2014年 晩夏 3
荷物を届けに病室に入ると、ベッドに横たわっていた父は思っていたよりも元気そうだった。足を覆うギプスを楽しそうな様子でペシペシと叩いている。
「いや、新人みたいなミスをしてしまったよ。まったく、恥ずかしい」
大怪我をしたというのにその顔はなぜか憑き物が落ちたかのように晴れやかで、日明は拍子抜けした。
心司の母親は親子だけで話したいこともあるだろうからと気を遣ってくれて面会室で待っている。
「元気そうでよかったけど、痛くないの?」
「今は痛み止めが効いているからほとんど痛みはない。でも切れたらむちゃくちゃ痛いだろうな。折れたときにはこの世の終わりみたいな声が出たし」
「そう…」
あっけらかんと言うのに呆れてため息をついたものの、昔の、母が生きていたころの父みたいにひょうひょうとした物言いに日明は嬉しくなっていた。
だけどこれは一時的なものでどうせまたすぐに元に戻るのだろうと、予防線を張っておくのを忘れなかった。怪我をして気分がハイになっているだけだ。
気落ちした日がほとんどの父にも、波のように元に戻る日はある。それだけのことだ。
「日明」
久しぶりに面と向かって名前を呼ばれて、日明は顔を上げた。
「すまなかったな」
たったの一言に心を激しく揺さぶられ、これまでこらえてきたものが溢れそうになった。
母の死からずっと抱えてきた責任と重圧。やり場のない悲しみと怒り。封じてきたグチや泣き言。
そのすべてが混じり合い、山程あったはずの言いたいことは言葉にならず、日明はただ歯を食いしばり、両手を強く握り締めた。
強く握り締めた手を包み込むように、ゴツゴツとたくましく、大きくて温かい父の手が握った。
「おまえには本来なら俺が背負うべきものを散々背負わせてきてしまった。家のこと、ひかりのこと。今さら謝っても遅いと思うが、本当にすまなかった。よくがんばってくれたな、日明」
ベッドの脇に棒立ちになり、うつむいた頬を涙が流れ落ちて止まらない。鼻先が熱くなり、言えなかったことがすべて涙になったかのようにこぼれ落ちる。
ちいさな子どもじゃあるまいしと思うのに、止められない。
「日明、お前に背負わせてしまっていた荷物、今日から俺が背負うよ。だからお前は安心して、自分のしたいことを楽しんでくれ」
手で涙を乱暴に拭いながら、日明は濡れて震えた声を出した。
「ほんとうになんだよ、今さら…。そんな足して何を背負うって言うんだよ、バカ…」
「ははっ、それもそうだな」
カラカラと笑う父に、ぎゅっと胸が詰まる。仕事のせいで負った傷。それは日明とひかりのために負った傷でもあるのだと気がついて。
「それならお言葉に甘えて、背負うのは足が治ってからにしておくか」
「バカ、ひとりで全部背負わなくていいんだよ。そういうのはひかりも入れて、三人で分ければいいだろ。だって、家族なんだから…」
おどけたような父の顔が歪み、日明と同じようにうつむいて肩を震わせた。
二人のその顔はとてもよく似ていた。
◇
病室に入ってきた心司の母は、二人の顔に涙の跡が残っているのには触れないでくれた。大人どうしの会話を聞き流しつつ、日明は今にも降り出しそうな空が気になって仕方がなかった。
心司の母に丁寧に礼を言って見送り、日明は急ぎ足で病院を後にした。
花火大会の会場である海岸まで急いで向かわねばと思って歩き出すと、パッとフラッシュを焚いたかのように周囲が明るくなり、一瞬の静寂の後に腹を揺さぶるほどの轟音が鳴り響いた。それと同時に空からは大粒の雨が降り注ぎ、すぐにアスファルトを叩きつけるほどの激しい勢いになった。
「ひかり…」
ひかりは雷が苦手で、遠くで鳴っただけでもひどく怯えてパニックになってしまう。心司と麻希がそばにいるから大丈夫だとは思うものの、早く合流してやらないと心配だ。
心司の母から念のためにと渡されたビニール傘を広げて、日明は足早に歩道を進んだ。
防水仕様でないスニーカーにはあっという間に雨水が染み込み、靴下が濡れてぐちょぐちょと不快な感覚がする。浴衣だからおしゃれをしたいというひかりに負けず、無理やりにでも長靴を履かせてくるべきだったと後悔した。
