2026年 晩夏 3
「日明さんやめて!」
振り上げた腕に絡みついてくる邪魔な手。光希の華奢な手。
「離せ!そいつを殺さなきゃひかりが浮かばれない!」
「駄目です!そんなことしたら日明さんが…!」
華奢なくせに振り払おうとしても必死にしがみついてきて離れない。復讐の刃を振り下ろせない。
悪鬼の形相で睨みつけてくる日明に心司は顔を青くして後退り、呆然とした様子で口を開いた。
「な、なんで日明がそんなに怒るんだよ。ぼくはお前の……」
「お兄ちゃん逃げて!早く!」
懇願する光希の声にハッとしたように身震いし、心司は日明に背を向けてせかせかと靴をつっかけて玄関から飛び出した。飛び出す直前に振り返ったその顔には紛れもない恐怖が浮かんでいた。
ひかりの命を奪ったくせに、自分は死にたくないとでも言うかのように。
逃がしてしまう。このままではひかりを殺した仇が逃げおおせて、のうのうと明日を生きてしまう。
ひかりが生きたくても生きられなかった明日を、こんなクソみたいな、生きている価値なんてなにもない男が、生き伸びてしまう。
そんなこと、許せるわけがない。ひかりにもう明日が訪れることはないのに、この男にはそれが訪れるなんて、絶対に許せない。
「離せ!邪魔をするな!」
力任せに腕を振り回すとようやく鬱陶しい腕が離れた。
「きゃあ!」
体が自由になると同時にドンッと鈍い音がして鋭い悲鳴が上がった。立て続けに物が割れる甲高い音が耳を貫き、日明は我に返った。
「えっ…?」
音のした方を振り向くと、光希が流し台に背中をもたれてぐったりしていた。後頭部をぶつけたのか、うめきながら手で押さえている。その周囲にはいくつかの瓶が割れて散らばり、中に入っていたハーブが散乱している。
日明が腕を振り回したせいで光希が流し台に後頭部をぶつけて、その衝撃で瓶が床に落ちて割れた。
そこまで理解したところで、開け放たれたドアがひとりでに閉まるのが目に入った。
日明は一瞬迷い、大きく息を吐き出すと包丁を水切りかごに戻した。その手にはくっきりと包丁の柄の痕が残っている。
殺せなかった悔しさと、殺さなくてすんだ安堵が、胸の中でカフェオレみたいに混じり合っていた。
向井さんに止められなかったら、おれは心司に包丁を振り下ろしていたのだろうか。あいつを殺して、それで、どんな思いになっていたのだろう。気は晴れるのか、あるいはもっと深く沈み込んで、絶望するのか。
濁った思いを抱えたまま光希の側に膝をついた。
「あの、大丈夫、ですか…?」
光希は抱えた膝に顔を埋め、グズグズと鼻をすすっていた。
「ごめんなさい…兄が…ごめんなさい…本当にごめんなさい…」
肩を震わせる光希から目を逸らし、日明は黙々と砕け散った瓶の破片を拾って一箇所に集めた。
大きな破片はあらかたまとめたものの、細かく砕けた破片はハーブに混じって光を反射している。
「これはもう、使えないな…」
虚しい思いを抱えながらつぶやいた。
乾燥したハーブに混じる、細かく鋭いガラス片。
それを見ていると光希の努力を台無しにしてしまったように思えて胸が痛んだ。
「ご、ごめんなさい、私、日明さんばかりに片付けさせちゃって…」
ぐしぐしと手で涙を拭い、光希が立ち上がった。
「いえ、そんな。おれこそハーブを台無しにしてすいません」
「日明さんのせいじゃないです」
光希は大きな音を立ててグスッと鼻をすすり、流し台の下の収納から小さなホウキとチリトリのセットを取り出して床を掃いた。
その手は小刻みに震えて顔は青ざめている。こういうときにこそハーブティーは気持ちを落ち着けてくれるのかもしれないが、今さら飲む気にはとてもなれなかった。
「あっ、足元、気をつけて。ガラスがまだ転がってるかも」
「ありがとうございます、日明さんが集めてくれたからだいじょうぶそうです」
集めた瓶の破片はどうすればいいか聞くと、チラシに包んでテープで止めて危険物に出すと言うので引き受けた。
チリトリに集めたガラス入りのハーブをゴミ箱に捨てながら、光希がつぶやいた。
