第一話
朝の執務室には、窓から差し込む秋の光が満ちていた。
ヴィクトーリヤ・レヴォーヴナ・リトヴィンツェヴァは、侍従が運んできた書類の束に目を向けた。いつもなら、朝一番に届けられるのは各省からの報告や、国王グレゴリーの決裁を必要とする案件である。
だが、その日、机の上に置かれた書類のうち一通には、見慣れた封蝋が押されていた。
マシェフスキー公爵家の紋章。
そして、差出人の名は――アデライーダ・ゲオルギエヴナ・マシェフスカヤ。
「デールシュカから?」
思わず、声が漏れた。
アデライーダは、ヴィクトーリヤにとって姪である。亡き姉エリザヴェータの一人娘であり、幼いころから自分の目の届くところで育ってきた、大切な存在だった。
何か困ったことがあれば、アデライーダは遠慮なく相談してくる。公爵家の領政で判断に迷ったときも、学術院で面倒な問題が起きたときも、或いは、ほんの些細な悩みでさえ。そのたびに、彼女は必要な情報を整理し、自分なりの考えを持ったうえで助言を求めてきた。
だからこそ、ヴィクトーリヤは封蝋を見つめた。これは、いつもの相談ではない。封筒には、正式な報告書であることを示す記載があった。
「他にもございます」
侍従の言葉に、ヴィクトーリヤは顔を上げた。
机の脇に、残る五通が置かれる。
王立学術院長。側近候補イヴァーン・コルニーリエヴィチ・ウヴァーロフ。護衛騎士ジノーヴィー・クリメントヴィチ・チャズロフ。侍従キリール・ラーザレヴィチ・トローシン。そして、第二王子アリスタルフ・グリゴリエヴィチ・リトヴィンツェフ。
六通。しかも、全て同じ日付だった。
ヴィクトーリヤは、暫く黙っていた。
「判りました。下がってよろしいわ」
「畏まりました、王妃陛下」
扉が閉じる。静かになった執務室で、ヴィクトーリヤはまず、王立学術院長の報告書を手に取った。
そこに記されていたのは、学術院内における学生たちの行動についての報告だった。特定の学生同士が、周囲の目をはばからず親密に振る舞っていること。婚約者のいる第一王子エウゲーニー・グリゴリエヴィチ・リトヴィンツェフが、同じ学術院に通うカミラ・エゴロヴィチ・ルノヴァと、恋人同然の関係を続けていること。そのために、エウゲーニーが婚約者との約束を反故にする場面が複数回確認されていること。更に、カミラがアデライーダから虐げられていると訴えた際、エウゲーニーが事実確認を十分に行わず、アデライーダを一方的に非難したこと。
記録は淡々としていた。いつ、どこで、誰が、何をしたのか。報告書には、目撃された行動と発言が具体的に書かれている。学院長自身が確認したものと、教員や学生から報告を受けたものも、きちんと区別されていた。
感情的な形容はない。誰かを悪人に仕立て上げようとする文面ではなかった。
ヴィクトーリヤは、二通目を開いた。
アデライーダの報告書は、学院長のものよりも短かった。そこには、婚約者として受けてきた扱いと、エウゲーニーの言動が記されていた。約束を破られたこと。カミラの訴えを理由に、事情を尋ねられることもなく責められたこと。自分が説明しようとしても、その言葉を最後まで聞いてもらえなかったこと。そして、最後に。婚約関係の解消を正式に申し出る旨が記されていた。
ヴィクトーリヤは、書類から目を離した。
「……デールシュカ」
呟いた声は、誰に聞かせるためのものでもなかった。
姪が婚約者との関係に悩んでいることは、薄々感じていた。エウゲーニーがカミラと親しくしているという話も耳にしていた。けれど、若い者同士の関係には、周囲が知らない事情もある。本人たちが話し合い、正すことの出来る問題ならば、まずは当人同士に任せるつもりだった。
