2026年 春 5
次の疑念は初めてまかないでナポリタンを食べたときだった。
太くてモチモチの麺に甘酸っぱいケチャップ味がよく絡み、わずかな辛味が後を引き次のひと口を呼び寄せる。具材はウインナー、玉ねぎ、ピーマンとシンプル。それぞれ麺に絡みやすくするために細切りにしてある。
どこにでもあるような、でもどこか懐かしくて奥深い味わい。
「おいしい…」
目を丸くする光希に、日明はホッとしたような顔になった。
「お口にあったならよかったです」
「ほんとにおいしいです。ケチャップ味がくどくないし、なんかフルーティーな感じもしていくらでも食べられちゃいます」
言いながらも光希の手は止まらず、夢中になって麺をすすっている。
「あっ、すごい。実は隠し味に少しだけいちごジャムを入れているんです。それでケチャップだけの味にならずに、パクパク食べられるようになります」
他の話題のときは一言二言しか喋らないのに、料理やコーヒーの話になると日明は饒舌、とまではいかないが人並み程度には話してくれる。
だから光希は日明と話すときには、なるべく料理やコーヒーの話題を選んでいた。
「あっ、それなんか聞いたことあります。あれ、なんで知ったんだっけ」
『隠し味にいちごジャムをちょっとだけ入れてるんだ。これが意外とおいしくてさ。お子様だから甘めの味の方があいつの好みだし、いちごも好きだから』
思い出したのは幼い頃の記憶。彼の作ってくれたナポリタンを食べておいしくて驚いたら、自慢げに教えてくれてかわいいと思ったんだ。
ああ、そうだ。あの子はケチャップ味のものといちご、それに優しいお兄ちゃんが大好きだった。
思い出すのは辛い記憶ばかりで、友だちなら覚えていて当然なことが記憶から抜け落ちていた。
あの子の笑顔が、とても遠い。
「ネットで検索すればいちごジャムを入れるレシピは出てきます。おれのオリジナルってわけではないです」
暗く沈みかけていた光希は笑顔を貼り付けた。
「そうなんですね。じゃあそれで見たのかな」
日明という名前とナポリタンの隠し味。偶然が二つ重なれば、それはもう偶然ではないのではないか。
けれど光希はやっと見つけられた、居心地の良い職場を離れるのは嫌だった。誰も自分の過去を知らないこの場所なら、ずっと探し求めていた居場所になってくれるんじゃないかという、祈りにも似た淡い期待があった。
淡々と流れるやさしい時間を失い、またひとりに戻るのが怖かった。
だから光希はその疑念を偶然にして蓋をした。
名前は同じでも名字は違うし雰囲気もまるで違うし、光希の古い知人と日明が同一人物なわけがない。ナポリタンの隠し味だって検索すれば出てくるらしいし、誰にだって作れる。
そう、偶然だ。偶然に決まっている。
光希は疑念を飲み込むように勢いよくナポリタンをすすった。
「あっ、口の周りケチャップついてますよ」
食べ終えたお皿を洗いにカウンターに入ると、作業をしていた日明に口の周りを拭われた。
その動作は手慣れていて緊張やいやらしさはまるでなく、母親が子どもにそうするかのようで、光希はなんだか幼くなったような気持ちになって身を任せた。
「はい、きれいになった」
優しい声と柔らかい顔に驚いて見つめると、日明はハッと目を見開いて光希に背を向けた。
「ごっ、ごめんなさい…」
「い、いえ…」
だけど意識されるとこちらも恥ずかしくなってくる。他意のない行動に思えたけど、それはそれでたちが悪い。
速くなる鼓動に落ち着けと念じながら日明をちらりと見ると、その背中が震えていた。
「日明さん、どうかしたんですか?」
「あっ、いや、すいません。調理台拭く布で口の周り拭いちゃいました」
その声の調子がいつもの通りだったし、何より聞き逃がせないことを言われたせいで光希の注意は逸らされた。
「えっ、うそ!?もう、勘弁してくださいよ!」
「すいません…」
顔を洗う光希は気が付かない。背を向けた日明が、目に溜まった涙をひっそりと拭ったことに。




