2026年 夏 6
「ほんとに良かったですね、日明さん。酷い火傷じゃなくって」
ほっと息をつく光希に日明が小さくうなずいた。
長い待ち時間の末に診察を終えて、二人は車で迎えに来てくれるという悠一をロータリーのベンチで待っているところだった。病院に入る前に見えていた夕陽はすっかり広がった分厚い雲に隠れてしまって見えない。カナカナゼミの声が遠くから聞こえてくる、どこかさみしげな病院前。
すぐに冷やしたのと即席の氷嚢のおかげで、日明の火傷は腕に数カ所の小さな水ぶくれができただけで済んだ。診察した医師の見立てでは一二週間もすれば治るらしい。
「すぐに冷やしたのがよかったみたいで、手や指に水ぶくれはできませんでした。向井さんのおかげです。ありがとうございました」
腕に貼られたガーゼを見ながら日明が言う。腕なら調理に支障を来して迷惑をかけることはないからと、安心した様子だ。
「それはよかったです。でもちゃんと清潔にして、貰った軟膏塗ってガーゼ貼らなきゃダメですよ。水ぶくれはくれぐれも潰さないように」
「わかってます」
医師が言っていたことを繰り返す光希に憮然とした顔が返ってくる。ほんとにわかっているのだろうか、この人は。
「この際だから聞いちゃいますけど、日明さん何かあったんですか。ここのところミスや怪我が多くて、仕事に身が入っていないですよね」
「いや、そんなことは…」
「あります。悠一さんも何かあったんじゃないかって心配してるんですよ」
うめくような声を出して日明は顔を伏せた。
「日明さん、さっき悠一さんも言っていましたけど、何かあったら私たちのことを頼ってください」
小さく顔を上げた日明の目を見て光希は言い募る。
「私なんかもう、仕事だけじゃなくてプライベートなことでも迷惑かけてしまったので、日明さんに貸ししかないんです。だからその貸しを、すこしでも返させてください。日明さんの抱えているものをすこしでもいいから、私にもわけてください」
ロータリーに入ってきたバスのライトが光希の顔を照らし、見つめていた日明の顔が奇妙に歪んだ。
懐かしむような、泣きそうなような、怒っているような、見たこともない感情が溢れて揺れ動いている。
バスのテールランプが二人を赤く照らし、遠ざかって影が落ちる。
「…………らないんだな…」
顔を背けてつぶやく日明の声がよく聞き取れない。
「えっ?日明さん、今なんて」
聞き返すと、怒気をはらんだ声が耳を打った。
「変わらないんだな、君は」
「変わらないって、どういう…」
「君は、神谷麻希、なんだろう」
心が引き裂かれるくらい悲しく、どんなに懺悔しても赦されない過去とともに置いてきた名前で呼ばれて、光希は息を呑んだ。
すべての音が遠ざかり、耳鳴りとともに頭痛が襲ってくる。
そして脳裏を駆け巡る、あの日の記憶。
どれだけ月日が経っても、どれだけ祈りを捧げても、追いかけてきて光希を絡め取る過去の鎖。消えない罪過の記憶。
日明が呼んだその名前は、光希をたやすく奈落の底へと突き落とした。
「どうして、その名前を…」
「この前の休みに、越田さんと外で会った。そのときに見せられた掲示板に、君の過去が載っていた…」
「そんな、麻美ちゃん…」
いつかは誰かに知られてしまうのではと、影法師のように不安がつきまとっていた。だけどまさか、久しぶりにできた心を許せる友人に、それを広められようとは思っていなかった。
そしてこんなときなのに、心の中の冷静な部分が思った。現実逃避をするかのように。
新垣さんが見たという日明のデート相手は、麻美ちゃんだったのでは。メガネを外し、おしゃれをした麻美ちゃんはぜんぜん印象が違ってお嬢様みたいに見えるし。
「なあ、教えてくれないか」
低く重く、殴りつけるような声が光希を引き戻す。
「君はどういうつもりで、ランプで働いていた。バカにして笑っていたのか、おれたちのことを」