それに、エウゲーニーは幼いころから知っている子どもだった。彼が根っからの悪人ではないことを、ヴィクトーリヤは知っている。不器用なところはある。自分の知らないことを知っている者に対して、必要以上に遠慮することもある。それでも、困っている者を放っておけない優しさがあり、頼まれた仕事には真面目に取り組む少年だった。だからこそ、彼が何を考えているのか、一度きちんと聞く必要があると思っていた。しかし、これは。
ヴィクトーリヤは、残る四通を順番に開いた。
イヴァーンの報告は、側近候補という立場から見た、エウゲーニーの言動に関するものだった。エウゲーニーは、エメリヤン・ゲオルギエヴィチ・タラノフを、将来の側近であるかのように扱っていた。また、エメリヤンをマシェフスキー公爵家の後嗣と呼び、彼が将来、公爵家を継ぐことを前提とした発言を繰り返していたという。エウゲーニー自身についても、王太子であるかのような言動があった。カミラを将来の妃にすることを仄めかす発言も、複数の場面で確認されている。
ジノーヴィーの報告は、護衛騎士としての観察記録だった。エウゲーニーとカミラが二人きりで過ごす時間が増えていること。アデライーダとの面会予定があったにも関わらず、カミラとの約束を優先したこと。カミラがアデライーダに虐げられたと訴えた際、エウゲーニーがその訴えを鵜呑みにし、アデライーダを責めたこと。
キリールの報告は、従僕として見聞きした事実を記したものだった。エウゲーニーの身支度や予定の管理に関わる立場だからこそ、彼がアデライーダとの約束をどのように扱っていたのかが、具体的に記されている。
そして最後に、アリスタルフの報告書を開いた。第二王子の文章には、王族としての立場から見た問題点が記されていた。エウゲーニーが自分を王太子と同じ立場にあるかのように振る舞っていること。エメリヤンをマシェフスキー公爵家の後嗣として扱い、将来の側近に据えるつもりでいること。そして、カミラを将来の妃にすることを前提とした発言をしていること。
ヴィクトーリヤは、最後まで読み終えると、六通を机の上に並べた。報告者たちは、それぞれ立場が違う。学院長は学術院の責任者として、イヴァーンは側近候補として、ジノーヴィーは護衛騎士として、キリールは従僕として、アリスタルフは王族として。アデライーダは、婚約者として。観察した内容も、記録の形式も違う。それなのに、記されている事実は一致していた。
ヴィクトーリヤは、報告書をもう一度読み返した。誰かが意図的に話を合わせた可能性は、考慮しなければならない。だが、六人が同じ虚偽を申し合わせたと考えるよりも、彼らがそれぞれ見たものを報告したと考えるほうが、はるかに自然だった。
なにより、アデライーダの報告書には、エウゲーニーを貶めようとする言葉がなかった。彼女は、自分がどのような扱いを受けたのかを記し、そのうえで、婚約関係を継続することが困難である理由を述べているだけだった。そこには、怒りよりも、決意があった。
ヴィクトーリヤは背筋を伸ばした。
これは、単なる若者の恋愛沙汰ではない。エウゲーニーは、自分の立場も、婚約者の立場も、周囲の者たちとの関係も、正しく理解しないまま行動している。そして、その行動によって、アデライーダが婚約の解消を求めるところまで追い詰められている。
彼女は、机の上の書類をきちんと揃えた。
「エウゲーニーを呼んでちょうだい」
扉の外に控えていた侍従が、すぐに返事をした。
「エウゲーニー殿下を、こちらへ?」
「ええ。出来るだけ早く」
ヴィクトーリヤは一拍置いてから、付け加えた。
「それから、マシェフスキー公爵家の爵位継承に関する記録と、王位継承に関する正式な記録も用意して。必要なものを全てよ」
「畏まりました」
扉が閉じる。
ヴィクトーリヤは、もう一度、アデライーダの報告書に目を落とした。彼女は、エウゲーニーを嫌っていたわけではない。寧ろ、幼いころから親しくしてきた相手だからこそ、信頼していたのだ。