麻希とおそろいの、買ったばかりの草履を嬉しそうに履いたひかりの顔が目に浮かび、稲光にかき消された。雨はさらに強く激しくなり、数メートル先すら白くかすんで見える。
ほとんど意味をなさなくなったビニール傘を閉じて、日明は雨の中を駆け出した。
雨降りであっても空気は生暖かくまとわりついてくるようで、濡れた髪やティーシャツが鬱陶しい。
走って五分ほどで息が乱れて早足くらいのペースに落ちてしまう。急いでひかりと合流したいのに、運動不足のふくらはぎが痛くてたまらない。夏休みになったら早朝のジョギングをしようと思っていたのに、三日坊主で終わっていたのが悔やまれた。
早歩きで大通りから少し狭い路地に入り、魔の交差点と呼ばれている十字路にたどり着いた。側にある信号についているボタンを押して、青から赤に切り替わるのを待つだけでも気が急いてしょうがない。息はもうすっかり切れて、額から滲み出る汗と雨が混じり合って頬を伝っている。
信号待ちをする日明の目に、通りの向こうから何かが飛んでくるのが見えた。柔らかな色をした、猫くらいの大きさのものが、低い軌道を描いて濡れた車道に飛んでくる。日明はそれに見覚えがあるような気がした。
あれは、ひかりが大事にしてるミミ子じゃないか。どうしてこんなところに。
間髪入れずにミミ子を追うようにして、雨に滲む景色の向こうから車道に飛び出してくる小さな人影。さんざん見せびらかされた、緑と黄色の浴衣。
「ひかりっ…!?」
息を呑んで手を伸ばす日明の目の先で、小さな体をトラックが跳ね飛ばした。
悲鳴のように響く急ブレーキの音を耳に、日明はビニール傘を投げ出した。縁石を飛び越え、濡れた路面にぐったりと横たわるひかりに、永遠のように思える時間をかけて駆け寄る。
どうしてひかりがこんなところに。いや人違いだ。そうに違いない。だってひかりなら、心司と麻希ちゃんがついてくれているはずだし。だいたい海岸の方に向かってるのに、こんなところにいるはずがない。頼むから、別人であってくれ。
しかし日明の祈りは天に届かなかった。間近でその姿を見間違えるはずがなかった。
「ああっ…!ああっ…!」
買ったばかりの浴衣はアスファルトを転がったせいでボロボロに擦り切れて、生地には鮮やかな真紅が滲み、黄色かったひまわりを無惨に染め上げている。
浴衣を買いに行ったときのひかりの嬉しそうな顔が目に浮かび、ぱしゃんと弾け飛んで血に染まった。
「ひかりっ…!ひかりっ…!」
流れ出た血が広がるアスファルトに膝をつき、ひかりの肩を掴んで悲痛な声で呼びかけた。
後頭部からはおびただしい量の血がドクドクと流れ続けて止まらず、日明がどれだけ呼びかけてもひかりの目は開かない。
くっつかれるたびに暑くてうんざりしていた体温が、腕の中で失われていく。失われた血の分だけ体がぐったりと重たくなり、人形のように冷えて固まっていく。出血を止めようと後頭部に手を当てるも、手の隙間から滴り落ちていく生あたたかい液体を止められない。
青白いその顔に母の死に顔が重なり、胸が潰れるほどの絶望が広がる。
「頼む、目を開けてくれ!ひかりっ…!ひかりっ…!」
哀切の声は届かず、瞼は貝のようにぴたりと閉じて動かない。
日明の脳裏にひかりが生まれてから、いっしょに過ごしてきた日々の記憶が次々と浮かび上がり、降りしきる雨に洗い流されていく。
思い出の全てが、目の前に広がる悪夢のような光景に塗りつぶされていく。
日明の腕の中でゆっくりと、だけど確実に、ひかりの熱が、命が、失われていく。
「ああああぁぁぁぁ…!うああああぁぁぁ…!」
獣のように慟哭する日明の顔を夕立が殴りつけ、鼓膜を轟雷が揺さぶった。このまま世界が水の底に沈んでしまえばいいのにと、全てを呪うような思いが湧き上がってくる。
雨と涙にけぶる視界の向こうに、見覚えのあるチノパンが映り込んだ。
すがるような思いで顔を上げると、水の中に沈んだかのように滲んだ景色の中で、親友が口元を歪めているのが見えた。その頬に深く、くっきりと刻まれたえくぼに、吸い込まれるような目眩を覚えた。




