2026年 晩夏 7
「同情してくれてありがとう。だけどまだどん底ではないのよ」
どこか楽しげな口調で言う越田さんが、無理をしているようにしか見えなくて痛々しかった。
「中学生のくせに朝帰りをしたあたしは親から死ぬほど怒られて、どこで何をしていたのか問い詰められた。だけど答えられるはずがないし、友だちの家に泊まっていたってウソをついた。だって言えるわけがないよね。ヤケになって家を飛び出して、クラブでお酒を飲んで友だちの兄にレイプされた、なんて。
あたしは悪くないはずなのに、なぜかあたしが酷い悪事を働いてしまったように思い込んでいた。親には絶対に知られてはならないって、強く強く思っていた。
もうすべてがどうでもよくなって、気がつくと涙がつうっと頬を流れていた。西日が照らすベッドに横たわって死ぬことばかり考えていた。首を吊ったり高いところから飛び降りたり海に飛び込んだり手首を切ったり、そんなことばかりが頭に浮かんで、気がつくと眠っていた。
目が覚めるとすっかり夜で階下が騒がしい。それがひどく気になって、あたしは一階に降りることにした。
足音を忍ばせて階段を下りると、狭い居間に四人の大人が集まっていた。あたしの父親と母親と、真凜の父親と眼鏡をかけた硬い雰囲気の男。来客のどちらもがスーツ姿。
地域の名士があたしの父親と母親に向かって、深々と額を畳につけていた。それで察するよね。あたしが秘密にしておきたかったことは、もう全て両親に伝わってしまったんだって。
地域の名士に目配せされると、眼鏡をかけた男がアタッシュケースを開いて中身を両親に見せた。その中身はドラマや映画でした見たことがない札束。両親が息を呑んだのが隠れて見ていたあたしにもわかった。あたしも息を呑んでいたから。
眼鏡の男が言うには示談金の五百万円。口止め料とは言っていなかったけど、そういう名目の三百万円。合計で八百万円。そのお金で両親は、海斗があたしにしたことをなかったことにした」
「それが、八百万円で売られた…」
自虐的な笑みを浮かべてうなずく越田さんが、ただただ悲しかった。
「一般的な強姦の示談金がいくらなのかはわからないけど、たぶんそれよりは多いんじゃないかしら。だってその頃、名士様の父親、磯部水産の先代社長は市議会議員の選挙に出馬しようとしていたのだから。一族のスキャンダルは絶対に避けたかったから、金に物を言わせて早めに芽を摘もうとしたのでしょうね。
そんな裏事情を当時のあたしは知らなかった。知っていたとしても、受けたショックは変わらなかったでしょうね。
だって両親が、八百万円であたしをキズモノにした男を赦したことに変わりはないもの。
頭をハンマーで殴られたような衝撃、とはよく言ったものね。本当に失望したときや絶望したときって、頭がクラクラするものなんだって初めて知った。物音を立てないように部屋に戻って、またベッドに突っ伏した。
親ならあたしの受けた仕打ちを知ったら怒ってくれる、ってどこかで期待していた。
だけどそれどころか、父親は媚びへつらうような笑みを浮かべて、『じゃあそういうことなら、このお金はありがたく頂戴しておきます。だって受け取ったほうが、磯部さんたちも安心できるんですもんね』って、まるでボーナスでも貰うみたいに受け取っていたのよ。
娘のために戦うどころか、思わぬ臨時収入に相好を崩す父親。母親はさすがに渋い顔をしていたけど、何も口を出さなかった。女性に発言権なんてものはない、腐った海水みたいな父権社会だから。
このままここにいたら、自分も将来あんなふうになってしまうと思うとゾッとした。絶対にこんな腐りきった町から抜け出してやるんだ、ってますます強く決意を固めた。
でもそれにはお金が必要で、あたしの進学費用は父親のギャンブルですっからかん。何の才能もなく、狭い田舎育ちで世間も知らない中学生にまとまった額を稼ぐ手段はない。
いや、待てよ、お金ならさっき手に入っていた。
示談金と口止め料。あたしに刻まれた傷の対価。
あたしはそれに喜んでしまった。これで真凜と一緒にこの肥溜めから脱出して、おんなじ高校に行ける、って。それはひどく汚い考えのように思えたけど、なりふりかまってなんていられなかった。
だってそれだけが、あたしにとっての唯一の希望になっていたから。これまでもそうだったけど、これまでよりも一層強く光を放つ、まばゆい北極星のような希望に」
遠くを見つめていた越田さんの眼差しが、手元に置かれたアイスコーヒーのグラスに注がれた。真っ黒なアイスコーヒーの注がれたグラスの中で、氷がカランと音を立てる。
「だけどその望みは、叶わなかった。
両親を説得、というかレイプされたことを言いふらすって脅して、示談金と口止め料をあたしの進学費用に充てさせることには成功した。本当に言いふらせなんかしなかったでしょうけど、でまかせでも口に出してみるものね。
父親は顔を赤黒くして怒って、反対に母親は青ざめて泣いていた。あの対比はちょっと笑えたな。父親からは『オレの面子を潰す気か』って凄まれ、母親からは『そんなことされたらここで暮らせなくなる』って泣かれて、こんな腐った田舎に染まりきった親とも縁を切る覚悟が決まった。
金銭面の問題は解決した。由来はともかくとして、お金の価値は変わらない。学力も問題なかった。これでも勉強はできてね、ひどい目に遭っても全国模試で上位の方にいたんだよ、あたし。すごいでしょ。
高望みさえしなければ、望む場所に行ける切符を手にしていた。たとえそれが、汚れた切符だったとしても。
だけどひとつだけ、あたしの手からこぼれ落ちていってしまったものがあった。
磯部真凜。あたしが手を取り合い、一緒に歩いて行きたいと思っていたパートナー。
真凜があたしによそよそしくなっていた。いや、露骨に避けられるようになっていた。放課後一緒に勉強することはなくなって、休み時間に話そうとしても真凜は他のグループの子たちと一緒で近づけなくて、連絡を入れても無視された。
ある日の放課後、真凜の帰り道を待ち伏せして話そうとした。何かの誤解ですれ違っているだけで、話せば元の関係に戻れるって、信じていた。
真凜は立ち塞がるあたしを憎々しげに見て、目をそらして吐き捨てた。
『近寄らないで、汚らわしい。あなたがお兄ちゃんを誘って、そういうことに持ち込んだんでしょう。被害者面しないで、このビッチ。もう二度と私につきまとわないで』
それは歪められた真実だって訴えても、真凜は聞く耳を持ってくれなかった。あたしたちの間にあった友情だと思い込んでいたものは、海の底へとしずんでいった」
今にも泣き出しそうな顔をする越田さんの気持ちが、光希にはよくわかった。事件の直後、仲の良かったクラスメイトたちが離れていったときの、あの世界中から突き放されたような絶望を光希は思い出していた。




