2026年 春 10
「それで今まで住んでいた街を離れてこの町に引っ越して、しばらくは短期のバイトを繰り返していました。このお店のことは越してきたころに見つけて、かわいいお店だなって思っていました。ちゃんと働けるようになったらご褒美に行ってやると企んでいたら、アルバイト募集の張り紙がしてあって、運命を感じて応募したんです」
話し終えると光希は顔を上げて、三人の顔に目を向けた。日明と悠一と三山さん。
悠一は難しい顔をして、日明と三山さんは店長の決定を仰ぐように目を向けている。
まあそうだろうなと、光希は諦念を抱いた。
口ではここにいていいと言ってくれても、それは事情を知らないからそう言ってくれるだけだ。
厄介な事情を知ってなお、ここにいていいと言ってくれるような聖人君子はいない。ましてやイメージと評判が命の喫茶店。今の時代、悪いイメージはネットを介してあっという間に広まり、評判はまたたく間に地に落ちる。
それが真実であるかどうかに関わらず、悪い噂は無責任に尾ヒレ背ヒレを付けて電子の海を駆け巡る。面白半分に炎上に加担するやからはいくらでもいて、火を付けていい相手が現れるのを火打ち石を鳴らして待ちわびている。
ネット関係に疎そうなこの三人にも、それくらいのことはわかっているのだろう。
すでに馬場秀人と思しき掲示板の書き込みや、ウィスパーのアカウントがランプの悪評をばらまいているのを発見した越田さんから心配するメッセージが届いていた。
やっぱり私は、ここにいちゃいけない。これ以上この人たちを困らせちゃいけない。
光希が立ち上がろうとすると、悠一が口を開いた。
「光希ちゃん」
いつになく低い声で呼ばれて覚悟を決めて悠一の顔を見ると、その目からブワッと涙が溢れ出た。
「そんなにつらい思いをしていたのによくがんばったね。うん、うん、あなたはえらいよ」
言いながらグスグスと嗚咽するものだから、光希はぎょっと目を剥いた。壮年の男性が本気泣きしているのを初めて目の当たりにして混乱し、その仁王像のような迫力に足がその場に縫い付けられたように動かなくなった。
「ああ、気にしないでな光希ちゃん。悠一さんはちょっと涙腺がお釈迦さまなんだわ」
三山さんはほがらかに仏ジョークを飛ばし、日明はちいさくため息をついて紙ナプキンを悠一に渡している。
「はあ…涙腺が、おシャカさま…」
光希は目を丸くしつつ、さっき二人が悠一を気にしていたのはこのせいかと合点がいった。二人して涙脆い悠一が泣き出さないか心配していただけのこと。
悠一が紙ナプキンでブーンと鼻をかむ音に一気に肩の力が抜けて、笑いが込み上げてくる。
もう、なんなんだこの店の人たちは。店長も店長代理も常連さんたちも、みんなお人好し過ぎる。
こんなの、ずっとここにいられたらって夢みたいなこと、思ってしまう。
「あれまあ、光希ちゃんまで涙腺がお釈迦さまになっちまったよ」
「向井さんも、これ」
「すいません、日明さん…」
「あっ、今度はちゃんと拭いても大丈夫なやつですからね」
日明がなんのことを言っているのだろうと一瞬考えると、前に調理台用のふきんで顔を拭かれたことに思い当たり、また笑ってしまった。
「もう、毎回拭いても大丈夫なやつを渡してください」
「善処します…」
真面目くさったその言い方がまたおかしくて、光希もしばらく泣き笑いが止まらなくなってしまった。
二人が泣き止むのを待ち、それぞれの前に湯気を立てるコーヒーが並び、ようやく建設的な方向に話が流れ始めた。
「しっかし、こんな写真から見つけ出すなんて、あのバカなにがしってのは光希ちゃんによっぽどご執心みたいだな」
問題の写真を見ながら三山さんが感心半分、呆れ半分といった調子でぼやいた。
「馬場秀人です」
冷静な口調で日明が訂正する。
「ごめんなさい。載せる写真は気をつけてたつもりだったんですけど、油断しちゃいました」
