2026年 夏 3
届いたパフェをシェアして食べ終え、爽やかな香りのするアイスコーヒーを味わうと、日明はようやく今日ここに来た理由を思い出した。
「はい、あーん」と越田さんがふざけてやってきたりするものだから、すっかり気が動転して忘れていた。
「それにしてもパフェ美味しかったね。チョコバナナは甘すぎず意外とビターな大人味だったし、レモンは甘酸っぱくてピリリと生姜が効いてるのがクセになるし、あたしどっちも好きだなあ」
「あっ、はい。どちらもすごく美味しくて個性的で勉強になりました」
思い出したものの、越田さんが話し始めたので日明はとりあえず話を合わせた。
パフェはどちらも絶品で、自分なんてまだまだ修行不足だと思い知らされた。ここのパフェと比べると、自分の作るパフェにはいまひとつ何かが足りていない。
「でもあたし、日明くんのパフェが一番好きだよ」
越田さんから意味ありげな眼差しを向けられたものの、日明は単純にお世辞として受け取った。
「お気遣いありがとうございます。おれのパフェなんてまだまだです」
「もう、マジメなんだから」
ふくれっ面になったのにどこか楽しげな越田さんがアイスコーヒーを飲んだところで、日明はようやく話を切り出せた。
「それで、越田さんの相談ってなんですか?」
「ああ、うん…」
グラスを置いた顔が固くなり、指が迷うように器に浮いた水滴をなぞった。
「えっと、それなんだけどね、光希ちゃんのことなの」
「向井さんの?」
意外なところに話が飛んで首をかしげる。二人はあっという間に意気投合して姉妹のように仲良く見えるのに、いったいなんだろう。
「うん。日明くん、これ読んでみてくれる」
真顔になった越田さんから受け取ったスマホを一瞥して、日明は眉をひそめた。
表示されていたのは黒を基調とした禍々しいデザインの掲示板で、そのタイトルが。
「少年犯罪の身内を追うスレ…」
どうして越田さんはこんなものを見せるのか、理解できないまま流し読みしていると見覚えのある名前が出てきて指が止まった。
向井光希。
震える指でスマホを操作し、全てを読み終えた日明は頭痛と耳鳴りに襲われた。忘れられない過去が呼び覚まされて、胸の奥がぐちゃぐちゃにシェイクされたように気持ち悪い。
耳鳴りが遠ざかり、こだまするのは最後に聞いた声。
『おにいちゃん、やくそくだからね。いっしょに花火見にいくんだからね』
あの日からずっと鼓膜に焼きついて、消えることのない声。
「たぶん例のホスト崩れがイタズラで書き込んだやつだと思うんだけどさ。でも実際にあった事件や卒アルの写真とかも載ってて、ほんとなのかなって思っちゃって…」
スマホを受け取った越田さんは、不安げな眼差しで日明を見やる。けれど日明にそんな越田さんを気遣う余裕なんてなかった。
「越田さん…」
日明は額を手で押さえ、今にもせり上がってきそうなパフェを喉の奥に必死に押しやりながら声を振り絞った。
「このことは、誰かに話しましたか?」
「ううん、誰にも。まず日明くんに相談したほうがいいかなって思って…」
「よかった。ならこのことは、誰にも言わないでください。店長には、特に…」
「う、うん、約束するよ。それより日明くん、だいじょぶ?すっごく顔色悪いよ」
「大丈夫です。すいません、お手洗いに行ってきます」
「ちょっと、ぜんぜんだいじょぶじゃないじゃん。付き添おうか?」
青ざめた顔で立ち上がった日明は手で越田さんを制し、一人でトイレに向かった。今はとにかく、一人になりたかった。
階段の一歩一歩に胃腸が揺さぶられ、慌てて口を手で押さえた。手すりにすがってようやく一段を下りられる有様。なんてことのない階段が延々と続く責め苦のように思えてくる。
嫌な汗を滲ませながらやっとのことでトイレに入り、鍵をかけて大きく息をついた。
安堵した瞬間、喉の奥から猛烈に込み上げてくるものがあり便座に手をついて吐き出した。
どんなに華やかで可愛らしいパフェも、口から吐き出されてしまえば饐えた臭いを放つ汚物になり果て、口の中にはただただ不愉快で酸っぱくて腥い味が広がるのが皮肉に思えた。
もう吐き出すものがなくなったと思っても、喉の奥からどろっとして酸っぱいものが込み上げてくる。
喉がヒリヒリと痛み、涙目になりながらようやく全てを出し尽くして水で流した。水で流しても饐えた臭いは狭い個室に残り、お店の人に悪いことをしたなと胸が痛む。
手の甲で口の周りを拭うと、鏡に死人のような顔をした男が映った。
死人のように青ざめた顔に落ち窪んだ目。頬はやつれて生気がない。
大切なものを失い、全てがどうでもよくなって、死ぬことだけを考えていたあの日々と同じ顔。
何をしても、誰といても、いつまで経っても、けっきょくこの顔に戻ってしまう。すごろくがふりだしに戻るかのように、いとも容易く。奴隷を縛る鎖みたいに過去が絡みついてきて、引き戻される。
水盤に張り付くようにして口をゆすいで顔を洗い、ポタポタと水を垂らしながら縁に両手を突いてうめく。
「くそっ、なんで…なんで今なんだ……」
ランプが軌道に乗ってきて、人知れず悩みを抱えて、それだけに集中したいのに、忘れさせまいとするかのように過去が蘇ってきた。
忘れられるわけがないのに、忘れた日なんて一度もないのに。
だけど最近は確かに、いまやるべきことのために身体を動かして疲れ果て、頭の片隅に追いやることが増えていた。
これはその罰なのだろうか。
気力を振り絞って耐えなければならない今この時に、こんなにも胸をえぐる情報を知ってしまうなんて。
越田さんが恨めしい。
知らないままなら、これまで通り光希と一緒に働けたのに。うまくやっていくことすら、できそうだったのに。
この先の未来に淡い光を放つ希望すら感じていたのに、全てを覆い尽くすほどの暗雲が立ち込めた。
掲示板に書かれていた情報が事実か光希に問い質す勇気は、日明にはない。光希の人となりを知り、一緒に働くうちに情も湧いているから、傷つけるようなことはしたくない。
いや、その考えは思いやりのふりをした逃げだ。本当はただ、怖いだけだ。
光希の正体を明らかにして、これまで築いてきた関係があっけなく壊れてしまうのを、恐れているだけだ。
その恐怖に勝てないから、何も見なかった、知らなかったことにして、胸の内に飲み込む。無理やりにでもこれまで通りを続けていく。
それが日明の下した選択だった。軟弱だとわかっていも、それしか選べなかった。




