから、彼女が変わってしまったと思うようになったのだろう。いつから、彼女が自分に説明してくれないのだと考えるようになったのだろう。いつから、彼女の言葉よりも、エメリヤンやカミラの言葉を信じるようになったのだろう。
思い返そうとしても、はっきりとした境目は見つからなかった。ただ、気づけば彼は、自分にとって都合のよい言葉を信じるようになっていた。
「……僕は、王太子ではないのですか」
エウゲーニーの声に、ヴィクトーリヤは意識を戻した。
「そうです」
「ですが、僕は第一王子です」
「第一王子であることと、王太子であることは違います」
「母上は……」
彼は言いかけて、口を閉じた。実母ゾーヤの顔が浮かんだ。母は、彼を誇りにしていた。第一王子であることを、何度も喜んでいた。いずれ王太子となり、王位を継ぐのだと語っていた。エウゲーニーは、その言葉を信じていた。
「母上は、僕が王位を継ぐのだと……」
「ゾーヤは、そう信じていたのでしょう」
ヴィクトーリヤは、母親を一方的に責めるような言い方はしなかった。
「けれど、王位継承は、第一王子という出生順だけで決まるものではありません。貴方には王位継承権がないのです」
エウゲーニーは、目を伏せた。ヴィクトーリヤは、暫く彼を見つめてから、続けた。
「私は貴方を、アリスタルフと同じように大切に育てたつもりだったわ」
その声には、微かな痛みがあった。
「けれど、貴方が何を教わり、何を学び、何を信じるようになったのか。私が全てを見ていられたわけではない」
彼女は、自分の責任を否定しなかった。
王妃として、幼いエウゲーニーに必要な教育を十分に受けさせることが出来なかった可能性はある。彼が実母のもとで過ごす時間が増えたとき、もっと注意を払うべきだったのかもしれない。
だが、全てを王妃の責任にすることも出来なかった。
「だからこそ、貴方自身が学ばなければならなかったのよ」
エウゲーニーは、胸の奥が重くなるのを感じた。
自分の立場が、思っていたものとは違っていた。自分が信じていた未来は、最初から確かなものではなかった。けれど、それを知らなかったことだけで、今までの自分の行動が全て許されるわけではない。
彼は、漸くそのことを理解し始めていた。
「僕は、アデライーダに説明を求めたことがあります」
エウゲーニーは、ふと思い出したように言った。
「カミラが虐められていると訴えたとき、僕は彼女に理由を聞きました」
「そのとき、アデライーダは何と答えたの?」
「……彼女は、カミラの話は事実ではないと言いました」
「それで?」
「僕は、カミラが嘘をつくとは思えないと……」
ヴィクトーリヤは、静かに頷いた。
「つまり、アデライーダが何を言っても、貴方はカミラの話を信じていたのね」
「……」
「それでは、説明を求めたことにはならないわ」
エウゲーニーは、顔を上げた。
「ですが、僕は、彼女の話を聞こうと……」
「貴方は、何を知りたかったの?」
その問いに、彼は言葉を失った。
カミラが虐められた理由を知りたかったのだろうか。アデライーダが何をしたのか、確かめたかったのだろうか。それとも、自分が既に信じていることを、彼女にも認めさせたかったのだろうか。
彼は、思い返した。カミラが涙を浮かべて訴えたとき、彼はすぐにアデライーダのもとへ向かった。そして、彼女に問い詰めた。
どうしてカミラを傷つけたのか。どうして、そんなことをするのか。アデライーダは、驚いた顔をしていた。
『私は、カミラ様を虐めてなどおりません』
彼女は、そう言った。
『何があったのか、まずはお話を聞いてください』
けれど、彼は聞かなかった。
『カミラは、そんな嘘をつく人ではない』
そう言ってしまった。
アデライーダは、少しだけ黙った。それから、彼に説明しようとした。カミラと交わした会話のこと。学術院で起きた出来事のこと。自分がどのような対応をしたのか。彼女は、ひとつずつ説明しようとしていた。
しかし、エウゲーニーは、途中で言葉を挟んだ。それは、カミラが悪いという意味なのか。カミラが嘘をついたと言いたいのか。自分がカミラを庇ったから、怒っているのか。
彼は、彼女の説明を聞きながら、次に何を言い返すかを考えていた。彼女の言葉を理解しようとはしていなかった。その事実が、今になって、はっきりと見えてきた。
「……僕は」
エウゲーニーは、ゆっくりと言った。
「僕は、彼女の話を聞いていなかったのかもしれません」
ヴィクトーリヤは、すぐには答えなかった。彼が、自分の過ちに気づき始めたことは解った。けれど、それで十分だとは思わなかった。
「ええ。そうなのでしょうね」
彼女は、静かに言った。
「貴方は、アデライーダの説明を求めたつもりだった。でも、本当に求めていたのは、彼女が自分の間違いを認めることだったのではないかしら」
