2026年 春 3
常ににこやかで明るい光希は常連たちとすぐに打ちとけた。
自分の仕事にだけ集中している日明は、光希よりも常連たちとの付き合いが長いのに、ものの一週間も経たないうちに人間関係周回遅れになった。
完全に新入りの光希に追い抜かれている。人間関係を縮める速度にオリンピック選手と週末ランナーくらいの差がある。
光希は一度会っただけで顔と名前を一致させて、コーヒーや食べ物の好みもすぐに覚えて、誕生日や家族構成や好きな音楽といったことまで把握し始めている。人は自分のことを覚えてくれて、適切な距離感で興味を示してくれる人に好意を抱くものだ。
未だに常連たちの顔と名前が一致するかすら怪しい日明はそのあたりの努力を怠ってきた。日明は自分の仕事をこなすだけで精一杯でそこまでの余裕がなかったという事情はあるものの、一声かけたり名前を覚えるくらいの暇はさすがにあった。
だからこの周回遅れは当然の結果である。あるものの、面白くないと思ってしまうのが人の性というものだった。
悠一と働いているときにはそんなことは欠片も思わなかった。
人生経験の差だから、まだ仕事を始めたばかりで余裕がないから、と自分を納得させるに足る言い訳があった。
しかし今は違う。
光希は日明より歳下であるのに年輩の客から若者まで幅広くフレンドリーに接している。接客の上手い下手なんて考えたこともなかったが、光希が上手い部類に入るのは人間関係に疎い日明にもわかった。こんな子がいる喫茶店なら通ってしまうかもしれない。
半年近く働いて仕事の要領も掴めてきて、調理の合間に客の表情を観察するくらいの余裕はできている。しかし今さら声をかけたりするのも変に思われるかなと、妙な心配を日明はしていた。変に考えすぎるのは日明の悪いクセだ。後ろ向きの考えの大半は杞憂なのに。
ともかくこうして自分を納得させられる理由がなくなり、厳然たる人間力の差を痛感して日明の息苦しさは増していった。
軽やかにカウベルが鳴って、入ってきたのはいつもすこし疲れた顔をしている女性。常連の一人。名前は確か、えっと。
「いらっしゃいませ」
「あっ、新垣さんこんにちはー!」
名前を思い出せずとりあえず挨拶した日明の声にかぶさるように、光希の明るい声が耳を打つ。名前すら覚えていない日明は背筋を丸めて、拭いたばかりのグラスを再び拭き始めた。
常連の女性、新垣さんは微笑みを浮かべて光希に挨拶を返してカウンター席に座る。これまでは混雑していない限りテーブル席に座っていたのが、光希が働き始めてからカウンター席に座るようになっていた。
「光希ちゃん、ちょっと聞いてよ!あっ、ブレンドひとつ。ホットで」
ついでのように顔を向けて注文されてちょっとムッとした日明をフォローするかのように、光希が伝票にサラサラと注文を書きつけた。
「はい、ブレンドおひとつ。今日のはキャラメルみたいな香りがふんわりしておいしいですよ。日明さん渾身の一杯です。ねっ、日明さん」
それでもって自然と日明にも話を向けてくる。
「あっ、はい。今日の豆は、いいあんばいに挽けました」
自分が会話に参加して変な感じにならないか、日明は言葉を選びつつこたえた。
「へえ、そうなんだ。それは楽しみ」
今まで向けられたことのないやわらかな顔を新垣さんから向けられ、日明は思考の沼に溺れる前に自然と口に出していた。
「期待しててください」
言ってから驚いた。今までなら思ってても言えなかっただろうことを、口に出せた。光希の口の軽やかさが、うつったかのように。
「言うねえ青年。自分でハードル上げちゃって。期待しときます」
新垣さんはニヤッと笑って光希に向き直り、でねでねと夫や反抗期の子どものグチを話し始めた。
どんな話にも親身になって相づちを打つ光希の横顔を見つめながら、日明は敵わないなと静かに息を吐き出した。胸にわだかまっていた、つまらない嫉妬と一緒に。
人見知りで無愛想で華もない日明一人ではランプを再開することはできなかったし、無理にしていたとしても客足を保てなかっただろう。
鬱陶しいと思いながらも、ほんとうはわかっていた。光希が日明にも会話を振るのは、お客さんとの仲を取り持とうとしてくれていたからだと。
人間関係がまるで駄目なおれには、向井さんが必要なんだ。向井さんからいろいろと学ぼう。
ウジウジしたつまらない思いを溶かすように挽き豆に熱湯を注ぐと、ふっと呼吸が楽になった。コーヒーの馥郁な香りを味わいながら、日明は雲の隙間から差し込む光に目を細めた。




