2014年 夏 3
母が亡くなってから神谷家との付き合いはより密接になった。
心司の母親は「作りすぎちゃったから」ときんぴらとかひじきの煮物とか漬物とか細々としたおかず、さらにはレトルトのカレーや牛丼とかを「買いすぎちゃったから」と日明たちに頻繁に渡すようになった。
料理も買い出しも行っている日明にはそんなわけないとわかっていた。これは自分たちのために作り、買ってきてくれたものだと。
もらう度に申し訳ない気持ちになったが、それらはとてもありがたかった。なるべく心司の目に触れないところで渡してくれる気遣いが、優しくて痛かった。
お昼や晩ごはんをごちそうになることも増えた。遊びに行くと「ついでに食べていけば」と日明とひかりの分まで作ってくれて、「余ったから」と父の分のおかずも持たせてくれる。
乃木家の食卓の半分は神谷家に助けられていた。
幼いひかりは「おばさんのご飯好きー!」と無邪気に喜びあまり気にしていないようだったが、中学二年生の日明はそれを気にしていた。対等であるはずの心司との間に、与えるものと与えられるものとの間にある格差が生まれているような気がした。
心司は気にした様子もなくこれまでと同じに接してくれているが、腹の底ではどう考えているのかわからない。頻繁にご飯をご馳走になって食べ物を貰っていく自分たちのことを、見下しているんじゃないか。
感情があまり表に出ない心司の胸の内を読み取ることができず、卑屈な思いが日明の腹の底にわだかまっていった。
それでも妹とふたりでいるよりは心司とその妹の麻希と一緒にいるほうが気楽で、足は神谷家に向かってしまう。
ひかりは家にいるとふと母のことを思い出して、ぐずって癇癪を起こすことが頻繁にあった。そうなるとどうなだめすかしても一時間は収まらず、その間日明はひたすらしんぼうを強いられる。だけど神谷家にいればひかりはあまり癇癪を起こさず、ご機嫌な様子で麻希と遊んでくれた。
神谷家の人たちが「ここも自分たちの家だと思ってよ」と言ってくれるのに甘えて利用しているようで、日明の中に日に日に申し訳なさと遠慮が募っていった。
何も返せない自分が、もどかしくてならなかった。
◇
物心付く前から隣の家に住むひかりと麻希は姉妹のように育ち、本人たちはお互いを親戚かなにかだと思っている。就学前は寝るときには必ずどちらかの家に行き、同じベッドでないと眠れなかった。それぞれの家で別々に眠れるようになったのはつい最近のこと。
同い年ではあるものの、ひかりはおっとりして甘えたがりの妹気質が強く、麻希はしっかり者でそんなひかりの姉のように振る舞うことが多かった。
別々に眠ることを提案したのも麻希からだった。
「ひかりちゃん、わたしたちもう小学二年生なんだからべつべつに寝よ」
「ええー、ひかりそんなのやだよ!」
「だめ。いつまでもいっしょに寝てたら大人になれない」
子どもながらに思うところがあったのか、いつもはひかりのわがままに譲ることが多い麻希もそのときは譲らなかった。
だけどときどきさみしくなる夜もあって、週の半分くらいはひかりのわがままを受け入れていた。どちらの家で寝るかは交互にするのがなんとなくの決まりになっていて、その日は神谷家にひかりが泊まる番だった。
ひかりは夜中にふと目を覚ました。
「トイレ…」
隣を見ると麻希は軽くいびきをかいて熟睡している。これが兄だったら叩き起こしているところだったが、同い年の麻希を起こすことはしなかった。
夜中にひとりでトイレに行くのが怖いなんて、まきちゃんに笑われちゃう。
幼いプライドを守るためひかりは胸にウサギのぬいぐるみ、ミミ子を抱きしめて勇気を振り絞り、ひっそりとベッドを抜け出した。
ミミ子はひかりの誕生日に母が贈ったぬいぐるみだった。母の手作りのぬいぐるみ。ひかりにとって一番大切な母の形見。大きさはちゃんとした図鑑くらいでぎゅっと抱きしめるのにちょうどいい。赤いボタンの目がつぶらで、学校以外はどこに行くにも一緒だった。
ミミ子がいれば、母が側にいてくれる気がして安心した。
エアコンの効いていない廊下は夜でもムワッと蒸し暑くて、歩くだけで額がじっとり汗ばんでくる。早く用を足してしまおうと足元の常夜灯を頼りに階段を下りた。
用を足して部屋に戻ろうとすると、暗いリビングからごそごそと物音がした。
怖がりだけど好奇心の強いひかりは気になってそっとリビングを覗いた。
音の発生源はリビングと繋がっているキッチン。冷蔵庫の前に黒の寝間着を着た背中がしゃがみ込み、蒼白な横顔が常夜灯のぼんやりした明かりに照らされている。
しゃがみ込んでいたのは心司だった。あまり感情が表に出ない心司にしては珍しく、興奮したような息遣いで爛々と目を輝かせ、背中を丸めてごそごそとなにかしている。
まさかこんな時間に隠れてアイスでも食べているんじゃ。しんじおにいちゃんズルい。
ひかりはバレないようにひっそりと近づき、後ろから声をかけた。
「しんじおにいちゃん」
振り向いた心司の手にはアイスではなく、赤黒くぬめらかな質感のものが乗っていた。心司の足元には新聞紙が敷いてあり、その上にホチキスの針みたいなものがバラバラと落ちている。
「なあに、それ?」
正体を確かめるために近寄ると、それが何なのかひかりにも理解できてミミ子をギュッと抱きしめて後ずさった。
「ヒッ…!」
驚きのあまり空気が喉に詰まってかすれた口笛のような音を立てた。
心司の手に乗っかていたそれは、体を丸めたムカデだった。