その信頼が、どこで失われてしまったのか。ヴィクトーリヤは、エウゲーニー本人の口から確かめなければならなかった。
マシェフスキー公爵家の当主がアデライーダであることは、王国の正式な記録に明記されている。ヴィクトーリヤにとって、それは改めて確認するまでもない事実だった。
姉エリザヴェータが亡くなったのは、アデライーダが八歳のときである。エリザヴェータは、自分の死期が近いと悟ったとき、娘に爵位を継がせる手続きを進めた。幼い娘が当主となることを見越し、後見人には妹であるヴィクトーリヤを指名した。当時のヴィクトーリヤは、まだ王太子妃だった。
それでも、姉の願いを断るつもりはなかった。エリザヴェータは、娘を公爵家の当主として育てていた。アデライーダは幼いころから、領地の地理や歴史、家の財産、家臣の役割について学んでいた。年齢相応に難しいこともあっただろう。それでも、母の隣で話を聞き、自分がいずれ担う責任を理解しようとしていた。
母を亡くしたあとも、その教育は途切れなかった。ヴィクトーリヤは後見人として、アデライーダが当主の責務を果たせるよう支えた。必要な補佐をつけ、彼女が判断を下すために必要な知識を学べる環境を整えた。
今のアデライーダは、若くとも立派な公爵である。公爵令嬢ではない。マシェフスキー公爵家の爵位を継いだ、現職の公爵なのだ。
それは、彼女が成人するまでの仮の地位でもなければ、誰かに譲ってもらった名ばかりの称号でもない。正式な継承手続きを経て、現在まで続いている身分だった。
一方、ゲオルギー・レオニードヴィチ・タラノフは、前公爵エリザヴェータの夫ではあったが、公爵そのものではなかった。彼はマシェフスキー家に入った後、当主補佐に必要な教育を受ける機会があった。だが、責任を伴う仕事を好まず、次第に実務から距離を置くようになった。エリザヴェータが存命の間は、彼女が当主として公爵家を取り仕切っていた。彼は夫として公爵家に身を置いていたに過ぎない。
そして、エリザヴェータの死後、ゲオルギーは再婚した。その時点で、彼は公爵家の籍から外れている。公爵でもなければ、公爵代理でもない。
その息子エメリヤンにも、マシェフスキー公爵家を継ぐ権利などなかった。エメリヤンは、父の姓であるタラノフを名乗る立場にある。公爵家の後嗣を自称する根拠は、どこにもないのだ。
王位継承についても同じだった。エウゲーニーは国王グレゴリーの第一王子である。だが、王の愛妾ゾーヤが産んだ子であり、王位継承権を持たない。
第一王子であることと、王太子であることは別の話だ。王太子とは、王位を継ぐ者として定められた立場である。出生順だけで自動的にその地位が与えられるわけではない。正妃の子であるアリスタルフは、まだ正式な王太子としての宣言を受けてはいない。だが、王位継承者となることは確実視されていた。
ヴィクトーリヤは、これらの事実を思い返しながら、眉間に指を当てた。
エウゲーニーが、こうしたことを知らなかったのだとしたら。問題は、どこまで知らなかったか、ということだけではない。彼は、知ろうとしたのだろうか。
幼いころ、エウゲーニーはヴィクトーリヤのもとでアリスタルフとともに育った。王の愛妾の子であろうと、幼い子どもに罪はない。
ヴィクトーリヤは、エウゲーニーにも教育を受けさせた。王族として必要な礼儀、歴史、法律、国の仕組みについて学ぶ機会を与え、彼が将来困らないようにと考えていた。
エウゲーニーは、決して努力をしない少年ではなかった。教えられたことを覚えようとしたし、任されたことには真面目に取り組んだ。周囲の者を気遣う優しさもあった。
だが、成長するにつれ、彼は実母ゾーヤのもとに通う時間を増やしていった。ゾーヤは、息子が第一王子であることを誇りにしていた。そして、第一王子である以上、いずれ王太子となり、王位を継ぐのだと信じていた。彼女は息子にそう語った。エウゲーニーも、母の言葉を疑わなかった。
