第62話 あゝ無情
―シャンデリアの眩い光に照らされた黄金の時計。
その秒針が刻む無情なリズムの真横で、ローズは期待と不安の混じった溜息をついていた。
「もう10時半だっていうのに、フレッドったら...」
―ローズは小さく口を噤み、塗りたてのリップの感触を確かめる。
頬を朱に染め、シルクの手袋に包まれた指先を忙しなく動かす姿はまさに恋する乙女そのものだ。
「何をしてるのかしら? まさか、エルフ狩りに遭って...?
いいえ、男のエルフなんて狙う物好きはいないわよね。」
―独り言をこぼしながら、彼女は鏡に映る自分の姿をもう一度確認した。
キュッと絞られたウエストから、花開くように広がるボリュームたっぷりのスカート。
"ニュールック"と呼ばれ、最近流行し始めたこのスタイルは彼女の自信をさらに深めてくれる。
「私の魅力、ちゃんと伝わるかしら?」
そうだわ! 知ってるのよ、フレッド。
貴方、私のストッキングが気になって仕方ないんでしょ?
―彼女の脳裏に、怪しげな指南書"スコバヤシ流ハウツープレイ!"の一節がよぎる。
「男は無理矢理にでもストッキングを破いてみたくなる生き物である...スコバヤシサンの愛したプレイ集にもあったわね。」
そのまま押し倒されて、ベッドの中で、あんなことやこんなことを...ッ!!
あら、やだ鼻血出ちゃった。
って、噂をすれば...
「もぉ、遅かったじゃない!」
―距離を詰め寄るローズだったが、フレッドの口から漏れたのは愛の言葉ではなかった。
「キシメン...ミソカツ...ラムネ...オグラ...」
「フレッド?」
「品目名、ヒツマブシ...摂食可能...」
―その瞳に光はなく、意識はどこか遠い世界を彷徨っている。
「白い...巨大...マネキン...ゴーレム...襲ってくる...」
「ヌヌちゃん人形は真下を通らない人をあの巨体で攻撃するのよ。
よっぽど酷い目に遭ったのね。
大丈夫、私が木になってあげるわ。 ほら、乙女の木よ?」
―ローズは両手を広げ、幽霊のようにふらつくフレッドを受け止めた。
フレッドの腕には力が入っておらず、しがみつくその様子はまるで"リハビリ"のようだ。
「よしよし、良い子ね。」
―意外なほど素直に甘えてくる彼に、ローズの口元が緩む。
その端から涎が垂れたのは、恐らく見間違いだろう。
「フルクハイム駅や西の方は、ちょっと変わった文化が多いから...その毒気に当てられたのね?」
「うん。」
「そう...私名義の別荘が"シラカベ"って場所にあるの。
庭には立派なブナが生えているわ。
街歩きは諦めて、もう向かいましょう?」
「うん、ブナ...欲しい。」
「バス、乗れる?」
「うん。」
「さっきから"うん"しか言ってないじゃない...」
「うん。」
大丈夫かしら?
そうだ!
「今日の私の格好、可愛いと思う?」
「うん。」
「明日、お父様達に挨拶に行く?」
「うん。」
「あなたのご主人様は私よね?」
「うん...ん。」
生意気ね。
でも優しいローズ様は許して、あ・げ・る。
「さぁ、行きましょう。
怖いものは全部、私がやっつけちゃうから!」
「うん。」
「基幹バスの時刻表は...あと、2分しかないじゃない!
急ぐわよ、フレッド!」
―ローズはフレッドを引きずる。
ハイヒールが小刻みにリズムを刻み、トラウザーズが擦れる音が駅に響いた。
間もなくバスは"シラカベ"へと、赤のレーンを疾走したのだった。
「着いたわ! ほら降りて、フレッド! 違うわ、基幹バスは前から降りるのよ!」
―到着したのは、壮麗な邸宅が立ち並ぶ高級住宅街"シラカベ"
バスを降りるや否や、フレッドの野生が呼び覚まされた。
「ブナ...早く、ブナを...!」
「ちょっと待って、そこは他人の家よ! 私の別荘はあっちのタウンハウス!」
―ローズの指先を追うように、フレッドは弾丸のごとく駆け出した。
門番も柵も、彼の眼中にはない。
ただ、浄化の象徴たるブナの木を目指すのみだ。
「何奴だ! 止まれ!」
「あぁぁぁあ!! ブナァァァ!!」
もう、あなたったら...
ガードマンに捕まるエルフなんて聞いたことがないわ。
仕方ないわね...
―警備兵に捕まりかけるエルフなど、前代未聞である。
ローズは優雅に、かつ威圧感を持って割って入った。
「お止めなさい。 その者は私の妹背...少々、木に飢えているだけですわ。」
「 失礼いたしました、お嬢様!」
「分かればよろしい、早く開けなさい。」
「はッ! 了解致しました!」
―鈍い音を立てて開かれる鉄の門。
その先に、月光を浴びてそびえ立つブナの幹があった。
「ブナ...!」
―あまりの愛おしさに、フレッドは言葉を失う。
そして長年焦がれた恋人と再会したかのように、幹へと縋り付いた。
そのまま体を擦り付け、無意識にマーキングをしている。
「あぁ、心安らぐ...」
「今度こそ、落ち着いたかしら?」
「うん。このブナは良い...煤も付いてないし、腐食もない。 最高だ!」
―木に抱きつくその姿は、まるで主人の帰りを待っていた大型犬だ。
「明日は10時から15時まで祝賀会があるの。
私は席を外せないから、どこかで観光でもしててね。
東の方へ行けば、伝統も残っているわよ。」
「へぇ...うん、行ってみるよ。」
―落ち着きを取り戻したフレッドに、ローズは重ねて告げる。
「それじゃあ、私はもう寝るわ。」
「うん、おやすみ。」
「............」
―ローズは立ち止まり、じっと彼を見つめた。
「私はもう、寝るわよ?」
「うん、分かったよ。」
違う、そうじゃないの!
「その...一緒のベッドで一夜を、ね?」
「............」
あれ? 返事がない。
「...逢瀬よ?」
「............」
―完全に無視である。
ローズは頬を膨らませ、木によじ登って彼の顔を覗き込んだ。
重力を無視したような足取りは、流石はローズマリアといったところか。
だが彼の顔を覗き込むと、彼女は穏やかな笑みを浮かべた。
「ふふっ...おやすみなさい、ダーリン!」
―穏やかな寝息を立て始めたフレッドの額に、ローズはそっと唇を落とした。




