2026年 晩夏 4
このところ続いていた日明の不調が鳴りを潜め、元の淡々と的確に仕事をこなす彼に戻っていた。
日明の要望で、疲労の原因になっていたパフェを土日限定に戻したのがやはり大きいのだろう。
売上が伸びるに越したことはないが、長く続けられることの方が遥かに大事だ。無理をさせてまで毎日パフェを売り出す必要はない。
悠一も腰に少々の違和感を覚えつつあったので、日明の申し出はむしろ渡りに船ですらあった。
せっかく日明と光希の頑張りによって客足が増えてきていたのを自分のせいで途絶えさせるのはしのびなくて、悠一からは言えずにいた。だから日明から言ってくれて悠一はホッとしていた。これでゆっくりと腰を労る時間が取れる。
ありがたいことに当初はパフェ目当てで訪れていた客が、コーヒーやナポリタンの味を知って通ってくれるようになっていたので、そうしても売上が極端に落ちるということはなかった。
ランプに午後のゆったりとした時間が戻ってきた。そのおかげでこのところ足が遠のいていた常連たちも戻ってきてくれた。売上にはあまり貢献しないが、精神的にはとても嬉しい。三山さんとのんびり将棋を指す時間が、岸さんに読んでいるラノベの内容を教えてもらう時間が、こんなにも貴重で心休まるものだったとは。
やっぱり心のゆとりというものは大切なのだなと深くうなずきながら、悠一は日明の作ったナポリタンをすすった。
「うん、やっぱりみんなで一緒に食べるごはんは美味しいね」
「ですよねー。三人揃ってまかない食べるのってけっこう久しぶりですよね」
ランチタイムが終わって一段落し、三人はテーブルを囲んでいた。
にこにこ笑う悠一と光希に対して、日明はいつもの仏頂面だ。
「時間があって丁寧に作れているからです。忙しいときに手を抜いているつもりはないですけど、どうしても疎かになってしまう部分はあります」
「またまたあ、日明だって一緒に食べられて嬉しいくせに」
「そうですよ。素直にみんなで一緒に食べるご飯を味わいましょうよ」
「…まあ、そういうのもあるかもしれない…」
仏頂面で言う日明のほほに、照れているみたいにケチャップがついていて悠一と光希がそろって吹き出した。
「なっ、なに、いったい…」
「日明さん、動かないでください」
怪訝そうな顔をする日明のほほを光希がテーブル拭きでぬぐった。
「ちょっと向井さん、それテーブル拭くやつでしょう」
「ほっぺにケチャップがついていたんで。いつかのお返しです」
「いつまで根に持っているんですか」
「恨みを忘れない女なんです、私」
二人のやり取りを見ながら、悠一はおやっと思った。
なんだかこの二人、最近いい感じに見える。てっきり日明はよその子にお熱だと思っていたけど、けっきょく光希ちゃんとよりを戻したのか。うん、大賛成だ。光希ちゃんなら日明と相性ぴったりだ。まるで長年連れ添ってきた幼なじみみたいに見える。
「あっ、そんなことより日明さん」
「あっ、うん」
真顔になった光希に呼びかけられて、日明も改まった顔つきをした。
いったいなんだと言うのだろう。
「お義父さん、店が終わったあと話があるんだけどいいかな」
久しぶりに日明からお義父さんと呼ばれて、ジンと胸が熱くなった。
日明にはパパと呼んでくれと養子になったころから言い聞かせてきたが、そう呼んでくれたことは少なくて最近はほとんどなかったから、久しぶりのお義父さんがジャズの名演奏みたいに胸に染みた。
「ああ、もちろん」
にこやかに承諾した後で、何の話だろうと疑問に思った。
あの様子だと光希ちゃんも関わりのある話みたいだけど、まさか、結婚。えっ、そんな一足飛びに話が進むことなんて、あるの。いやしかし、二人揃って改まって話をって、それくらいしか思いつかない。最近の若い子なら当たり前のスピード感なのかもしれない。えっ、どうすればいいの、これ。いつものヨロヨロのポロシャツ姿だけど、スーツとかに着替えたほうがいいのかしら。
しかし悠一のそんな心配は杞憂だった。
二人から聞いた話は思いもよらないもので、悠一はただただ理解するだけで精一杯になった。
「そうか、言われてみれば確かに面影がある…。でも君がまさか、麻希ちゃんだったなんて…。いや、大きくなったねえ…」
