2026年 晩夏 9
「余計なお世話だよ、そんなこと。じゃあなに、光希ちゃんは泣き寝入りすればいいって言うわけ。あたしに、犯罪の被害に遭った人に、踏みにじられても黙ったままでいて何もするなって言いたいの。さすが、悪魔の子の妹は言うことが違うね」
越田さんの皮肉な笑みに胸が痛んだ。だけどその目を見返した。
いま目を逸らしてしまったらもう二度と、真っ直ぐに越田さんと向き合えないような気がして。
「違う、そんなことを言いたいんじゃない。ひょっとしたら加害者に復讐することで満足できた人もいるのかもしれない。だけど麻美ちゃんはそうじゃなかった。麻美ちゃんは掲示板に書き込んで復讐をして、それでも気が晴れなかったんでしょう。それはたぶん、麻美ちゃんが本当に求めていたのは復讐なんかじゃなかったからだよ」
「へえ。じゃあなんだって言うのよ、あたしが本当に求めていたものは。あなたなんかにわかるっていうの」
「真凜さん」
静かな声音で告げられて、越田さんの顔から薄ら笑いが消えた。
「麻美ちゃんが親友だと信じていた相手。真凜さんに裏切られたのが、信じてもらえなかったのが悔しくて悲しくて、復讐をしたんでしょう。本当はただ、真凜さんに自分の受けた仕打ちを、痛みを、辛さを、わかってほしかったんじゃないの。わかってもらったうえで、側にいてほしかった」
「そんな、そんなわけがない…」
「だったらどうして、そんな悲しい掲示板まで立ち上げて、多くの人の復讐に手を貸して神様気取りでいるのに、麻美ちゃんは満たされていないの」
体をビクリと震わせて、越田さんは静かに目を閉じた。
そして光希の言葉を咀嚼するような間をおいて、ゆっくりと瞼を開いた。
その目は悲しみで潤み、今にも溢れてしまいそうだった。
「そっか、そうなのかも…。あたしが求めていたものは、最初っから最後まで、真凜ただひとりだったのかも…。本当は復讐なんて、どうでもよかったのかもしれない…。真凜があたしから離れても平気なことが悔しくて憎らしくて、むちゃくちゃにしてやりたかっただけだ…」
目から一筋流れ落ちた雫を拭って、力のない笑みを漏らす。
「あたしね、一回だけ真凜の通う高校に行ってみたことがあるの。真凜がどうしているのか知りたくて、校門から出てくるのを待ち伏せしてた。
久しぶりに見た真凜は笑ってた。あたしの知らない友だちに囲まれて、楽しそうに。まるであたしなんか、いなかったかのように。
どうしてそこで一緒に笑っているのが、あたしじゃないんだって思った。あたしがいなくてもどうしてそんな顔で笑えるのか、教えてほしかった。あたしがいなくても平気な真凜が悲しくて、憎らしくて、殺したくて殺したくてたまらなくなった。それで頭の中がグチャグチャになって、復讐することしか考えられなくなった。
バカだよね、そんなに執着しちゃうなんて。あたしはもっと、真凜以外の人にも目を向けるべきだったのかもしれない…」
瞳をうるませる越田さんの手が震えている。
それに寄り添うように手を添えた。
越田さんの手はひんやりと冷たく、雨に打たれているかのように小刻みに震えていた。
「真凜を失った穴を、ほかの何かで埋めたかったのかな、あたし。ほかの何でもいいから、心を埋め尽くしてしまいたかった。そうしていないと惨めで、悲しすぎたから。今さらそんなことに気がつくなんて、あんなことに時間を費やしていたなんて、バカみたい…。今さら気がついても、遅すぎる…」
「そうだね、ほんとうにバカだと思う」
「ハッキリ言うのね…」
苦笑する越田さんの手を、光希は強く握った。熱を分け与えるように。
「だけど遅くなんかないよ。だって麻美ちゃんには可能性がいっぱいあるんだから」
「そんな可能性なんて…」
「大学に入って一生懸命がんばって、私にはちんぷんかんぷんなIT関連の難しいこと勉強してきたんだから。キャリアウーマンになってガッポリ稼いで、これまでを帳消しにするくらい遊んじゃえばいいんだよ」
「光希ちゃん…」
ふっと笑って、越田さんは意地悪な顔をした。
「なにそれ。頭でっかちなあたしには、お金を稼いで得られる楽しみしかないってこと?」
「それは、言葉のあやだって。麻美ちゃんかわいいし、いい性格してるし、きっと素敵な出会いがいっぱいあるよ」
「褒めてるようで褒めてないでしょ、それ」
「あっ、バレた?」
