2026年 春 4
新しいバイト先である喫茶店、ランプを光希は気に入っていた。
時給は特別高いわけではないが引っ越したばかりのアパートから歩いて通えて、ランチタイムを除けばさほど忙しくはない。人間関係も常連さんに嫌な人はいないし、店長代理の日明は無口で生真面目だけど悪い人ではない。
それになにより、昼に出してくれるまかないがすごく美味しい。
まかないは基本的にメニューに載っている料理から選ぶことになっている。店にある食材で作れるものならリクエストすればできるだけ応じてもくれる。
とは言え光希は日明の作るどこか懐かしい味のするナポリタンとオムライスを気に入っていて、だいたいこの二つを交互に食べていた。たまに気分でカルボナーラやピザトーストを頼むことがあるくらい。
胃袋を掴まれてしまうと離れがたくなるもので、光希はできれば長い間バイトを続けたいと思っていた。けれど一つの疑念が光希の胸にはあった。
日明はもしかしたら、光希の古い知り合いかもしれなかった。
最初の疑念は面接のときだった。
初対面の日明は低い声でボソボソ喋り、目が合ったのは挨拶をしたときだけ。それ以降は肩のあたりやテーブルに置いてある紙ナプキンに目線を向けていた。
こんな人見知り丸出しな人が喫茶店で働いているのかと、面接を受けに来た光希は驚愕した。
二人掛けのテーブルについているものの日明はなぜか椅子をちょっと斜めにして座り、真っ向から対面するのを避けていた。
わたしってそんなに印象悪いのかな。
人当たりの良さには自信があった光希はちょっと落ち込んだ。
「えっと、店長代理の、雨宮日明です…」
「あきら……」
それは光希の古い知り合いと同じ名前で、胸がドクンと跳ね上がった。
脳裏を駆け巡るのは十二年前の夏。思い出したくない、でも決して忘れてはならない、罪の記憶。
光希の胸にあの日の夕立のように罪悪感が降り注ぎ満ちていく。
夕立の濡らすアスファルトに投げ出された小さな体。大粒の雨の中に広がっていく鮮血。駆け寄って抱きしめ、慟哭する彼の後ろ。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
わたしが死ねば、よかったのに。
「あの、向井さん…?」
気遣わしげに呼ぶ声に光希の意識が今に戻った。
違う、この人はあの人じゃない。名字が違うし、こんなに暗い雰囲気でボソボソ喋る人じゃなかった。
悲しいことがあってもその名前の通りに前を向いて、明日に向かっていくような人だった。
シャキッとしなくちゃ。わたしはあの子が生きられなかった今を生きているんだから。
光希は無理やりに口角を引き上げた。無理にでも笑うことでから元気でも踏ん張れると、出口のないトンネルを歩き続けるような十二年で学んでいた。
「あっ、すいません。コーヒーのいい匂いがするなと思って、ぼーっとしちゃってました」
日明の口角がわずかに上がり目元がゆるんだ。でもそれも一瞬のことですぐに無表情に戻っていた。
今のはひょっとして、笑顔だったのか。
「あっ、すいません。飲み物も出さずに。コーヒーでいいですか?」
「いやいやいや、コーヒーなんてとんでもない。水とかでいいです」
催促したと思われているようで光希はブンブンと首を横に振った。
でも言った後で、こういう場合はお構いなく、って言うのが大人っぽかっただろうかと反省した。
「いえ、おれも飲みたいんで…」
カウンターに引っ込んだ日明がコーヒーを淹れる間、光希はそれとなくその顔を観察した。
クマの目立つ切れ長の一重はどんよりと重い。あまり手入れをしている様子のない眉。鼻は高く唇は無口さの現れのように小ぶり。耳は大ぶりで形がいい。髪は眉と同じく無頓着なのか、くせ毛が目立つ髪を真ん中あたりで無造作に左右に分けている。
光希が知っている姿は十二年も前のものだったが、彼が成長してこんな風になるとは思えなかった。光希の記憶の中にある彼はもっと健やかで朗らかだった。こんな梅雨どきの空みたいな、どんより暗い雰囲気をまとっていない。
落ち込んでいても、それを隠して笑うような人だった。
などと品評しているうちにコーヒーが届いた。本当はミルクも砂糖もドバッと入れたかったが、緊張した面持ちでチラチラと見てくる日明を前にして言えなかった。
「ありがとうございます。いただきます」
持ち上げたカップから漂ってくる匂いは華やかさを含んでいて、ブラックチェリーが思い浮かんだ。
意を決して口に含むとベリー類のような芳醇な酸味が舌に心地良く、コクリと飲み込むと果物を食べたような甘い余韻が広がった。苦みは舌に残らず爽やかで、ちょうどいいアクセントになっている。
「あっ、おいしい…」
お世辞でもそう言わなきゃと思っていたが、美しい景色を前にしたように自然と口から感嘆が出ていた。
「よかった…」
ホッと肩の力を抜いてコーヒーを飲む日明の口角がきゅっと上がり、目の端がくしゃっとなった。
笑ってると今度ははっきりわかるとなんだか上手くやれそうな気がしてきて、光希も心からの笑顔を浮かべていた。




