2026年 晩夏 10
開け放した車窓から塩辛く生ぬるい風が入ってきて、光希は目を細めた。
「海沿いの道っていいですね。暑くてもしょうがないやって思えます」
「サウナみたいな風が入ってくるんで閉めてください。エアコンつけてるんだし」
「ええー、もうちょっと海風を堪能しましょうよ」
軽くため息をついてハンドルを握り直す日明に目を細め、光希は雲ひとつない青空の下に広がる大海原を眺めた。日明いわくサウナみたいな風を堪能しつつ。
今日はひかりの命日で、二人は墓参りに向かっていた。車は悠一のビートルを借りて、ペーパードライバーの日明が安全運転している。危なげないのはいいのだが、安全運転過ぎて後ろの車から車間距離を詰められ気味になっていてる。
逆に危ないように思えてならない。バックミラーを見るたびに落ち着かない。
「日明さん、もうちょっとスピード出してもいいんじゃないですか」
「でもこれ制限速度ギリギリですよ」
「人気がない道だし大丈夫ですって」
と言いつつ、こういうの教習所のビデオで見たなと思い出した。助手席の飛ばせ飛ばせが元で事故になるという教訓のものを。
「いえ、駄目です。もしも事故を起こしてしまったときに速度オーバーでは罰則が重くなります」
そうはならなくてよかった。だけどやっぱり後ろの車が気になって気になって、落ち着かないまま車に揺られ続けた。
「うわあ、景色のいいところですね。海がとってもきれい」
手びさしを作って歓声を上げる光希に、日明が表情をやわらげた。
「ひかりも母も海と夏が好きでしたから、きっと喜んでいると思います」
「そうでしたね。二人とも夏ってイメージがあります」
乃木家の墓は爽やかな海風が吹く高台の墓地に立っている。墓地から一望できる青い海は壮観のひとことで、潮騒が耳を優しく撫でていくのが心地良い。
桶にたっぷりと水を汲み、日明が持って光希を先導した。光希はひまわりとカスミソウを組み合わせた、黄色と白が華やかな仏花を胸に抱えている。ひまわりはひかりの大好きな花だった。
「ここです」
「ああっ…」
ひかりの眠る墓を前にして、光希の目が潤んだ。
行きたい、行かなくちゃと思っていたが、ずっとここに来ることができなかった。
加害者の妹である自分にひかりの墓参りをする資格はないと思い、諦めていた。
仏花を立てかけ、両手でそっと墓石に触れた。久しぶりに会う友人に挨拶するかのように。
「ひかりちゃん…」
指先を伝わるのはひんやり冷たく、でもほんのりあたたかい感じもする御影石の手触り。
脳裏をよぎるのはひかりと過ごした宝物のような日々。
物心ついた頃からずっとひかりがすぐそばにいて、姉妹のように育ってきた。すぐ近くにいるのが当たり前の存在だった。
それが失われて、永遠に会えなくなる日がくるなんて、思ってもみなかった。
「ごめん…ごめんなさい、ひかりちゃん…」
手のひらを墓石にぴたりとつけて、うなだれると涙がこぼれ落ちた。ポタポタと落ちて、足元の石畳を濡らしていく。
嗚咽をこらえようとしても、喉の奥から獣のような唸り声が出てきて止まらない。
だめだ、泣いてちゃいけない。ひかりちゃんのお墓の前で、日明さんに罪を告白すると決めていたのだから。
決意を固めていたのに、ここにひかりが眠っていると思うと、我慢ができなかった。
さざ波のように悲しみが押し寄せて、涙が止まらない。
会いたい。もう一度声が聞きたい。他愛もない話をしたい。手を繋ぎたい。くだらないイタズラをしたい。同じベッドで眠りたい。
初恋の話をしたかった。憧れのテーマパークに行きたかった。映画だってカラオケだって旅行だってしたかった。お酒を飲んでみたかった。仕事のグチを言い合ってみたかった。
お互いに家族ができて、シワクチャになって、死ぬまで一緒にいられるんだって、思っていた。
それなのに、あんなに早すぎる別れが訪れるなんて、思ってもみなかった。
「ひかりちゃん…ひかりちゃん……!」
そっと背中に触れる、あたたかくて大きな手。
その手も震えていることに気がつくと、荒れ狂う感情がただただ涙と慟哭になり、潮風に乗って青い海へと溶けていった。
たっぷりと水をあげ、黄色と白の仏花を供え、二人並んで手を合わせた。
互いの顔に涙の跡が残っているのが気恥ずかしくて、あまり目を合わせていられない。
「そろそろ行きましょう。あんまり遅くなってもあれですし」
歩き出そうとした日明のティーシャツの裾をぎゅっと掴んだ。
振り向いて怪訝そうな顔をする日明に、光希は充血した目を向けた。
「日明さん、聞いてほしいことがあります」
「なんでしょう」
ひかりの墓の前で向き合う二人。波が岩を打ち付ける音が響き、青い空をウミネコの鳴き声が通り過ぎていく。
ひかりのたましいは今ここにいるのだろうか。もしもいたとしたら、どんな顔をしているのだろうか。
