2026年 晩夏 1
駅前にあるチェーンのカフェは、平日の昼間とあってサラリーマンや主婦らしきグループがポツポツと席を埋めていた。夏休みとあって若者の姿もちらほら見られる。
気だるげな雰囲気の漂うカフェの隅に置かれたテーブル席で、日明と光希は向き合っていた。
どちらも暗い顔をして、それぞれの前に置かれたアイスコーヒーのグラスはすっかり汗をかいている。
日明はグラスに浮いた結露を指でなぞり、光希は膝の上で固く手を握ってうつむき、重苦しい沈黙が雨雲のように二人の間に漂っている。
あれから一週間後の月曜日。あの日は雨が降り出してすぐに悠一が迎えに来たので、光希に聞きたいことは山ほどもあったのに聞けずじまいになっていた。
人前でできるような話ではなくて、わだかまりを抱えたまま時間だけが過ぎていた。
その間、二人は発覚した事実から目を背け、努めていつものように仕事をしていた。いや、いつものようにこなそうとして、余計にギクシャクとしていた。
悠一はそんな二人を見て「三角関係ってやつかな」と妙な勘違いをしていたが、あえてそのままにしていた。
まさか光希の正体を知ったからと言って態度を変えるようなことはあるまいが、わざわざ話して変に気を揉ませることもないと、日明が判断したのだった。
味も香りもよくわからないコーヒーをひと口飲んでグラスを置くと、光希が口を開いた。
「あの、聞いてもいいですか…?」
「ええ、どうぞ…」
小さな声で礼を言い、光希がコーヒーで口を湿らせる。
あんなに小さくて、心司の後をついて回っていた麻希が、ブラックのコーヒーを飲めるようになっているのが不思議な感じがした。
ひかりはたぶん、彼女と同じ歳になってもブラックコーヒーは飲めなかっただろうな。甘いものが大好きで、ピーマンが大の苦手だったし。でもパフェなら喜んで食べてくれたかもしれない。パフェ、ひかりに作ってやりたかったな。桃が大好きだったし、きっと喜んでくれたはずだ。
些細な空想が胸を貫く刃になる。
もうここにいることが叶わない人が、もしもここにいたらと空想することは、たぶん何よりもやわらかに胸を締めつける。
「日明さんはあの後からこれまで、どうしてきたんですか。おじさんは、どうされているんですか」
光希から目を逸らし、日明は重い口を開いた。
思い出すだけで胸が塞がるような日々を、できるだけ単調な言葉にまとめた。
「事件後、父は心を壊して入院しました。今も入院しています。もうあの人に、妄想と現実の区別がつくことはないのかもしれません。父は母と妹がいた時を生き続けています」
「そんな…」
うめくような声を上げて光希が胸を押さえる。
「おれは叔父の、悠一さんに引き取られて養子になって、名字もそのときに乃木から雨宮に変えました。そのままの名前だと、どうしても事件のことがついて回るので…」
「そう、だったんですね…日明さんは被害者なのに…」
眉をひそめる光希に、日明は力ない笑みを浮かべた。
「変ないちゃもんを付けてくる人はいるんです。どうして妹を守れなかった、妹についていてやるべきじゃなかったのか、見殺しにした、被害者ぶるな、って…」
顔と名前が出ることはなかったものの、日明は『悲劇の子』として週刊誌やワイドショーで取り沙汰されていた。母親の死から間を置かずに妹まで失った男の子として、世間の同情を集めるような異名を与えられていた。
そのせいで叔父の家に日明が住まうようになると、取材や妙な輩がひっきりなしに訪れたので名字を変えて家を引っ越すことになってしまった。
悠一は『転勤が早まったと思えばいいさ』と笑っていたが、日明は今でもそれを負い目に感じている。
「そんな、ひどい…」
「だけど光希さんの方も大変だったんじゃないですか?だって心司は…」
「『悪魔の子』、ですね…」
日明の『悲劇の子』と対をなすものとして心司に付けられた異名、『悪魔の子』。
「それは仕方がないことだと思います。だって兄は、『悪魔の子』としか言いようのないことをしましたから…」
激しい夕立の中で光希は見ていた。
魔の交差点を前にして、心司はひかりの手からミミ子を奪い取った。そして車から見えにくいように低い軌道で道路に放り投げた。鳴り響く雷のせいで落ち着きをなくしていたひかりは大切な母の形見を脇目も振らずに追いかけて、トラックに撥ねられた。
心司はトラックに撥ねられるひかりを見ながら手を叩いて笑っていた。まるでボウリングでストライクが出たかのように、心底から楽しげに。それは光希が初めて見た、感情の起伏の乏しい兄が哄笑する姿だった。
