エピローグ それぞれの明日
マシェフスキー公爵家の執務室には、朝から多くの書類が届いていた。領地からの報告、商人たちとの契約、各地の役人から寄せられた相談。どれも、公爵として目を通し、必要な判断を下さなければならないものばかりだった。
アデライーダは、机に向かい、一通ずつ書類を確認していた。
婚約解消の手続きが進んだからといって、公爵としての仕事がなくなるわけではない。寧ろ、彼女にはこれまで以上に、自分の責任を果たしていく必要があった。
ふと、扉がノックされた。
「お入りなさい」
入室したのは、ジノーヴィーだった。彼は護衛騎士としての礼を取り、アデライーダに報告した。
「公爵閣下。本日の予定について、確認をお願いいたします」
「ありがとう、ジノーヴィー。あとで目を通します」
「かしこまりました」
彼が退出しようとしたところで、アデライーダは声をかけた。
「ジノーヴィー」
「はい、閣下」
「これからも、よろしくお願いしますね」
ジノーヴィーは、一瞬だけ目を見開いた。そして、深く頭を下げた。
「もちろんです。閣下」
彼の後に、イヴァーンが領政に関する資料を持ってきた。キリールも、家令見習いとして必要な準備を進めている。
三人は、エウゲーニーに仕えていたように見えて、実際にはマシェフスキー公爵家から派遣された人間だった。彼らの本来の主は、最初からアデライーダである。彼らが彼女の許に戻ることは、裏切りではない。婚約解消によって派遣契約が切れた、ただそれだけのことだ。
変わってしまった関係を、無理に元へ戻すことでもない。最初から変わっていなかった主従関係が、正しい形に戻っただけだった。
アデライーダは、三人がこれからも自分を支えてくれることを、ありがたく思っていた。
彼らは、彼女の立場だけを見ているのではない。彼女が何を考え、何を守ろうとしているのかを知ろうとしてくれる。必要なときには意見を述べ、分からないことがあれば確かめ、彼女が誤った判断をしないように支えてくれる。
それは、当主と家臣として当然のことなのかもしれない。けれど、当然のことを当然に行える関係が、どれほど大切なのか。
アデライーダは、今回の出来事を通して、改めて理解した。
昼過ぎ、アリスタルフが公爵家を訪ねてきた。
「デーリャ、少し時間をもらえるかな」
「もちろんです、リスターシャ殿下」
彼女は、従弟である彼を執務室に迎えた。
アリスタルフは、必要な手続きが順調に進んでいることを伝えた。エウゲーニーの今後の教育についても、王妃の指示のもとで準備が進められているという。
アデライーダは、礼を述べた。
「ご配慮、ありがとうございます」
「君が望んだことが、きちんと尊重されるべきだからね」
アリスタルフは、穏やかに答えた。
「エウゲーニーが今後どうなるかは、彼自身の問題だ。君が、その責任まで負う必要はない」
「……はい」
アデライーダは、静かに頷いた。
アリスタルフは、彼女の表情を見て、それ以上、エウゲーニーの話を続けなかった。彼は、アデライーダの意思を尊重していた。彼女が婚約を解消すると決めたのなら、その判断を支える。彼女が悲しんでいるのなら、無理に忘れさせようとはしない。彼女が前を向こうとしているのなら、その歩みを妨げない。それだけだった。
二人の間に、恋愛感情はない。けれど、互いに信頼できる関係がある。アデライーダは、そのことをありがたく思った。
誰かを信じるというのは、何も考えずに相手の言葉を受け入れることではない。相手の言葉を聞き、必要なことを確かめ、それでも互いを尊重しようとすることだ。
そうした関係を築ける人々が、自分のそばにいる。それは、彼女にとって、何よりも心強いことだった。
夕方、アデライーダは執務室の窓辺に立った。空は、ゆっくりと夕暮れの色に変わりつつあった。
今日の仕事は、まだ全て終わってはいない。明日も、明後日も、公爵として果たすべき責任は続いていく。
彼女には、守るべき領地がある。信頼できる家臣たちがいる。そして、自分自身の未来がある。
幼馴染だった人との婚約は、終わった。悲しみがまったくないわけではない。幼いころの思い出は、今でも大切なものだった。彼と笑い合った日々まで、間違いだったことにする必要はない。
ただ、過去が大切だからといって、その過去に縛られ続ける必要もなかった。彼が反省したことは、彼自身にとって大切なことだろう。彼がこれから学び、変わっていくことも、彼自身の人生に必要なことだろう。けれど、その先に自分がいるかどうかは、彼が決められることではない。
アデライーダは、窓の外を眺めた。
信じるべき相手を、彼は自ら選び間違えた。そして、信じてもらえるはずだった相手を、彼は自分の手で失った。
アデライーダは、もう振り返らなかった。彼女には、彼のいない明日があるのだから。