「十二年ぶりに、会いました…」
チラシに破片を包みながら、日明は息を吐いた。
「変わっていませんでしたね、あいつ。見た目も、中身も…」
「はい…」
テープで止めたものをどこに置いておけばいいか聞こうと顔を上げると、ホウキとチリトリを握りしめて光希がボロボロと涙をこぼしていた。
「ごめんなさい。日明さん、本当にごめんなさい。十二年も経ったんだから、兄も変わっただろうって、思ってしまいました。誠心誠意、日明さんに謝ってくれるだろうって、思ってしまいました。それなのに、あんな酷いこと、平気で言うなんて…」
日明は何も言えず、流し台にまとめた瓶の破片を置いた。
「だけどそれでも、私にとっては兄なんです。たとえ『悪魔の子』でも、私にとっては唯一の身内なんです。死んでほしくないし、日明さんにも殺してほしくなくって…」
泣き顔が昔とそっくりで、日明は思わず涙を拭おうと手を伸ばした。
光希はホウキとチリトリを手放して、日明の手を両手で握った。
冷たくしっとりと吸い付くような、光希の手。小さな女の子から大人の女性になったその手が、なぜだか無性に切なく思えた。
「だけどもし、日明さんが兄を赦せないのなら、私がこの手で兄を殺して、私も死にます。もうそうするしか、私たちにできる償いはないんです。だから日明さんは手を汚さないでください。この手は美味しいものを作って、多くの人たちを幸せにできる手だから…」
光希の涙は止まり、その目には静かな決意が宿っていた。
張り詰めた弓のように危うく、静かで悲しい決意が。
「絶対に駄目です、そんなの。向井さんだってそんなことしちゃ駄目です」
「だけど、それじゃあひかりちゃんが…」
「ひかりは復讐なんかしても喜ばないし望まないと思うし、なにより一番の友だちだった向井さんが自分のせいで死を選ぶだなんて、そんなの一番悲しみます」
ついさっき心司を殺さないと浮かばれないと言ったばかりなのに、正反対のことを言っているという自覚はあった。
だけど光希の過激な発言のおかげで冷静になれて、そんなわけないと思い直すことができた。
ひかりはやさしくて、太陽のように明るくて、怖がりな子だった。そんなひかりが復讐なんて物騒なことを望むなんて、想像できなかった。たとえ思い込みだとしても、ひかりを誰かの死を望むような子にしたくなかった。
「日明さん…」
「おれたちにできるのは、ひかりのことを忘れずに日々を生きていくことだけです。ランプはそのための店でもあるんですから」
「えっ…?」
「叔父が考えてくれたんです。ランプはひかりをその中に宿して、みんなを明るく照らしてくれる、って。だからあの店はランプっていう名前なんです。ひかりのたましいが、ここにいてくれるって信じて」
「ひかりが宿る場所だから、ランプ…」
光希の目に再び涙が盛り上がり、目頭を押さえた。
「ひかりちゃん…」
日明はそんな光希を優しく見つめながら、労るように肩に手を置いた。
「だから向井さんには、これからも頑張ってもらわないといけません。ランプを、ひかりがいる場所を、閑古鳥が鳴くさみしい店にしないために。なんせランプの看板娘なんですから」
光希はこくこくとうなずいて涙を拭い、唇を噛んで鼻をずずっとすすり上げた。
その仕草が昔と変わらず、日明は小さく微笑んだ。
声を上げてあけっぴろげに泣くひかりに対して、麻希は声を出さずに踏ん張って泣き止もうとする子だった。
「だ、だったら、他人事みたいに言ってないで日明さんもがんばらないとですよ…。だってひかりちゃんの、お兄ちゃんなんですから…」
だけどこんな憎まれ口を叩くことはなかったので、日明は目を丸くして、思わず吹き出してしまった。
笑うとなぜか涙もこぼれ落ちてきて、自分が笑っているのか泣いているのかわからなくなった。
踏ん張っていた光希も日明に釣られたように泣き出して、二人して涙が止まらなくなった。
泣きじゃくる二人の間に、蛍光灯の優しい光がふんわりと落ちていた。