「そんな。そんなつもりはありません。前に話した通り、本当に素敵なお店だなって、思ってて…。日明さんも悠一さんも、常連さんたちもやさしくて、ずっとここで働けたら、しあわせだろうなって、思っていました…」
膝の上でぎゅっと手を握りしめ、こぼれそうになる涙をこらえた。鼻の奥が熱を持ち、頭の奥が痛い。
こうしてまたひとつ、消せない過去のせいで居場所を失うのだなと思うとやるせない思いがした。
何度繰り返してきても決して慣れることのない、生きることそのものが虚しくなる感覚。
「ちょっと待って、まさかおれのこと、わかってないの…?」
「えっ…?」
「いや、そうか。名字も変わってるし。でもそんな偶然…」
ぶつぶつとつぶやく日明の顔が、光希の過去にある顔と重なった。
「まさか、あきらおにいちゃん…?」
乃木日明。実の兄の親友で、光希にとってもうひとりの兄のように慕っていたひと。今ではもう、どちらもだったと過去形になる。
もう自分に、このひとをお兄ちゃんと呼ぶ資格なんて、あるはずがない。
日明はかつての面影を失った暗い顔でうなずいた。
「うそ…」
もしかしてと思ったことはあったが、信じられなかった。それほどまでに日明は様変わりしていた。
「まさか、気がついていなかったなんて…」
「ご、ごめんなさい。あまりにも印象が変わってるし、名字だって違ってたから、別人だろうって…」
「そう、か…そうだよな。おれだって、君が麻希ちゃんだってまったく気がつかなかった…。もう十二年も、経ったんだもんな…」
遠い目をして空を見上げる日明の横顔に過ぎ去った年月以上の重みを感じて、光希の胸が締めつけられた。
この人もきっと私と同じ、いや、私以上の地獄を歩んできたんだ。
いや、だめだ。大切な存在を失ったのは日明の方なのだから、比べることなんて許されない。奪われた側の日明と、奪った側の自分を並べて比べることなんて、許されるわけがない。
「名前、変えたんですね…」
「はい…」
敬語に戻る日明にこれまで以上の距離を感じながら声を絞り出した。
やっと縮まってきたと思っていた距離が、抗いようのない過去の隔たりで閉ざされる硬質な音が聞こえた気がした。
「その、どうしても前の名前だと、アレなんで…」
どう言い繕っても自己保身のためにそうしたと思われてしまいそうで、適切な言葉が出てこずに歯噛みした。
だけど何も言わないのも不誠実な気がして、言葉を紡いだ。
「加害者の家族の情報ってすぐに広まって、そのままの名前だと何もできなくなってしまうんです。名前を変えたからってひかりちゃんのことを忘れたわけじゃありません。ずっとずっと、どうすれば償えるのか考え続けて、苦しくて…。いえ、苦しいなんて言っちゃ駄目ですよね。私にそんなことを言う資格なんて、あるわけがないのに…私のせいで、ひかりちゃんは…」
ヒッヒッと同情を誘うような嗚咽が喉から漏れ出す。
目の前の景色が滲んでよく見えない。
手に落ちる雫が鬱陶しく喉の奥が熱い。
ああ、ダメだ。私に泣く資格なんてないのに。日明さんに告白しなくちゃいけないのに。
私の罪を。
それなのに言葉ではなくて、嗚咽ばかりが喉から絞り出されてくる。どうしようもない悲しみと後悔が、止まない雨のように心を埋め尽くしてしまう。
「向井さん」
おずおずと伸ばされた手が肩に触れて、ぽんぽんとやさしくたたいた。
その手があのころと変わらないぬくもりで、涙はますます止まらなくなった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
言うべきことは赦しを乞う自分のための言葉ではないのに、それしか出てこない。
「向井さんが謝ることは、何もないです。あいつが、心司が、やったことなんだから…」
身を切るような声で日明が言うと雷鳴が轟いて二人を照らし、あの日のように空が泣き出した。
大粒の雨が昼間の熱気をはらんだアスファルトを打ち付け、どこか甘いにおいが立ち上ってくる。
二人の脳裏には、ひかりがいた最後の夏の景色が蘇っていた。




