2026年 春 9
馬場秀人。それがあの金髪男の名前だった。
両親がサッカー好きで、将来はサッカー選手になってほしいから秀人。両親の影響を受けて本人もサッカー大好き少年に育ち、高校生まで自分は親の期待に応えられると信じて疑っていなかった。
秀人はインターハイ常連の強豪校に進み、一年生のころから大会で好成績を残してスカウトの目に止まっていた。両親にも秀人にも光り輝く未来のレールが見えていた。
しかし悲劇が彼を襲った。
高二のインターハイを目前にして、部内での飲酒喫煙が露見。そこから芋づる式に部内でのいじめが発覚し、インターハイ出場は辞退、関係者には停学の処分が下った。秀人はそのどちらにも加担していなかった。
将来を左右するインターハイに出られず、関係者の友人だったというだけで疑われ理不尽に停学処分を食らい、秀人は全てを投げ出した。
「あいつは酒を飲む度に言っていました。あのときあいつらがクソみてえなことしなきゃ、オレの人生は輝いてたのに、マジメにやってたってバカ見るだけだ、って。そんな彼を支えられるのは、私だけだって思っていたんです…」
光希と秀人が出会ったのは一年前の冬の終わり。
秀人は光希のバイト先の居酒屋にふらりと訪れて常連になった。
最初はチャラい秀人の印象は良くなかったが、来店する度に声をかけられ、何度かデートに応じ、秀人の過去を知って見る目が変わった。
「あっ、この人は私と同じだと思って。身近な人がしたことのせいで人生を捻じ曲げられて、それでも生きているんだなって思うと、放っておけなくなっちゃったんです」
付き合い始めてすぐに秀人が暮らすマンションでの同棲生活が始まった。
アイドル系の顔立ちをしてサッカーで引き締まった身体つきをしていた秀人は、一晩で数十万を稼ぐ売れっ子ホストになっていた。
若者らしい向こう見ずな自信と、裏切られて擦り減ることで生まれた野性味が同居するアンバランスさが、彼に独特の魅力を与えていた。
同棲が始まってひと月が経った頃、秀人は光希に居酒屋でのバイトを辞めるように言った。自分の目の届かないところに光希がいることを秀人は嫌がるようになっていた。客や同僚の男性とコミュニケーションを取るのも気に食わないようだった。光希もバイト先での人間関係に疲れてきていた頃で大人しくそれに従った。
「いろんなことに疲れて一休みしたかったから、それを好意とか愛情だとか自分に言い聞かせて、甘えてしまったんです。もう何もかもどうでもよく思っていたのかもしれません。どこかの女の子からむしり取った金で暮らすことへの罪悪感は、すぐになくなっていきました。あいつからオレにはオマエしかいないんだとすがられるたびに、歪んだ優越感に浸ってすらいました」
二人の関係が上手くいっていたのは秀人がホストとして成功している間だけだった。
人気を妬む同僚から罠にかけられ、秀人が築き上げてきた牙城が崩れた。一晩の夢のように、あっけなく。
ホストでいられなくなった秀人は家や外で飲んだくれるようになり、光希に当たり散らすようになった。暴力を振るったと思うと、次の瞬間には泣いて詫びている。
ごめんな痛かったよな。離れないでくれよ。オレにはオマエしかいないんだから。
その言葉を聞いて、光希は自分はまだここにいていいんだと安心していた。居場所をなくすことが、光希にとって一番の恐怖だった。
やがて秀人はホスト時代のツテを伝ってその手の連中とつるむようになり、日に日に粗暴さが増していった。
「それである日、あいつに言われたんです。先輩の経営するキャバクラで働け、って。先輩の元でならちゃんと見張ってもらえるから安心だ、って。サクラっていうのはそのときに使ってた源氏名です。二人の将来のためだって言われて、あっ、ちゃんと考えてくれてるんだって嬉しくなっていました。バカですよね、ほんとに」
派手さはないがスレたところのないサクラは夜の業界に珍しく、ジワジワと人気になっていった。
そうなるといろいろなお誘いが増えていき、中には直接的な誘いもあった。
もちろん光希はそれを断ったし、秀人もそうするように命じていた。
だけど年の瀬の迫ったある日、秀人は耳を疑うことを言った。
「なあオマエ、あの人から誘われてんだろ。受けろよ、その誘い」
その人物はある大企業の経理部長で、光希にご執心だった。
耳を疑う額を提示されはしたが、ただただ気持ち悪いだけで光希は誘いに乗るつもりは毛頭なかった。
「なんでそんなこと。秀人この前、絶対そんな誘い受けるなって言ってたじゃん」
「うるせえな、いいからオマエは黙ってオレの言うこと聞けよ!」
口ごたえをする光希に、秀人は顔を真っ赤にして暴力を振るった。その日は虫の居所が悪かったのか、いつもなら絶対に手を出してこない顔まで殴られた。
何発か殴られると鼻からぬるりと熱いものが流れ出て、秀人の白い手を赤く染めた。
「うわっ、汚えな!」
足にも血がかかり、潔癖のけのある秀人は悲鳴のような声を上げてバスルームに走った。シャワーの流れる音が聞こえてきて、光希は毛足の長い絨毯を握りしめて嗚咽した。
嵐が過ぎ去った後には、この世の終わりみたいに泣き喚いて謝って、お前が必要なんだお前がいなきゃだめなんだ、って言ってくれていたのに、もうそれすらなくなってしまった。
私はもう、彼にとって必要ないのかもしれない。また居場所を、失ってしまうのかもしれない。
シャワーの音が耳を打ち付けるなか、鼻から流れる血を拭っていると秀人のスマホが震えた。
女からの着信。
能面のような表情で見つめて、スマホが鳴り止むと手に取った。
ロックの解除を何度か試みて、そんなわけないと思いつつ0328と入力した。三月二十八日。二人が付き合い始めた記念日。
ロックが解除されて、光希は泣きそうな気持ちになりながら電話をかけてきた女とのやり取りを確かめた。そうしてしまう自分が嫌になりつつ、しかし目はやり取りを追ってしまう。
そうして光希は、自分がもう秀人にとって不要な人間であることを突きつけられた。
「リサイクルだって、書いてありました。もう用のない女でも使い道はある。せいぜいリサイクルして金に変えてやる、って。私がその誘いを受けるように仕向ければ、あいつとキャバクラの店長の先輩も金が貰えるみたいで。それでやっと目が覚めたんです」
光希は手早く少ない荷物をまとめて、つかの間の居場所だった部屋から飛び出した。
久しぶりに手にした自由は身も心も切り裂くようにように冷たく、街はカラフルなイルミネーションで溢れ返って目を焼いて、飾り付けられたもみの木の前で写真を撮るカップルがひとりになったという現実を突きつけてくる。
自分以外の誰もが誰かと一緒にいて、あるいは帰りを心待ちにしている誰かが待っているように見えた。
「大声で泣き出したい気持ちになっていたのにそれでもお腹が鳴っちゃって、駅前の立ち食いそば屋さんであたたかいお蕎麦を頼みました。深夜で他にお客さんがいなかったからか、それとも私がよっぽどひどい顔をしていたのか、お店のおじさんがサービスだってちくわ天をくれたんです。それでなんかこう、今までせき止められてたものが一気に崩壊して、わんわん泣いてしまいました」
おじさんは何も言わずにテレビに目を向けてチャンネルを回し、「クリスマスってもんはろくな番組がやってねえな」とぼやき、それでようやくその日がクリスマスだったことに光希は気がついた。
クリスマスプレゼントはこのちくわ天かと思うと妙におかしくなって、光希は泣きながら笑った。




