2026年 晩夏 6
「あたしの地元は東北地方の海辺にある田舎町でね、コンビニもスーパーも車を何十分と走らせないとたどり着けないような不便なところ。町の大人は漁師になるか農業をするか工場で働くか、都会に出稼ぎに出るくらいしか選択肢がない陸の孤島みたいなところ。価値観が昭和のままアップデートされていない、息が詰まるクソ田舎。
選択肢が少ないのは子どもたちも同じで、中学生になるころには県外の高校に行くための準備を始める。通える範囲に高校なんてなかったからね、だいたいが地元を離れていた。そして戻ってくることもなかった。子どもの数だって当然少なくて、同級生はたったの九人。その中には地元の有力者の娘、磯部真凜がいた。
磯部家は昔、網元っていう漁師たちに船や網といった漁の道具を貸し出す仕事をしていて、それで大きな財産を築き上げていた。それを元手に現在では水産加工や直売とかの事業を幅広く展開する磯部水産を起こして、地元に大きな雇用の場をもたらした。まさに地域の名士、大人たちは足を向けて寝られない存在。
足を向けて寝られない存在ではあるけど、趣味の悪い外車を乗り回して、従業員たちに横柄な態度を取る社長はひどく嫌われてた。家族経営の会社で、磯部家に連なる奴らはだいたいそんな感じでみんなから影で忌み嫌われてた。パワハラモラハラ一族、って言ったところかしら。
だけどそんな磯部家にあって真凜は違った。
町の人達に威張り散らす親族を毛嫌いして、学校でも特別扱いされることを望まず、ほかの子たちと同じようにしてもらうことを先生やクラスメイトに求めていた。あたしはそんな清廉潔白で聡明な真凜が大好きで、小さい頃からよく一緒に遊んでいた。
うちの親は磯部水産の工場に勤めていたから、そんな畏れ多いまねはよせって止められたけど、そう言われるとますます意固地になって見せつけるみたいに真凜とバカなことをして遊んだ。
堤防から海に飛び込んで溺れかけたり、心霊スポットって言われていた廃寺に忍び込んで警察沙汰になったり、空き地で二人だけで花火をしてあやうく火事になりかけたり、ほんと楽しかったな。
親の言うことに逆らいたくなるのが子どもの性ってものよね。素直に従っておけばよかったって、今では思うけど」
遠い目をする越田さんの目には、懐かしさに思いを馳せる者の優しい光が垣間見えた。しかしすぐに線香花火のように儚く消え去った。
「あたしと真凜が受験勉強に専念していた中学三年生の頃。真凜の兄、海斗が高校を卒業して家に戻ってきた。都会の進学校で寮生活をしていた彼は大学受験に失敗して家に戻された。地元では神童とうたわれるくらい成績優秀だったけど、都会に出て井の中の蛙だったと思い知らされたんじゃないかしら。真凜はよくグチっていた。『お兄ちゃんが帰って来てから家の空気が悪い』って。
大学受験に失敗した反動か、無理やり家に戻された反動か、たぶんその両方なのでしょうね。海斗は素行のよくない連中とつるむようになり、免許取り立てには分不相応な高級車を乗り回すようになった。いつも酒臭い息を吐き出して遊び歩いてばかりで、働いている様子はまるでなかった。
真凜は朝帰りを繰り返す兄を見かねて父親に文句を言ったけど『若いころはあんなもんだ。遊びたい盛りなんだから放っておけ。そもそも女のくせに口出しするんじゃない。生意気だ』って怒られた。あのときの真凜の悔しそうな顔ったらなかった。絶対にこんな腐った町なんか出ていって二度と帰ってくるもんかって、息巻いてた。あたしもそれに大賛成だった。
二人で同じ高校に進んでアパートを借りて一緒に生活して、大学でもそうしてその先も、って夢みたいなことを語り合っていた。あたしたちならそうできるって、信じていた。
真凜の家で一緒に勉強するのがあたしたちの日課になっていた。あたしの家だと親がうるさいし、真凜の母親はあたしたちを応援してくれていたから。あたしたちは勉強して知識や教養を身につけて、絶対にこんな腐りきった田舎から出ていって二度と戻らないって、それを原動力に毎日勉強に励んでいた。
だけど、二人で一緒に町を出ることは、叶わなかった」
明るい日差しの入る店内にあって、越田さんの顔だけに暗い影が落ちていた。
「父親があたしのための進学費用を使い込んで、ギャンブルに明け暮れていた。発覚したときにはもうほとんど底をつきそうなくらいで、どうしようもなかった。あの父親、責めるあたしになんて言ったと思う。
『うるせえな、元はオレが稼いだ金なんだ。どう使おうがオレの勝手だし、増やしてやるつもりだったんだよ。女は学がなくても嫁にはいけるんだから、高校なんてどうでもいいだろ』
それでキレちゃって、手近にあったあらゆる物を投げつけて家を飛び出した。どうにでもなれって気持ちになって、電車に飛び乗って近辺で一番賑わっている駅で降りた。もう空はすっかり暗くて、飲み屋からは酔っ払いがはしご酒をしようと出てくる時間帯。
子どもが近づいちゃいけないって言われている繁華街をヤケになってぶらついた。だけど段々と頭が冷えてきてこんな場所に一人でいるのが怖くなってきた頃に、声をかけられた。
声をかけてきたのは海斗だった。
長く伸ばした髪を金髪に染めて、耳や鼻ににジャラジャラとピアスをつけてすっかり神童の面影をなくした男。真凜の家で勉強してたときに、たびたび顔を合わせていたから知った顔を見つけて安心した。海斗は似たようなお仲間たちと一緒にいた。
こんなところでどうしたんだって聞かれて事情を説明すると最低なオヤジだなって憤ってくれて、あたしは救われた気持ちになった。それから海斗たちと一緒に地下にあるクラブに入って、初めて酒を飲んで、気がつくとベッドに横たわっていた」
光希は息を呑んで越田さんの顔を見つめた。その顔は青ざめて、能面のように無表情だった。
「タバコと消臭剤の香りが混じり合った臭いが気持ち悪くてたまらなくて、初めて飲んだ酒の酔いも回り、あたしはトイレに行きたくなった。ベッドから立ち上がったけど思うように体が動かなくて、頭が割れるように痛くてしょうがない。
うずくまって頭を押さえているとシャワーの音が聞こえてきた。それで周りを見回して、あたしはそこがどう呼ばれている場所か、ようやく検討がついた。
今のうちに逃げないとヤバいと思って出入り口らしきドアを開けようとした。だけどドアは開かなくて、鍵を外してもびくともしなくて途方に暮れた。自動精算機で精算をしないと出られない仕組みなんて、中学生が知るはずなかった。
焦って時間ばかりが過ぎていき、やがて風呂場のドアが開く音が聞こえてきた。逃げられないならせめて隠れなきゃと思うけど、狭い部屋に隠れられそうなところはない。絶望に震えて部屋の隅で膝を抱えていると、肩にバスタオルをかけた海斗が出てきた。
まさか妹の友だちにそんなことするわけがない。これは何かの間違いで、あたしに手を出すはずなんてない。
そんなわけなくて、海斗は震えるあたしを見下ろすと、獣みたいな笑みを浮かべた。
それからのことは、よく覚えていない。とにかく泣き叫んで必死に抵抗して、だけど何発か殴られて逆らう気力もなくなって、あたしは汚された」
「そんな…ひどい…」
光希の口からはそれ以上の言葉が出てこなかった。