「いや、この写真でまさか見つかるなんて思わないよ。老眼の僕には絶対に見つけらんないね」
謝る光希に悠一が軽口をたたいた。
「うむ。それにもう見つかっちまったもんをとやかく言ってもしょうがない。どう対処していくかを考えないとねえ」
「警察に相談する、とかは…?」
控えめな口調で意見を言った日明に、悠一が渋い声を返した。
「現時点で彼はランプに何もしていないから難しいだろうな。動いてくれるとしたら、光希ちゃんへの過去の暴力の線とか、かなあ」
「そうさなあ、光希ちゃんが見た馬場なにがしと女のやり取りを写真に撮ってれば売春の斡旋や強要でしょっぴけそうなもんだが、それは」
皆から視線を向けられて光希は頭を下げた。
「ごめんなさい。あのときはただショックで、そんなことまで考えている余裕ありませんでした」
「だよねえ。無理もないわなあ」
うーむと唸って三山さんは腕を組んだ。
「それにあくまで未遂だから、警察が動くにはちょっと弱いんじゃないでしょうか」
「じゃあなんだろうなあ、過去に光希ちゃんは暴力を受けてたわけだからDV関連の保護法や、執念深く追っかけてきたわけだからストーカー規制法とやらに引っかかんねえのかい」
「ああ、その線ならいけるかも」
三山さんの案に悠一がぽんと手を打った。
「あっ、ねえ…」
警察にどう話を持っていくか詰めている二人の間に、日明がおずおずと割って入った。
「向井さんが何か言いたそうだけど…」
光希は驚いたような顔をして日明を見つめ、それから皆を見回しておずおずと口を開いた。
「あの、こんなワガママ言うのは本当に申し訳ないと思うんですけど、できれば警察沙汰にはしたくないです」
膝の上できゅっと手を握って、光希が声を絞り出す。
「誰かのせいで人生を狂わされた人の道をさらに閉ざすことを、私はしたくないんです。そりゃあんな最低な男、警察に捕まって反省するのが当然だと思います。私にしてきた理不尽を許せているわけでもないです。だけどそうなったらもう、あいつはこの先ずっと道を踏み外し続けてしまう気がするんです。押された烙印はずっとずっと、つきまとってくるから。どれだけ反省しても、どれだけ悔やんでも、どれだけ苦しんでも、ずっとずっと消えないで、鎖みたいに重く絡みついて、断罪の槌みたいに打ちのめしてくるんです」
そう語る姿はまるで光希自身が烙印を押された罪人のようで、日明は重く溜まったつばを飲み込んだ。
この人の過去にいったいなにがあったと言うのだろう。
「当の本人の光希ちゃんがそう言うならしょうがねえか。奴さんにも懴悔の機会を与えてやる、ってこったな」
「ですね。しかしそうなると、どうやって対処したものかなあ…」
「ごめんなさい、ワガママ言って…」
「ううん、いいよいいよ。考えてみると警察の人に出入りされるのも店の評判に関わるからね。我々だけで対処するのがベストだよ」
日明は年長者二人の切り替えの早さに驚きつつ、一緒に頭を悩ませた。
しかしこれと言った案は出てこず、三山さんが思いっきり伸びをしてうなった。
「一休さんみてえに名案ってのは出てこねえもんだなあ」
「ほんとに、ポクポクチーンとはいかないですねえ」
「ああー、久しぶりに足りねえ頭使ったから糖分不足だわ。日明くん、なんか甘い物なあい?」
「ランチの余りのりんごのシャーベットがあります」
「おっ、いいねえ」
子どもみたいに笑う三山さんに場の空気がなごんだ。
「あっ、私出すの手伝います」
「ありがとう。チョコクリームのあまりもあったからそれも乗せちゃいましょう」
「いいですね。岸さん好きそう」
光希が何気なく出した名前が、日明の頭の中で現状の問題と線になって結ばれた。
「そうだ岸さんだ」
珍しく大きな声を出すと注目が集まり、日明は萎縮しながらも自分の思いつきを話した。