顔を見合わせて小さく吹き出し、越田さんはバッグから取り出したハンカチで目元を拭った。
「もう、光希ちゃんバカなんじゃないの。もっとあたしに怒っていいのに。過去を嗅ぎ回ってその結果として昔の男を呼び寄せて、あなたが絶対に知られたくないことを日明さんにバラしたんだから。殴られて絶交されてもしょうがないくらいのレベルだよ」
「そうなのかな。あたしよくわかんなくなっちゃったんだよね、怒るって。ほら、江戸時代の身分制度でえたひにんってあったじゃん。最下層の人間扱いされない人。それを知ったときに、あっ、これ、私のことだって思ったの。あの事件から私はずっとえたひにんなんだって。兄のしたことで責められて怒りをぶつけられるのが当たり前で、そうされるたびにただただ悲しくて申し訳ない気持ちになってた」
「なにそれ、バカバカしい。事件を起こしたのは光希ちゃんの兄なんだから、そんな不当な仕打ちに黙ってる必要なんかないのに。あーもう、むしゃくしゃするなあ。あなた、まさかそれであのホスト崩れにされてたDVも許してきたんじゃないでしょうね」
「あー、それは…あるかも…。私なんて殴られて当たり前だって思ってた…」
越田さんは盛大にため息をついて、つばを飛ばすくらいの勢いで喋った。
「ほんとバカじゃないの。そんなの耐える必要なんてないのに。いい、光希ちゃん。暴力を振るわれていい人間なんてこの世にいないの。どこの誰であろうとも、理不尽な暴力を受けたらやり返していいんだから。ガンジーじゃあるまいし、やられたら倍返しでも十倍返しでもとことんやり返してやりなさい」
「おお、過激派だね麻美ちゃん」
「茶化さないでよ。あたしほんとに光希ちゃんに好き勝手してきたやつらに腹立ってるんだから。ってなに笑ってんの。あたしは真面目に話しているのに」
「ううん、違うの。これは嬉しくて笑ってるの。私なんかのために麻美ちゃんが怒ってくれてるのが、嬉しくて」
言っているうちにテーブルに水滴が落ちた。グラスの結露かと思ったけど違う。それは自分でも気がつかないうちに、光希の目からこぼれ落ちていた。
ぬぐってもぬぐっても止まらず、光希は顔を両手で覆い隠した。
どうして痛くも悲しくも悔しくもないのに、涙が流れるのかまったくわからない。
「ごめん、なんでだろ。嬉しいのに、止まらなくって。あれ、変だな…」
「いいよ、無理に泣き止もうとしなくて。嬉し泣きって言葉もあるくらいだし、ぜんぜん変じゃないから」
「そっか…これが嬉し泣きなんだ…。ごめんね麻美ちゃん…すぐ泣き止むから…」
「もう、そんなんで謝らなくていいって。それよりあたしの方こそごめん。日明さんに過去をバラして、酷いことまで言って。あたし信じるよ、光希ちゃんのこと。光希ちゃんがひかりちゃんのために償いをしたいっていう気持ち、誰がなんと言おうとあたしは信じるし、できることがあるならなんでも協力もする」
「麻美ちゃん…ありがとう…本当にありがとう…」
涙目で微笑む光希から照れたように目をそらして、越田さんはメニューを開いた。
「はあ、それにしてもいっぱい話したからお腹空いちゃった。甘いのはじゅうぶん食べたし、なんかしょっぱい系のものでも食べない?」
「うん、食べよう」
グスグスと鼻をすすって手で涙を拭いて、光希も一緒になってメニューを見た。
「あっ、ナポリタンがある。日明さんのとどう違うのか気になる」
「仕事熱心な人。あたしピザトースト食べたいからはんぶんこにしない?」
写真に乗ったピザトーストはチーズたっぷりで見るからに美味しそうで、喉がゴクリと鳴った。
「大賛成。私ピザトーストも大好き」
「というか光希ちゃん嫌いなものあるの?」
「うーん、だいたい好きか大好きかも。麻美ちゃんは?」
「魚介類。地元を思い出すし、散々食べさせられたからもう食べたくない」
「ああー、そっか…お寿司とか美味しいのに…」
なぜか落胆する光希を見ているとふっと笑えて、ポロっと口からこぼれ出た。
「だけどたまには、お寿司食べに行くのもいいかもね」
「えっ、ほんと!?じゃあ今度、悠一さんから教えてもらったお店行こ!回るのに味は回らないお寿司なんだって!」
「なにそのなぞなぞみたいなお店」
などと話していると両方のお腹が鳴って、光希と越田さんは笑いあいながら寿司屋に行く約束を交わした。