片手で数えられるほどではあったが、悠一も麻希と会ったことがあった。それに、兄の心司とも。
「今まで黙っていて、本当に申し訳ありませんでした」
「向井さんはおれが乃木日明だってことにも気がついていなかったんだ。だから悪気とかはなくって、本当にこの店を気に入って選んでくれたんだよ」
深々と頭を下げる光希をかばうように日明が言った。
その様子はまるで妹を守る兄のようで、かつての日明を思い出して悠一は目を細めた。
「ああ、もちろんわかっているよ。光希ちゃんはよくやってくれているし、もうすっかりランプの看板娘だ。いなくなったらまたむさ苦しい店に戻ってしまうし、常連さんたちもひかりちゃんもさみしがる」
にこやかに言う悠一に場の空気がやわらいだ。
「でもひとつ聞いていいかな」
「はい、なんでしょう」
居住まいを正した光希に悠一は静かな口調で聞いた。
「呼び方は今のままで、光希ちゃんでいいのかな」
「あっ、それはもちろん。光希でお願いします」
「当たり前でしょ。前の名前だと不都合があるからそうしているんだし、それに向井さんの名前にはちゃんと意味があるんだから」
「意味?」
ひかりのことを忘れないために、という光希の説明を聞いて悠一の瞳に涙が盛り上がった。
「そうか…それで光希…。ありがとう、光希ちゃん…。きっとひかりちゃんも喜んでいるよ…」
嗚咽する悠一に、日明と光希は見つめ合ってほっと息をついた。
光希の正体を知って悠一が態度を変えるとは思っていなかったが、もしもという不安は拭えずにいたので二人とも肩から力が抜けた。
悠一は日明から紙ナプキンを受け取ると涙を拭い、鼻をブーンとかんで落ち着きを取り戻した。
「じゃあこれは僕たちだけの秘密にしておこう。無闇矢鱈に広めるような話じゃないし、常連さんにも言わないのが得策だろうな。ここだけの話って絶対に広まってしまうものだし」
「あっ…」
「それは…」
日明は越田さんから教えられたサイトで光希の正体を知ったことを悠一に話した。
「なるほど、越田さんはもう知っているわけか。さてさて、それはどうしたもんかな」
「いちおうこの話は広めないで、って釘を差してはおいたけど」
「うーん、越田さんは言いふらすようなタイプではないと思うが、ちょっと不安ではあるね」
「掲示板の情報なんて全部デタラメ嘘八百、ってことにしておくのはどう?」
日明の提案に悠一が渋い顔を返す。
「でもかなり詳しく載っていたんだろう、その掲示板。全部ウソです、で貫くのは無理があるんじゃないか。それにもしも越田さんがさらに調べて事実だと知られたら厄介なことにならないかな」
「それは、そうかも…」
「まったく、どこの暇人がわざわざそんな書き込みしたんだか」
「さあ。越田さんはあのホスト崩れが向井さんへの嫌がらせのためにしたんじゃないか、って言ってたよ」
「ああ、彼か。あれ、でも岸さんの話だとホスト崩れもその掲示板を見て、光希ちゃんの居場所を知ったはずなんだけど」
「えっ、じゃあ書き込んだのは他の誰か、ってこと…?」
「うーん、そうなるかもなあ…」
「あの…」
姿の見えない悪意に薄ら寒い思いをしていると、光希がおずおずと手を挙げた。
「わたしから麻美ちゃんに話していいですか。中途半端に知られているよりは、正直に全部話してお願いしたほうがいいと思うんです。それにせっかくできた友だちに、ウソをつきたくないですし…」
「そうか、それもそうだね。うん、光希ちゃんから話すのが一番いいと思う。越田さんならわかってくれるよ」
安心させるように微笑む悠一に光希がぎごちない笑みを返した。
それが不安を押し隠しているように見えて日明は声をかけた。
「一人で大丈夫ですか、向井さん。なんならおれも一緒に事情を説明しますけど」
「だいじょうぶですよ日明さん。女の子同士のヒミツの話に首を突っ込もうとしないでください」
「そうだぞ日明。女同士の話に男がしゃしゃり出てもろくなことにならないもんだ」
「あー、悠一さんなんですそれ。経験談ですか?」
「いや、一般論だよ、一般論」
「ええー、怪しいなあ」
別の話題に流れてしまったものの、日明はさっきの光希の様子が気になって仕方がなかった。