エウゲーニーは、反論できなかった。
彼は、自分が正しいと思っていた。だから、彼女が否定すれば、彼女が間違っているのだと考えた。自分の考えが間違っている可能性を、真剣に考えたことがなかった。
それは、彼が意地悪な人間だったからではない。自分が信じたいことを信じ、疑うべきことを疑わなかったからだ。そして、その責任は、彼自身にもあった。
それでも、エウゲーニーの胸のどこかには、まだ小さな抵抗が残っていた。アデライーダが、もっと強く説明してくれれば。自分が知らないことを、彼女が教えてくれれば。
そうすれば、こんなことにはならなかったのではないか。その考えは、口には出さなかった。
けれど、彼の中から完全に消えたわけではなかった。
「……アデライーダは、本当に婚約を解消したいと言っているのですか」
暫くして、エウゲーニーは尋ねた。
「ええ」
「僕と、結婚したくないと?」
「そういうことです」
彼は、言葉を失った。
自分が間違っていたことは、少しずつ理解し始めている。だが、婚約を解消するというのは、別の話だった。彼は、アデライーダが自分に怒っていることは知っていた。けれど、最後には話し合いが出来ると思っていた。自分が事情を説明し、謝れば、彼女は理解してくれるはずだと。
幼馴染なのだから。長年、互いを知ってきたのだから。自分が本当に悪かったと認めれば、彼女も分かってくれるはずだと。
彼は、そう考えていた。
「デーリャが、そこまで怒っているのですか」
思わず、幼いころの呼び方が口から出た。
ヴィクトーリヤの表情が、僅かに変わった。
「怒っているだけだと思っているの?」
「……違うのですか」
「あの子は、貴方との婚姻を望まないと言っているのよ」
エウゲーニーは、何も言えなくなった。
婚約解消。その言葉が、初めて現実のものとして胸に落ちてきた。
自分がアデライーダを傷つけた。そのことを認め、謝罪すれば、まだ間に合うと思っていた。
けれど、彼女は、もう自分と結婚したくないと言っている。彼は、失うものの大きさを、漸く理解し始めていた。
アデライーダとの婚約は、彼にとって当然の未来のように思えていた。彼女は自分の婚約者であり、幼馴染だった。いつか夫婦になり、家族になる。そうなれば、彼女は自分のそばにいる。どれほど喧嘩をしても、どれほど意見が食い違っても、長年の付き合いがあるのだから、最後には分かり合える。彼は、そう信じていた。
だが、彼女は、彼が思っていたほど、自分に縛られてはいなかった。彼女には、彼女の意思がある。公爵としての責任がある。そして、自分の人生を誰に預けるかを決める権利がある。彼女は、その権利を使おうとしているのだ。
「……僕は、謝りたいのです」
エウゲーニーは、絞り出すように言った。
「自分が間違っていたことは、判り始めています。彼女に、きちんと謝罪したい」
「そう」
ヴィクトーリヤは、頷いた。
「謝罪することは大切です。自分が何をしたのかを理解し、相手に伝えることも必要でしょう」
彼女は、少し間を置いた。
「でも、謝罪したからといって、相手が貴方を許さなければならないわけではありません」
エウゲーニーは、目を伏せた。
「……解っています」
そう答えたものの、本当に分かっているのか、自分でも確信が持てなかった。
彼は、アデライーダに謝りたい。彼女に、自分の間違いを理解してもらいたい。そして、出来ることなら、もう一度やり直したい。その願いは、まだ彼の中に残っていた。
反省したのだから。自分の間違いを認めたのだから。彼女も、もう一度だけ、自分に機会を与えてくれるのではないか。そんな期待が、消えずにいた。
「アデライーダ本人と話す機会を設けます」
ヴィクトーリヤは、告げた。
「但し、貴方が謝罪することと、あの子が婚約を継続することは、別の問題です。そのことを忘れないでちょうだい」
「……はい」
「貴方がこれから何を学び、どう変わるかは、貴方自身の問題です。あの子に、その責任を負わせてはいけません」
エウゲーニーは、ゆっくりと頷いた。
彼は、アデライーダに会いたかった。謝罪し、事情を説明し、自分がどれほど後悔しているのかを伝えたかった。彼女が、自分の言葉を聞いてくれることを願っていた。
けれど、彼女が自分を信じてくれるかどうかは、彼には決められない。そのことを、彼はまだ十分には理解していなかった。
それでも、ヴィクトーリヤの問いは、彼の中に残り続けていた。何故、アデライーダを信じなかったのか。何故、彼女の話を聞かなかったのか。何故、自分が信じたい言葉ばかりを選んだのか。
エウゲーニーは、その答えを探そうとした。今度こそ、誰かの言葉をそのまま信じるのではなく、自分自身で考えなければならない。
そして、彼がその答えを見つける前に、アデライーダとの面会の日が決まった。