警察の取り調べに対して心司は『そうなると予測して投げました。ぼくはひかりちゃんが死ねばいいなと思ってミミ子を、彼女が大切にしていたうさぎのぬいぐるみを、道路に投げました。結果は大成功でした』と語ったという。
未成年なので顔や名前は隠されていたが、そんなものはネットにすぐに広まる。本名、顔写真、住所、家族構成、家族の名前、親の職場、妹の通っている学校。
加害者家族の全てが、正義を掲げる悪意の元に晒された。
「あの、おじさんとおばさんはどうしていらっしゃるんですか…?」
光希は雷で打たれたかのようにビクリと震えて、顔をうつむけた。
「二人とも、亡くなりました…」
「っ……」
絶句する日明の前で、光希の細い肩が震える。
「自宅で首を吊って…私はたまたまロープが切れて、助かってしまったんです…」
「なんてことだ…」
「私もそのときに死んでいればよかったんです…そうすれば、ひかりちゃんに会えて、謝れたのに…」
「そんなわけない!」
日明の喚くような声が響いて、店内がしんと静まった。
「なに、痴話げんか?」
「よそでやってほしいよね」
「ほんと迷惑」
二人して周囲に頭を下げて、光希が小さな声で言う。
「そうですよね、ごめんなさい。私が死んだところで、ひかりちゃんに会えるわけがないですよね…」
「違います。そうじゃなくて、向井さんが生きていてくれてよかったって、思ったんです」
「えっ…」
キョトンとした顔をする光希は麻希と呼ばれていたころに戻ったかのようにあどけなく、日明もあのころみたいに思ったことを素直に口に出せた。
「おれはひかりがいたことを、一人でも多くの人に覚えていてほしいんです。辛く悲しい記憶かもしれないけど、それでも、向井さんが生きてひかりのことを覚えてくれていれば、ひかりのたましいは救われるような気がするんです」
「たましい…」
光希はほうけたようにつぶやき、目を伏せた。
「向井さんのその光希って名前はたぶん、ひかりから取ってくれたんですよね」
「はい…ひかりちゃんのことを忘れないようにって思って…。あっ、もちろん嫌なら改名します!」
「変える必要はないです。ひかりもきっと、喜んでいると思いますから。麻希ちゃんがひかりのこと覚えててくれた、って」
やわらかな声で言われて、光希の両目が滲んで涙がぽたぽたと落ちた。
日明の目にも涙が滲み、優しい気持ちが溢れてきた。ひかりのことを忘れず、こんなにも思ってくれている人がいたことが嬉しくて。
二人の間に言葉にできないものが通い合っている気がして、それがとても心地良かった。
ひかりの思い出話に花を咲かせているうちに日が落ちてしまったので、日明は光希を家まで送ることにした。
「近くなんで大丈夫ですよ」
「いやでも、いちおうってことで」
「もう、心配性なんですから。でもありがとうございます」
蒸し暑い夏の夜の空気はどこか甘く、空には丸い月が輝いている。
二人の間に言葉はなく、だけどそれが気詰まりではなかった。それぞれが過ぎ去った時に思いを馳せて、それがどこかで繋がっているような感覚があった。
あっという間に二階建てのアパートまでたどり着き、それを残念に思っていると光希が声をかけてきた。
「あの、よかったら上がっていきませんか」
思わぬ提案に心臓がドクンと跳ね上がる。
「お茶淹れるんで、よかったら飲んでください」
ティーシャツの裾を掴んで言われて、日明は急に喉が乾くのを感じた。アイスコーヒーをおかわりしたというのに、今夜はやけに暑くてひどく喉が渇く。
「それじゃあ、お言葉に甘えて…」
「もう、なんですかその言い方」
クスクス笑う光希の後に続いて階段を上った。階段を上るごとに心拍数が高まるのを感じる。
落ち着け、これはそういうのじゃない。妹の友だちにそんなことを思うものじゃない。
そう言い聞かせるものの意識するとますます落ち着かない気持ちになり、日明は今から帰れないかと本気で言い訳を探し始めた。
そんなことを考えていたから階段を上りきった光希の足が止まっていたことに気がつかず、その背中にぶつかってしまった。
「あっ、ごめんなさい。大丈夫です…か…」
光希の隣に並び、同じものを見た日明の口からひゅっと息が漏れた。
蛍光灯の明かりを受ける滑らかな白い肌。長く伸びた前髪の間から見える切れ長の無機質な目。神経質そうに高く尖った鼻。口数の少なさを現すような小さな唇。その反対にやけに大振りな耳。ひょろりとした体躯。
記憶の中にある彼が成長したら、こんな姿になるのではないかという想像と合致するその姿。
「おにい…ちゃん…?」
光希の唇からかすれた声が漏れた。