うまく思い描けず、顔だけが逆光に照らされているかのようでわからない。
「ひかりちゃんの死の要因のひとつは、わたしが作ってしまったんです」
お盆の日、泣きじゃくるひかりに聞かせた、たましいの話を日明にもした。
「そうしたらひかりちゃんは、ミミ子を大事にすればママのたましいが宿ってお話できるようになるんだ、って信じて喜んでしまったんです。わたしはその話を兄にもしてしまいました。ウソをついたつもりはないけどそんなことは起こらないだろうなって思って、ひかりちゃんを騙しちゃったみたいに思えて、誰かに話を聞いてほしくなってしまったんです。だから兄はひかりちゃんにとって、ミミ子がどれだけ大切な存在だったのか知っていて、利用したんです」
日明は何も言わず、墓石に目を向けた。ちいさなひかりが眠る大きな墓石。
その前にはひまわりが供えられている。ひかりの大好きだった黄色い花が、海風を受けて小さく揺れている。
「日明さん、ごめんなさい」
光希は震える膝に手をあてて、深々と腰を折った。日明の顔を見るのが怖くて、うつむいたまま懺悔する。
「ずっとずっと、誰にも言えませんでした。ひかりちゃんが死んだのはお前のせいだって、責められるのが怖くて。弱くてズルくて最低ですよね、わたし。ほんとうにごめんなさい。兄だけでなくわたしも、責められて罰を受けるべき人間なんです」
瞼がじわりと熱を持つ。だけど泣いてはならない。この涙はひかりちゃんのためのものではなくて、わたしのためのものだから。
泣いて赦される罪なんて、ありはしないのだから。
「向井さん」
日明の低い声にビクリと肩が震えた。だけどどんな叱責も、暴力だって、耐えなければならない。
それだけのことを、自分はしてしまったのだから。
「ありがとう」
思わぬ言葉に顔を上げると、日明が優しい眼差しで光希を見つめていた。
「ひかりはそれまでだってずっとミミ子を大事にしていたけど、確かにあのころからもっと大事にするように、可愛がるようになっていました。上手く言えないんだけど、たださみしさを紛らわすためのものから、心の拠り所になっていた感じがします」
「心の拠り所…?」
「はい」
日明はゆっくりとうなずいて、墓石に目を移した。水を浴びて輝く墓石に、ひかりの顔が浮かんでいるように見えた。
あの懐かしい、天真爛漫なひかりの笑顔が。
「それまではちょっとしたことがあると放り投げたり八つ当たりしたりしていたのに、あのころからしなくなりました。それで何かあったのかと思っていたんですけど、ようやく長年の謎が解けました」
「あっ、ひかりちゃん確かにそういうことしてたかも…」
思い出して懐かしくなり、鼻の奥がツンと熱くなった。
「一人の人間にそうするみたいに、暑くないかとか喉乾いてないかとか、まるで母さんがひかりを気にかけるみたいに接して、乱暴なことをしなくなりました。そのころからひかりは自分のことを自分でやるって言い出して、ちょっとだけお姉さんになったみたいでした」
「そんな変化があったんですね。ひかりちゃん、日明さんにべったりだったのに」
「そうでしたね」
顔を見合わせて小さく笑いあい、日明の細められた目が墓石に向いた。
「なので向井さんのおかげで、ひかりはひとり立ちへの一歩を踏み出せたんです。だから謝る必要はありません。向井さんのくれた言葉のおかげで、ひかりは前へと歩き出すことができたんですから」
「だけど、兄はそれを利用して…」
「そうだとしても、それは向井さんが謝るようなことじゃないです。何でもかんでも自分のせいにしていたら、がんじがらめになって何にもできなくなってしまいます。誰かを思いやっての言葉も行動も、何にもできなくなってしまいます。それじゃさみしいでしょう」
「がんじがらめ…」
光希には覚えがありすぎた。兄のしたことを気に病み、ひかりの死のきっかけのひとつを作ったことを悔やんで、自分には笑うことも幸せになることも許されないと思っていた時期があった。
罪人の鎖を自分自身に巻き付けていた。その鎖は今でも絡みつき、光希を縛り続けている。
「向井さんはひかりに一歩を踏み出すきっかけを、明日を生きるための希望になるような夢を与えてくれたんです。なのでおれから言えることはただひとつです。向井さん、ひかりの友だちでいてくれて、本当にありがとうございます」
日明のひたむきな言葉が、光希に絡みついていた鎖を緩めた。
きっとこの鎖がほどける日はないけど、それでも、ちょっとだけ楽になっていた。
「日明さん…ありがとう…ありがとうございます…」
流れ出る涙はあたたかく頬を濡らし、まるでそこをだれかのちいさな手で撫でられているかのようだった。
泣いている光希をそうやって慰めてくれた友だちを思い出し、泣き止まなきゃと思うのに、涙はますます止まらなくなってしまった。




