2026年 晩夏 2
ジジジと誘蛾灯に群がった羽虫が音を立てて、ほうけたように見つめ合う三人の間を大きな蛾が鱗粉をふりまいて飛び去っていく。
チノパンにポロシャツ。まるであの夏からそのまま抜け出したかのような格好をした青年。
はにかんだような笑みを浮かべるとそのほほにエクボが出来て、大人になっても変わらないその特徴がひどくグロテスクに見えた。
「やあ、久しぶり」
手を上げる仕草があまりにも軽くあどけなく、昔と変わらなくて、日明はつい手を上げ返していた。
絶対に殺してやると泣きながら誓っていた日々もあったのに、目の前にすると強い懐かしさに襲われて気が抜けた。
こいつが、心司がほんとうに、ひかりを殺したのか。ひかりを殺しておいて、こんなに屈託なく、挨拶なんてできるものなのか。
「麻希と、それに日明、だよな。驚いたな、まさか一緒にいるなんて」
声も喋り方もまるで昔と変わらない。少し高く、こもったような声でボソボソと喋るから聞き取りづらい。
猫背気味で姿勢が悪いのも変わらず、向き合っているとまるであの夏に戻ったかのような錯覚を覚えて目眩がする。
「どうして、どうしてお兄ちゃんが、ここにいるの…?」
大人になった光希の硬い声に日明の意識が引き戻された。
そうだ、もうあの頃とは何もかも違う。
背丈も、互いの立場も、名前も、失われたものも、何もかもがもう二度と、戻らない。
それなのに。
「麻希が引き取られたっていう川崎のおばさんのところに行って聞いた。おばさんも歳を取ったね、シワも白髪もすっかり増えちゃってさ」
楽しげな世間話のように言って、同意を求めるようにこちらを見る心司の気がしれない。
ひかりを殺しておいて、どうしてそんなにヘラヘラと笑っていられる。おれの、ひかりの兄である、おれの前で。
ひかりを殺したことになんの痛痒も抱いていないかのように、ひかりのことなんてなかったかのように振る舞える心司が理解できない。目の前にいるのがまるで人の姿形だけをまねた未知の生物のように見えて、恐怖にも似た不快感を覚えた。
「そ、そう。とりあえず部屋に入ろう。ここだと人が来たら迷惑になるし」
光希は日明の手に軽く触れて、「ごめんなさい…」と小さな声で謝った。
泣き出しそうな光希の表情に気がついたが、奥歯を噛み締めていた日明は何も言えなかった。
「えっ、ぼくもいいの。なんか悪いね。二人のお邪魔だったんじゃないかな」
からかうような口調の心司が不快で睨みつけたものの、素知らぬ顔で目を逸らされた。
光希の部屋は入ってすぐが広めのキッチンスペースで、居室はキッチンの奥にあった。部屋には最低限の家具が置かれているだけのさみしい印象の部屋。
女性らしい華やかさを感じるものは、ダッシュボードに置かれたラムネの瓶に活けられたマリーゴールドくらいなもの。
「なんだお前、えらく殺風景な部屋に住んでるな」
心司は他意のない様子で言って、ひとつだけあったクッションに迷いなく座った。
「あんまり物を置いてもしょうがないし。あっ、すいません、日明さんはベッドに座ってください。いまお茶淹れますんで」
「いえ、おれもお茶淹れるの手伝います…」
心司と二人で部屋にいたら何をしてしまうのか自分でもわからなくて、日明は光希の隣に並んだ。
それを察してくれたのか、光希は何も言わずにこくりとうなずいた。
手伝うとは言ったものの勝手を知らない台所でできることはほとんどなくて、日明は手持ち無沙汰にキッチンを見回した。
「あっ…」
キッチンラックにいくつもの小瓶が並び、中には乾燥させたハーブが入っているのを見つけて声が出た。その隣には大学ノートとペンが置いてある。
「これってハーブティーですか?」
「あっ、見つかっちゃいました」
はにかんだように笑い、光希は手書きのラベルの貼ってある小瓶をキッチンの作業台に並べた。ラベンダー、ローズマリー、カモミール、レモングラス、ハイビスカス。
並んだハーブを見ているだけで尖っていた心がゆっくりと丸くなっていく。
「まだまだ勉強中なんですけど、いつかランプでもハーブティーを出せたらいいなあって思って」
「それは素敵だと思います。パフェ目当てでコーヒーが苦手だっていうお客さんもご来店になるようになってきましたから」
ランプではコーヒー以外の飲み物になると、クリームソーダやレモンスカッシュといったジュースの類になってしまう。だからもう少しパフェに合う飲み物が欲しいなという話が出ていた。
「まだまだとてもお客さんに出せるような代物ではないですけど、ぜひ味見して意見をもらえたらって思ったんです」
「あっ、そうだったんですね」
光希に他意はなく、本当にお茶を飲んでほしいだけだったらしい。早とちりした自分がとたんに恥ずかしくなってきた。
「どうしたんですか、日明さん。顔を赤くして」
「なっ、なんでもないです。光希さんの淹れるハーブティー、楽しみです」
「そんな風に言われたら緊張しちゃいますよ」
言いつつヤカンを火にかけて茶器の準備をする光希の手際はなめらかで、見ているだけで何度もこなしてきた動作なのだとわかった。
「もしもランプで出すようになったら光希ブレンドって名前ですかね。もしくは光希スペシャル」
「やめてください、恥ずかしい」
「人のパフェは呼んでるじゃないですか、アキラパフェって」
「それはもう定着しているからいいんです。諦めてください」
「ええー、光希さんだけなんかズルいなあ」
「麻希さあ」
尖った声が差し込まれ、小さく笑っていた二人の顔が硬くなった。
気がつくと心司が亡霊のように二人の後ろに立っていた。
「おばさんから聞いたけど、どうして光希なんて名前に変えたの?」
心司は本当に心当たりがないという顔をしている。
「麻希の方が呼びやすいし、お父さんとお母さんが付けてくれた名前だろ」
「お兄ちゃん、それは、ひかりちゃんのことを、忘れないようにするために…」
うなだれる光希に、心司は納得がいかないように首をかしげている。
「ふーん、そんなことでもしないと忘れちゃうような間柄だったっけ、君たちって」
淡々とした声に空気がぴしりと凍りつく。
日明の脳裏には、あの日の心司の顔が浮かんでいた。満足そうに顔を歪ませて笑っていた、あの顔。深く、頬にくっきりと刻まれたたえくぼを思い出し、抑えようのない衝動が胸を貫いた。
「もうさあ、そんな昔のことなんか忘れようよ。だってそんなことをしたところで、死んだ人間が喜んだり戻ってきたりするわけでもないんだからさあ」
絶句する光希の隣で、日明は深く息を吐いた。
十二年の年月が流れた。
干支がひと回りして、生まれた子が小学校を卒業するくらいの、長い年月が。
その年月の中で何もかもが変わっていった。
だけど目の前にいるこの男はなんにも変わっていない。
罪悪感を抱いたり、悔い改めたり、反省したりなんて、毛先ほどもしていない。
それが痛いくらいによくわかり、自分の中で渦を巻く憎悪が、あの日から少しも弱まっていないことを思い知った。
日明の目に水切りかごに入った包丁が手招きするかのように映り込む。
吸い寄せられるように鈍い光を放つ刃を握りしめ、呆然と目を見開く心司に向かって振り上げた。