やがて学術院に入学した彼は、エメリヤンと親しくなった。エメリヤンは、自分の父が公爵であり、自分は公爵家を継ぐ者だと語った。
エウゲーニーは、それを信じた。自分は王太子であり、エメリヤンは将来の公爵。その二人が親しくなれば、互いにとってよい関係になる。そう考えたのだろう。
だが、彼は一度でも、正式な記録を確認したのだろうか。王位継承について、王宮の担当者に尋ねたことはあるのだろうか。マシェフスキー公爵家の当主が誰なのか、本人に直接尋ねたことはあるのだろうか。
ヴィクトーリヤは、ゆっくりと息を吐いた。教育の不足があったのなら、王妃としての自分にも責任はある。エウゲーニーの成長を、ずっと見守っていられたわけではない。
しかし、彼には学ぶ機会があった。そして、何かを知らないときには、確かめることが出来た。それをしなかったまま、他人の人生に関わる重大な判断を下したのである。
ヴィクトーリヤは、エウゲーニーが来るのを待った。
アデライーダの報告書を、ヴィクトーリヤはもう一度読み返した。
書面は整然としていた。日付と場所。エウゲーニーの発言。アデライーダがその場で述べたこと。そして、婚約者として受けた扱い。余計な言葉はない。カミラへの悪口も、エウゲーニーへの罵倒も、書かれていなかった。
アデライーダは、婚約者が自分以外の女性と親密に振る舞っていることだけを問題にしているわけではなかった。
彼女が最も問題にしているのは、エウゲーニーが自分の言葉を聞こうとしなかったことだった。カミラが虐められていると訴えたとき、アデライーダは事情を説明しようとした。けれど、エウゲーニーはその説明を最後まで聞かなかった。カミラの言葉を信じ、アデライーダの言葉を疑った。彼女が何かを説明しようとすれば、何故カミラを傷つけたのかと問い詰めた。彼女が否定すれば、カミラが嘘をつく理由はないと言った。それは、話し合いではなかった。最初から結論を決めたうえで、その結論に合う答えだけを求めていたのだ。
ヴィクトーリヤは、幼いころの二人を思い出した。アデライーダは、エウゲーニーと過ごすことを嫌がってはいなかった。彼女は彼を、恋愛対象として見ていたわけではない。けれど、長い時間を一緒に過ごし、互いを知る相手として信頼していた。
エウゲーニーも、幼いころは彼女を大切にしていた。彼が失敗すれば、アデライーダは笑って励ました。彼女が公爵家の勉強に疲れていれば、エウゲーニーは自分なりに気を紛らわせようとした。二人は、互いにとって身近な存在だった。
ヴィクトーリヤは、二人が婚約者として正式に結ばれることを、必ずしも恋愛の成就とは考えていなかった。恋愛感情がなくとも、長年の信頼があれば、家族になれることもある。互いの性格を知り、相手を尊重し、困難に直面したときには支え合える。そういう夫婦になるのなら、それもよい未来だと思っていた。
アデライーダも、同じように考えていたはずだった。だからこそ、今回の報告書は重かった。
「デールシュカは、あの子を嫌っていたわけではないのに」
ヴィクトーリヤは、静かに呟いた。
「あの子は、エウゲーニーと家族になろうとしていた。それなのに、エウゲーニーは何をしているの」
報告書の最後には、婚約解消の申し出が記されている。
ヴィクトーリヤは、その文字を見つめた。アデライーダは、感情に任せて婚約を解消しようとしているのではない。彼女は、エウゲーニーとの婚姻関係を結ぶことが困難であると判断し、正式な手続きを求めている。公爵家の当主として、そして一人の人間として、自分の将来を決めようとしているのだ。
ヴィクトーリヤは、姪の意思を尊重しなければならない。そのうえで、エウゲーニーにも、自分が何をしてしまったのかを理解させなければならなかった。




