2014年 夏 4
ムカデは心司の手のひらから逃げ出さず、ピクピクと震えて真っ白な冷気を最後の息のように放っている。
見たくもないのに視線をムカデから離せない。ムカデは心司の手のひらからちょっとはみ出るくらいの大きさで、太さは親指より一回りくらい大きい。
よく見ると何かが不自然で、その正体に気がついたひかりの背筋がキンと冷えた。
ムカデの特徴である何本もある足が抜け落ちている。ざわざわと揺れる触覚も鋭い牙もない。
心司の足元に広がる新聞紙に落ちたホチキスの針のようなもの。それはムカデの足であり、ひときわ大きく太いものは触覚と牙だった。
ひかりを見つめる心司は困ったような顔をしていた。つまみ食いを見つかってしまったくらいの、些細な表情の変化。
「ひかりちゃん」
呼びかける声のトーンはいつもと同じでやわらかく、それがかえって不気味だった。
心司は落ち着いた様子で手に持ったムカデを新聞紙の上に置いて、ひたひたとひかりに向かって近づいてきた。
逃げなきゃと思うのに恐怖で足が凍りついてしまって動かない。
ひかりの脳裏には、ムカデにそうしていたように目を爛々と輝かせて、自分の手足をポキポキと折る心司の姿が浮かんでいた。
すぐ側まで迫った心司がゆっくりと手を上げる。
ミミ子を固く抱きしめて、固く目をつむるとしいーっと吐息が聞こえてきた。
震えながらうっすら目を開けると、困ったような顔をした心司が口の前に人差し指を立てていた。
「驚かせてごめんね。これ、夏休みの自由研究でさ、日明やみんなには内緒にしてほしいんだ。驚かせたいから」
「自由研究?」
「そう、自由研究」
えくぼを作って笑う顔がいつもの心司で、ひかりはホッと息をはいた。
「しんじおにいちゃん、ムカデの研究なんてしてるの?」
好奇心旺盛なひかりは、怯えながらも心司が持っていたムカデに興味津々になっていた。
「うん。ムカデって熱に弱いみたいで、熱湯にくぐらせて息の根を断つのがいいってネットに書いてあったんだ。ならその逆はどうなんだろう、って思って凍らせてみたんだ」
「凍らせたって、冷凍庫でアイスみたいに?」
「そう、アイスみたいに」
ひかりのたとえがおかしかったのか、心司は小さく笑い気を良くしたようだった。
「見てみる?」
と軽い口調で聞かれて怖いもの見たさでうなずいた。いけないことをしているみたいで、不思議な高揚感が溢れてくる。
ドキドキしながら近寄ってしゃがむと、ムカデは新聞紙の上でゆっくりと身体を左右にくねらせていた。足も牙も触角も失った無惨な身体で、もがき苦しむように。
「うわっ!これ生きて…!」
大きな声を出したひかりの口を心司の手が素早く塞いだ。心司の白い腕がムカデのように思えて気持ち悪くてたまらない。
ミミ子を強く抱きしめて、母に助けてと強く祈った。しかし祈りは届かず、心司の手のひらは獲物を捕らえる牙のようにひかりの口を塞いで離れない。
「ひかりちゃん、静かに。みんなが起きちゃう」
耳元でささやくような声で言われて、ひかりは身を固くした。
「大きな声はだめだよ、いいね」
口を塞いだ手がさっきまでムカデを触っていたものだと思うと早くどけてほしくて、ひかりは涙目になってブンブンとうなずいた。
口が自由になるやいなやひかりは大きく呼吸した。首筋が汗で濡れて心臓が早鐘のように脈打っている。
「見ての通り、ムカデは冷気には強いみたいで冷凍庫に入れたくらいじゃ死なずに復活しちゃうんだ。だから今度は、冷凍庫よりもずっとずっと冷たい冷凍スプレーっていうのがあるみたいだから、それを試してみようと思っているんだ」
淡々と話す心司の目が昆虫の複眼のように無機質に見えて、ひかりは後ずさりしていた。早くこの場から離れたくてたまらない。
だけどどんな行動が心司を刺激してしまうのかわからないから、走って逃げ出すことも怖くてできない。
「そ、そうなんだ。うまくいくといいね」
「うん、ありがとう。ひかりちゃんも見てみる?その実験」
「う、ううん。ひかりにはまだ早いかな」
「そっか」
特に残念がるふうでもなく、淡々と言う心司が再び口を開く前にひかりが言葉を被せた。
「おやすみ、しんじおにいちゃん」
「うん。おやすみ、ひかりちゃん」
逃げるような小走りになったひかりの足音が階段を上っていくのを聞きながら、心司はのたうつムカデをつまみ上げた。
手のひらに乗せて、その背中を小動物でもなでるみたいに指でなぞると、おもむろに両手で持ち、思いっきり左右に引っ張った。
キチキチと異様な音を立ててムカデはもがき、やがて張り詰めた糸がプツンと切れるみたいに節に沿って裂けた。
二つに分かれたムカデは心司の手のひらの上でピクピクと痙攣し、やがてその動きを完全に止めた。
心司は無表情にその最後を見届けると、死骸を新聞紙に丁寧にくるんで燃えるごみに捨てた。体液で汚れた手をハンドソープをつけて洗いつつ、ため息をつく。
ごまかせてはいないだろうな。
脳裏には怯えきったひかりの顔が浮かび、自分の一部が痛いくらいに熱く張っているのを感じた。
何か大きく抗えないものが現れて、自分のこともあのムカデみたいに真っ二つに引き裂いてくれないかと、心司は強く願った。




