2026年 春 8
店内に緊張が走る中、男はドカドカと乱暴な足音を立ててカウンター越しに光希の前に立ち、嫌な笑いを浮かべた。
光希の隣で玉ねぎを切っていた日明は男の迫力に負けて、ただ固まっているだけで足が前に出なかった。こういうときは自分が対応しなくてはと思うのに体が動かない。
「よお、探したぜミツキ。なんだよオマエ、ダセえ店で働いてんなあ」
花瓶に活けられたアネモネをつまみ上げて鼻で笑う男を、光希はキッと睨みつけていつになく硬い声を発した。
「なんであんたがここにいるの」
「SNSには気をつけねえとダメだぜ」
ニヤつく男はポケットから取り出したスマホを操作して突き出してきた。
表示されていたのはフォロワーが増えて盛り上がってきたランプの宣伝用ウィスパーで、よく見ると店内を撮った写真の窓ガラスに光希が写り込んでいた。
「ああもう、サイアク…」
「オレは最高な気持ちだったね。またオマエと引き合わせてくれたんだからよお。ネットの神さまに感謝だな」
手で顔を覆って嘆く光希をいたぶるように、男は甲高い笑い声を上げた。
日明は男に厳しい目を向けるも、野生の獣のような目で睨み返されてすぐにそらしてしまう。男は鼻で笑うと、日明なんかいないかのようカウンターに入り込んで光希の腕を乱暴に掴んだ。
「行くぞミツキ。店にはオマエを待ってるお得意サマがいんだからな」
「イヤッ!離して!わたしもうあんな店で働きたくない!」
「うるせえな!勝手に飛んで先輩にも迷惑かけやがって!オマエを連れてかなきゃオレの面子が立たねえんだよ!」
もがく光希が助けを求めるように日明を見た。
日明は震える手をぐっと握りしめ、強張った足を踏み出し、男と光希の間に割り込んだ。
「や、やめてください。警察呼びますよ」
手足だけでなく声も震えて情けない。自分でも嫌になるほどか細い声。こんなんじゃ蚊も追い払えない。
蚊に付きまとわれたみたいに不快げに眉をしかめた男は大きく息を吸い込み、しかし日明の手に握られている物を見て顔色を変えた。舌打ちして光希の腕を離して後退り、ゆっくりとカウンターから出ていく。
「おいおい、なんだよこの店は。客に刃物突きつけんのかよ。大したオモテナシだな」
「えっ…?」
男から指摘され、日明は玉ねぎを切っていた包丁を握ったままだったことにようやく気がついた。
おれにも意外と迫力があったのかと、こんなときなのにちょっと嬉しくなっていた日明は密かに落胆した。
「誰が客よ。疫病神の間違いでしょ」
「はっ、なんとでも言え。居場所はわかったんだ。また来てやるからな、サクラちゃんよ」
男は再びカウベルを乱暴に鳴らして店を出て行った。
カウベルの音が鳴り止んでも誰も声を発さず、嵐は去ったというのに気まずい沈黙が残った。日明はとりあえず固く握りしめていた包丁をまな板の上に置き、そっと光希の顔色をうかがった。
うつむいて唇を噛み、手をギュッと握りしめている。その横顔は険しく、日明はなんて声をかけていいのかわからなかった。
光希は静かに息を吐き出して顔を上げると、そこには笑みが浮かんでいた。
「ごめんなさい、皆さん。お騒がせしちゃって」
けれどその笑みはいつになく弱々しく、声は無理に振り絞っているように張り詰めている。
「いやいや、気にしないでよ。光希ちゃんのせいじゃないんだし」
「そうそう、あの疫病神が悪い。日明くんよく追っ払ってくれた」
テーブル席に座って様子を伺っていた悠一と三山さんが、場を取り繕うような明るい声を出しながらカウンターに近づいてきた。
「しかし日明、包丁はちょっとやり過ぎ。いちおう客商売なんだからな」
「あっ、うん、ごめん…」
日明が謝るとまた沈黙が落ちて、壁掛け時計が刻む針の音がやけに大きく聞こえた。外からは夕方のチャイムが聞こえてきて、黄昏が空を染めている。
「あの…」
再び沈黙を破ったのは光希で、顔は笑っているのに目に光がなく、暗く濁った水面を覗き込んでいるような感じがした。
その目に日明は見覚えがあった。
何かを諦めることに慣れて膿んで疲れ切り、それでもまた、諦めることを選ばざるを得なくなった人間の目。
毎朝鏡で見る自分の目に、よく似ていた。
「短い間でしたが、お世話になりました」
静かに頭を下げてエプロンを外す光希を、慌てて悠一と三山さんが引き止める。
だけど光希は頑なで、どんな言葉にも首を横に振るばかり。
光希の覚悟は固く、皆が思っているよりも彼女は頑固だった。
「わたしがここにいたら皆さんの迷惑になります。あいつは蛇みたいにしつこいし、必ずまたここに来ます。嫌がらせだってすると思います。そういう男なんです。ウィスパーが上手くいってお客さんが増えてきて、いざこれからってときに悪い評判が広がるの、わたし嫌なんです。短い間だったけど、あったかいこの場所が大好きで大切だから、ここにいちゃいけないんです」
すべてを振り切るように駆け出そうとした光希の腕を、日明は掴んでいた。
自分より年長者で人生経験も遥かに豊富な二人の言葉ですら拒んだ光希に届く言葉なんてわからない。たぶん自分の中にそんなものはない。気の利いた言葉だって考えつかない。
だけど日明は嫌だった。
目の前にいる人が、自分みたいに何かを諦めてしまうことが悔しかった。
目の前にいる人が、誰かに大切なものを奪われることを、許すことができなかった。
だから日明は、あの日掴めなかった腕に手を伸ばすように、光希の細い腕を掴んでいた。
見開かられる大きな目を見つめ返して、日明は言葉を紡いだ。
「どんなにランプが繁盛しても、あなたがここにいなきゃ、意味ないです」
一心に光希の目を見つめて、日明は自分の願いを口にしていた。
「おれはこの場所を大好で大切だと言ってくれるあなたに、ここにいてほしいです」
ただ真っ直ぐなその言葉に光希の足が止まり、その場に縫い付けられたかのように動けなくなった。
「いいんですか…。わたしここにいても、いいんですか…」
暗闇にひとりでいるみたいに震える声に、日明はしっかりとうなずいた。
「ここにいてください。あなたがそうしたいと、望む限り」
光希の目から大粒の涙がボロボロとこぼれて、日明の胸に飛び込んできた。
日明はさっきまでの落ち着きがウソみたいにあたふたと慌て、助けを求めて年長者二人を見た。しかし年長者二人はニヤニヤと笑いながら親指を立てて散歩に出かけてしまった。
薄情に鳴るカウベルの音がうらめしい。
エプロンを突き抜けてティーシャツを濡らすあたたかい雫を、日明は光希が泣き止むまで棒立ちで受け止め続けた。




