第二話
エウゲーニーは、王妃からの呼び出しを受けると、少しばかり緊張した。
ヴィクトーリヤは、彼にとって母親に近い存在だった。実母ゾーヤとは別に、幼いころから世話をしてくれた人である。彼女に叱られたこともあるが、それはいつも、自分のためを思ってのことだった。だからこそ、呼び出しの理由が判らないことが気になった。
何か、王族としての振る舞いに問題があったのだろうか。それとも、学術院での成績についてだろうか。
エウゲーニーは、少し考えてから、カミラのことだろうと思い至った。最近、カミラはアデライーダに虐げられていると訴えていた。エウゲーニーには、カミラの言葉が嘘だとは思えなかった。彼女は泣いていた。怯えていた。アデライーダの名前を出すだけで、表情を曇らせることもあった。それならば、婚約者として選ばれた立場にあるアデライーダが、彼女に何かをしているのではないか。エウゲーニーは、そう考えた。
もちろん、アデライーダにも言い分があるのだろう。けれど、彼は、カミラが訴えることを疑う理由を見つけられなかった。エメリヤンも、アデライーダは昔から自分に厳しく、周囲の人間を思いどおりにしようとするところがあると話していた。
エウゲーニーは、幼いころのアデライーダを思い出そうとした。だが、最近の彼女は、昔とは違うように見えた。いつも忙しそうで、自分の話を聞いてくれない。公爵家の仕事があるからと、面会を断られることも増えた。
それならば、彼女が変わってしまったのではないか。そう考えれば、カミラの訴えも、エメリヤンの話も、筋が通っているように思えた。
エウゲーニーは、王妃に事情を説明しようと決めた。ヴィクトーリヤなら、自分の話を聞いてくれるだろう。そして、カミラがこれ以上傷つかないように、何かよい方法を考えてくれるはずだ。
彼は、王妃の執務室へ向かった。
「お入りなさい」
扉の向こうから聞こえた声に、エウゲーニーは姿勢を正した。
「失礼いたします、王妃陛下」
「座りなさい、エウゲーニー」
ヴィクトーリヤは、普段どおりの声で言った。それがかえって、エウゲーニーを緊張させた。彼女の机の上には、書類が六通、整然と並べられていた。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
「まずは、貴方の話を聞きましょう」
ヴィクトーリヤは、彼の顔を見た。
「最近、学術院で起きていることについて、貴方はどう考えているの?」
エウゲーニーは、少しだけ安堵した。やはり、カミラの件なのだ。
「カミラのことですね」
「話してちょうだい」
彼は、自分なりに誠実に説明しようとした。カミラがアデライーダから虐げられていること。エメリヤンが、公爵家の後嗣として将来の責任を担う立場にあること。自分は、二人が不当に扱われないようにしたいと思っていること。それらを順番に話した。
ヴィクトーリヤは、途中で口を挟まなかった。ただ、静かに聞いていた。エウゲーニーは、王妃が理解してくれているのだと思った。
「……ですから、僕はカミラを守りたいのです。アデライーダには、もう少し彼女の立場を理解してほしいと思っています」
「話は解りました」
ヴィクトーリヤは、机の上の報告書を一通、彼の前に置いた。
「では、これを読んでちょうだい」
「これは?」
「王立学術院長からの報告書です」
エウゲーニーは、書類を手に取った。
読み進めるうちに、眉が寄っていく。自分とカミラが、学術院内で恋人同然に振る舞っていること。アデライーダとの約束を反故にしたこと。カミラの訴えを聞いたあと、アデライーダ本人に十分な事情確認を行わずに非難したこと。
「……これは、少し大袈裟に書かれているのではありませんか」
エウゲーニーは、書類を置いた。
「僕は、カミラと親しくしているだけです。それに、アデライーダとの約束も、事情があって変更したことがあるだけで……」
「では、こちらは?」
ヴィクトーリヤは、二通目を差し出した。
アデライーダの報告書だった。エウゲーニーは、差出人の名を見て、顔を強張らせた。読み進める。
そこに書かれているのは、彼自身が覚えている出来事だった。カミラと過ごすために、アデライーダとの面会を断ったこと。カミラが泣いて訴えたとき、アデライーダの説明を最後まで聞かずに責めたこと。そして、婚約解消の申し出。
「……婚約解消?」
エウゲーニーは、思わず声を上げた。
「アデライーダが、これを?」
「そうです」
「どうして……。彼女は、僕に何も言っていません」
「書面で、正式に申し出ています」
