2026年 春 7
ゴールデンウィークを過ぎてすっかり緑が色濃くなってきたころ。
この世の終わりのような激痛をもたらしていた悠一の腰はようやく完治した。くしゃみだって平気でできるくらいの健康な腰に、悠一はしみじみと感謝を捧げた。
月へんに要と書くくらい、腰は体のすべてを支えている。まさしく人体の要だ。腰痛予防はちゃんとしとけよと、運動不足な日明に忠告したもののピンときてない顔をされた。腰の心配なんてする必要のない若さが眩しかった。
それはともかく、腰は完治していたもののランプに顔を出すのは週に二度くらいに留めていた。
銀行に勤めていたときは毎日のように残業で働き詰めで、ランプを始めるためにほうぼうを駆けずり回り、オープンの目処が立ってからは本当に喫茶店なんかやっていけるのかという不安に怯えて経営の勉強に没頭し、これまでろくにまとまった休みを取ったことがなかった。その間ずっと日明を気にかけていた心労も、知らず知らずの内に溜まっていた。
だから悠一はぎっくり腰でひと月近く休んだことで気が抜けて、一気にひと回り歳を取ったくらいの何層にも折り重なった疲労を感じていた。
幸いなことに光希は人見知りの日明と上手くやってくれているようで店は滞りなく回っている。むしろ口の悪い常連からは「男所帯のむさ苦しい店が、看板娘のおかげで前よりも居心地がよくなったよ」などとからかわれている。
日明からも「もう休んでいいよ。そのかわりお金の管理とかいろいろ教えてよ。おれ覚えるから」と心強いことを言われて、涙がこぼれたものだった。歳のせいか近ごろすっかり涙脆い。
とは言われたものの悠一はまだまだ五十になったばかり。隠居するには程遠い働き盛り。でも前と同じに働くほどの元気はまだなくて、週に二度くらいの出勤にしていた。
無口で人見知りな日明と、明るく人懐っこい光希。
二人は悠一が思っていたよりも相性が良く、平均年齢の高かった店には女性客を中心に若い客も増えていた。店が老人会のようになるのを密かに憂慮していた悠一は、それに心底からホッとして光希に感謝した。
表に出す黒板や店内のボードに小さく可愛らしいイラストが添えられ、買ったものの使っていなかった小さな花瓶には季節の花が飾られ、雰囲気が華やいだおかげだろう。悠一にはピンとこなかったが、ウィスパーというSNSでの宣伝も効果が大きいのかもしれない。
やはり女手は必要なのだなと、悠一はしみじみと実感した。男だけだと味が良ければ人が来るだろうという変なプライドが顔を出し、殺風景になり宣伝がおろそかになりがちだ。
「いや、ほんといい子を雇ったね悠一さん。光希ちゃんのおかげで店が華やいでるよ」
水曜日の昼下がり。端っこのテーブル席で常連の三山さんと将棋を指しているとぽつりと言われて、悠一は笑みを返した。
坊主頭の眩しい三山さんは元住職で、息子に後を任せて悠々自適に人生の後半戦を楽しんでいる。
「ええ、ほんとに。いい子が見つかってよかったです」
「しかし岸さんにも物怖じせずに話しかけてるのにはびっくらこいたよ」
「へえ、岸さんに」
最もいかつい常連の岸さん。彼は週に二日くらい夕方になるとぶらっと現れる。
服装は常に隙のないブランド物のスーツ姿でハリウッドセレブ御用達のサングラスをかけている。短い髪には剃り込みが入っていて、左の頬からこめかみの辺りにかけてざっくり傷跡がついている。そしてスーツの上からでもわかるくらいガタイがいい。
どこからどう見ても、まごうことなきその筋の人。
しかし店での岸さんは礼儀正しく大人しく物腰は紳士的で、静かにカウンターの隅でライトノベルを広げている。
最初に来店してきたときは大雨の日で、ずぶ濡れになっていた岸さんは遠慮しがちな様子で入店してきた。
「すいません、見ての通りの濡れ鼠なのですが、雨宿りさせていただいてもよろしいでしょうか」
雨を割るような錆びた声に、悠一の背筋がすっと伸びた。
「ええ、どうぞどうぞ。いきなりの土砂降りで驚きましたよね。タオルお持ちします」
「恐縮です」
元銀行員だけあって悠一は平然といつもの笑顔で対応したが、その脳裏には110という数字が浮かんでいた。
しかしそんな心配は杞憂だった。
岸さんは顔や体を丁寧に拭いて、拭いた後のタオルを顔や体に触れなかった面を表にして悠一に返した。
スツールに座るのを濡れてしまうからと遠慮するから、尻の下に敷くためにもう一枚タオルを渡すと申し訳なさそうに礼を言ってようやく座った。
「これ、甘いものが大丈夫でしたらお召し上がりください」
熱いブレンドに栗まんじゅうを添えると固く結ばれていた口元がほころび、それで悠一は悪い人じゃないなと警戒をといた。
「ありがとうございます、いただきます。こう見えて甘いものに目がないんです」
甘いもの好きに悪い人はいない、というのが悠一の持論だった。
それからしばらくして雨脚が弱まり、派手なシャツの若者が「兄貴ー!」と迎えに来たのには驚いた。
それからちょうど一週間後、菓子折りを持って岸さんが再び店を訪れ、常連になったのにはもっと驚いた。
「あの岸さんでも光希ちゃんの前ではデレデレしておったな」
「へえ、想像つかないな」
「この前は話題のスイーツを手土産にしとったぞ。娘を甘やかす父親みたいに」
「そうですか、それは見てみたかったな」
岸さんの意外な一面を知った悠一の顔がほころんだ。
「日明君も顔が明るくなってきたし、ほんと名前の通り光希ちゃんはこの店の光だよ」
三山さんの何気ない一言に、悠一の心臓が跳ね上がる。しかし他意はないようで、三山さんは仏のような顔をしていた。
落ち着け、三山さんがあのことを知るわけがない。
三山さんは優しい眼差しを光希をあしらう日明に向けている。それにつられて悠一もカウンターを振り返った。
「えっ、ほんとに日明さんってYouTubeも見ないんですか」
「ほとんど見ないです」
「何で?」
「何でって、あんまり興味ないし」
「ええー、でも料理の動画とかいっぱいありますよ」
「本やネットでじゅうぶんです」
「あっ、ならわたしの推しの料理研究家を教えてあげます」
「あっ、ちょっと玉ねぎ切るんで離れてください。目に染みるんで」
「もう、またそうやって話をぶった切って。玉ねぎの汁なんてそんなに飛ばないです」
若い二人の会話に耳をそばだてていた年寄り二人は嘆息した。
「あいつ…なんて無愛想な…」
「ま、まあまあ、あれでも前より口数は増えてるし、ナンパな男よりはいいだろ。わしは好きだよ」
好々爺然とした三山さんのフォローがまた泣けてくる。いったいどんな徳を積めば、その境地にまで到れるのか。
「それはそうですけど、接客業としてさすがに…」
悠一が渋い顔をすると、来店を告げるカウベルが乱暴に鳴った。
オーク材のドアが派手な音を立てて閉まり、入ってきたのは趣味の悪い柄シャツを着た金髪の男。周囲を威嚇するような剣呑な目つきをしている。
耳には尖ったピアスが針刺しのように並び、首元には金のネックレスが光る。靴はエナメル質の先が尖った革靴。腕には幼さが残る顔に不釣り合いで趣味の悪い高級時計。
乱暴に床を踏みしめる足音からうっすら漂う、暴力と夜の気配。
とても堅気には見えないその男の目は、真っ直ぐ光希を射抜いていた。