ヴィクトーリヤの声は、冷静だった。
エウゲーニーは、報告書を見つめたまま、暫く動けなかった。アデライーダが怒っていることは、知っていた。自分がカミラを庇うたび、彼女の表情が硬くなることも知っていた。けれど、婚約を解消するほどだとは思っていなかった。
幼馴染なのだから。長年、互いを知ってきたのだから。自分が事情を説明すれば、最後には理解してくれるはずだと考えていた。
その考えが、初めて揺らいだ。
「……でも、アデライーダは、僕に何も説明してくれなかったのです」
エウゲーニーは、漸く言った。
「カミラが虐められていると訴えたときも、彼女は……」
「貴方は、彼女に何を尋ねたの?」
「何を、とは……」
「カミラが虐められているという訴えを聞いたあと、アデライーダ本人に、何があったのかを尋ねたの?」
エウゲーニーは口を開いた。けれど、すぐには答えられなかった。
「……僕は、理由を聞きました」
「どのように?」
「どうしてカミラを虐めたのか、と」
ヴィクトーリヤは、目を伏せた。
それは、事情を尋ねたのではない。既にアデライーダが悪いと決めたうえで、その理由を求めただけだった。
「エウゲーニー。他の報告書も読みなさい」
彼女は、残る四通を差し出した。
エウゲーニーは、困惑しながらも、一通ずつ目を通した。イヴァーンの報告。ジノーヴィーの報告。キリールの報告。そして、アリスタルフの報告。書かれている事実は、学院長とアデライーダの報告に重なっていた。
エウゲーニーは、次第に落ち着かなくなった。
「……これらは、皆、アデライーダの側の人間でしょう」
「側の人間?」
「イヴァーンは側近候補ですし、ジノーヴィーは僕の護衛騎士です。キリールは従僕です。アリスタルフは……」
「第二王子です。皆、貴方の傍にいる者です。貴方の側近候補、貴方の護衛騎士、貴方の従僕、そして貴方の弟」
ヴィクトーリヤが、静かに補った。
「そして、学院長は学術院の責任者です」
「ですが、彼らがアデライーダに気を遣っている可能性は……」
「六人が、互いに違う立場から、同じ事実を報告しているのです。彼らが観察した内容も、記録の形式も異なります。それでも、貴方の言動についての記述は一致している」
ヴィクトーリヤは、報告書を揃えた。
「貴方は、それでも、全員が間違っていると考えるの?」
エウゲーニーは、すぐには答えられなかった。
「……少なくとも、僕は、彼らが書いているほど酷いことをしたつもりはありません」
「自分が酷いことをしたつもりがなければ、問題はないの?」
「そういう意味では……」
「では、エメリヤンのことを聞きましょう」
ヴィクトーリヤは、話題を変えた。
「貴方は、彼をマシェフスキー公爵家の後嗣だと考えているのね」
「はい。彼の父上は公爵ですから」
「ゲオルギーは、公爵ではありません」
ヴィクトーリヤはゲオルギーに敬称をつけない。彼が平民であるからではない。その行いからして敬意を払うに値しない相手だからだ。
「……え?」
エウゲーニーは、顔を上げた。
「ゲオルギーは、前公爵エリザヴェータの夫でした。しかし、公爵そのものではありません。再婚した時点でマシェフスキー公爵家の籍からも外れています。公爵代理でもありません」
「そんなはずは……」
「何を根拠に、そう思うの?」
「エメリヤンが、そう言っていました」
答えた瞬間、エウゲーニーは、自分の言葉の頼りなさに気づいた。
ヴィクトーリヤは、彼を責めるように声を荒らげたりはしなかった。ただ、確かめるように尋ねた。
「貴方は、正式な記録を確認したことがある?」
「……ありません」
「学院長に尋ねたことは?」
「ありません」
「アデライーダ本人に、彼女がどのような立場にあるのか、確認したことは?」
エウゲーニーは、答えられなかった。ヴィクトーリヤは、机の上に置かれた記録の束に手を伸ばした。
「アデライーダは、八歳でマシェフスキー公爵家の爵位を継いでいます。私が後見人に指名され、その手続きも正式に行われました。現在の公爵は、アデライーダです」
彼女は、言葉を切った。
「エメリヤンは、後嗣ではありません。公爵家の籍を持つ者でもありません。彼が学術院に通えているのは、アデライーダが異母弟としての温情を示していること、そして、学術院が平民にも門戸を開いているからです」
エウゲーニーは、呆然とした。
アデライーダが公爵だという。自分が、これまで婚約者だと思っていた彼女が。いや、正確には、彼は彼女を公爵令嬢だと思っていた。将来、自分が王太子として迎える妃の候補であり、公爵家に生まれた令嬢なのだと。だが、ヴィクトーリヤの説明が正しければ、彼女は最初から、公爵家の当主だった。
「……でも、彼女は、僕に何も説明しませんでした」
エウゲーニーは、掠れた声で言った。
「僕は、彼女が公爵だなんて……」
「知っていて当然のことを何故説明する必要があるのです。学術院でも、アデライーダは公爵として扱われています」
「……」
「知らなかったこと自体を、今ここで責めているのではありません。けれど、貴方は知らないことを確かめようとしなかった。自分の認識が正しいかどうか、確認することもなかった」
ヴィクトーリヤは、エウゲーニーを見つめた。
「それなのに、貴方はエメリヤンの言葉を信じ、彼を将来の公爵として扱い、側近にするつもりでいたのね」
エウゲーニーは、何も言えなかった。
「カミラの件も同じです」
ヴィクトーリヤは続けた。
「カミラが虐められていると訴えたことを、聞くのが間違いだったと言っているのではありません。訴えを聞いたのなら、事実を確かめるべきだったのです。アデライーダ本人にも話を聞き、必要なら第三者にも確認し、そのうえで判断すればよかった」
「……僕は、カミラが嘘をつくとは思わなかったのです」
「どうして?」
「彼女は、本当に苦しそうだったからです」
「苦しそうに見えたことと、彼女の訴えが全て事実であることは、同じではありません」
ヴィクトーリヤの声に、僅かな厳しさが加わった。
「人が苦しんでいるように見えたなら、助けることは大切です。でも、誰かを助けるために、別の誰かを事実確認もなく悪者にしてよいわけではありません」
エウゲーニーは、唇を引き結んだ。
彼は、カミラを助けたかった。それは嘘ではない。彼女が泣いているのを見て、放っておけなかった。自分が力になれば、彼女は安心できると思った。だが、そのためにアデライーダが何を言っていたのか、彼は確かめようとしなかった。カミラの言葉を聞く一方で、アデライーダの言葉には耳を貸さなかった。
何故、そうなったのか。彼は、答えを見つけられなかった。
ヴィクトーリヤは、暫く彼を見つめていた。そして、六通の報告書を、机の上で揃え直した。
「エウゲーニー。貴方に、ひとつ尋ねたいことがあります」
「……はい」
「デールシュカは貴方の幼馴染でしょう? 貴方は彼女をよく知っていたのではないの?」
エウゲーニーの胸が、微かに揺れた。
デールシュカ。ヴィクトーリヤがそう呼ぶのを聞くと、幼いころのアデライーダの姿が、ほんの一瞬、頭を過った。
彼は、彼女を知っている。そう思っていた。
けれど、ヴィクトーリヤは、彼が思い出に浸るのを待たずに続けた。
「なのに何故、彼女ではなく、付き合いも短いエメリヤンやカミラの言うことを信じて、あの子の話を聞かないの?」
エウゲーニーは、息を止めた。
「……」
「あの子を何故信じないの?」
問いは、静かな執務室に落ちた。
怒鳴られたわけではない。責め立てられたわけでもない。ただ、答えなければならない問いだった。
エウゲーニーは、アデライーダを知っていると思っていた。幼いころから一緒に過ごしてきた。彼女が何を好み、どのようなときに笑い、何に困るのか。少なくとも、他の誰よりも知っているはずだった。
けれど、いつからだろう。彼女が何を言おうとしていたのか、最後まで聞かなくなったのは。彼女が何を考えているのか、本人に確かめなくなったのは。
カミラの涙を見た。エメリヤンの言葉を聞いた。だが、アデライーダの言葉は、聞こうとしなかった。彼女が何かを説明しようとするたび、彼は既に自分の中で答えを決めていた。そして、彼女がその答えを否定すると、彼女のほうが間違っているのだと思った。
エウゲーニーは、口を開いた。けれど、何も言えなかった。
ヴィクトーリヤは、彼の沈黙を見つめていた。彼女は、エウゲーニーを憎んでいるわけではない。彼が自分の過ちに気づき、正しい道を歩めるようになることを、今でも願っている。
しかし、アデライーダの信頼を取り戻せるかどうかは、別の問題だった。そして、その判断を下すのは、ヴィクトーリヤではない。アデライーダ自身なのだ。
ヴィクトーリヤは、六通の報告書に視線を落とした。長年の信頼よりも、耳当たりのよい言葉を選んだ男。自分の知っている相手の言葉よりも、自分が信じたい物語を優先した男。
彼は、まだその過ちの大きさを理解していない。けれど、今、初めて問いを突きつけられた。
エウゲーニーは、俯いたまま、答えを見つけられずにいた。
そしてヴィクトーリヤは、彼が答えられないという事実そのものが、既にひとつの答えなのだと理解していた。




