第59話 エージェント・アルフレッド
―夜の帳が降り、世界が漆黒の静寂と街灯の淡い光に包まれる刻、アルフレッドはただ無心にジャケットの襟を正していた。
その瞳の奥には、冷徹な計算とそれとは矛盾する熱い決意が同居している。
「"少し考える"と言ったが...」
考えるまでもない。
彼女に出逢った時から、"量子もつれ"のように分かちがたく結ばれていたのだ。
アテナをエリーカに預け、片道切符は既に懐にある。
故に憂いはない!
「まずは教会に長期不在の申し出をしないと...組織人として筋を通すのは当然だ。」
―深夜の教会、警備のガードマンたちに丁重な釈明をしながら、彼は手慣れた動作で白衣を羽織った。
だが、施設の奥で彼を待っていたのは予想外の光景だった。
「シスター...?」
「ブ、ブラザー!? どうしたのですか、こんな時間に!」
―そこにいたのは、いつもの中二病シスターだった。
しかし、今の彼女は設定ではない本物の異常を孕んでいた。
唇の間から覗くのは、異様に発達した犬歯...そしてその口元からは、どろりと赤い液体が滴っている。
「え? いや、ちょっと用事が...って、血まみれじゃないか!」
「い、いいえ! これは...そう、トマト! 聖なる赤き果実を丸かじりしていただけですよ!」
―必死に口を拭う彼女を怪訝な目で見やりながら、彼は本題を切り出す。
「ところで神父様は? しばらくエールを離れるので、挨拶をと思ってね。」
「ふっ、奴ならばこの奥さ...汝の訪問を予見し、深淵の淵で待っているだろう!」
..............
「おぉ、待っていましたよ、兄弟!」
―神父の部屋に入るなり、アルフレッドは単刀直入に切り出そうとしたが、神父の重々しい口調がそれを制した。
「あなたに良いニュースと、悪いニュースがあります。」
「は、はぁ...?」
「まずは良いニュースを...あなたの理論を基にしたドミトリーエフ博士、助手のウラギール博士らの極地での実験が成功しました。 歴史が動きますよ!」
「本当ですか! それで、悪いニュースとは?」
「その情報がラルバフ教に流出しました。 既に諜報部が動いています。」
―アルフレッドの背中に冷たい汗が走る。
「現地から届いた資料を基に、今すぐ論文を書き上げなさい。
学術委員に提出し、概念の先取権を確定させるのです! さあ、このアタッシュケースを!」
―渡されたのは、鈍く光る金属製のアタッシュケース...アルフレッドはそれをひったくるように受け取ると、研究室へと疾走した。
「開かない...!? 何故だ!」
―デスクに置かれたケースは、どんな鍵穴も持たなかった。
焦燥が彼の思考を乱す。
その時、持ち手の部分が不気味な紅い光を放った。
(これは...生体認証か...なるほどな!)
―彼は親指を強く押し付ける。
すると"プシューッ"という減圧音と共に、ケースが独りでに開いた。
『ごきげんよう、エージェント・アルフレッド』
「喋った!?」
―合成音声が静かな部屋に響く。
『持ち手をスライドせよ。 網膜スキャンを開始する。 資料はそれまでその姿を隠し続けるだろう』
(スパイ映画の観すぎじゃないか、神父様も...!)
―指示通りにスライドさせると、青いレーザーが瞳をなぞる。
『幸運を祈る。 なお、このメッセージは5秒後に自動的に消滅する。5、4、3...』
「待て、まだ心の準備が...!」
―カウントダウンの終了と共に、ケースから"パッ"と白い煙が噴き出した。
「ゴホッ、ゲホッ! なんて演出だ! だが、こんなことで僕の演算は止まらない!」
―煙の中で、アルフレッドのペンが踊り始めた。
ローズとの未来と、加えて"利権"のために。
............
「ふぅ....書き終えた。 校閲は...あのシスターに丸投げしよう...」
―彼はふと時計に目を配る。
すると、彼の顔が引き攣った。
「8時54分!? まずい、発車まで時間がない!」
―廊下で鉢合わせたシスターに論文を押し付ける。
「シスター! これの査読を頼む! 終わったら神父様に!」
「えっ? ちょっと、ブラザー!? アルフレッドさーん!」
―背後で叫ぶ彼女を無視し、彼は教会の地下廃棄所へ飛び込んだ。
そこには、埃を被った外燃機関の蒸気バイクが眠っている。
(残り時間は6分。中央駅までは普通に走れば20分。
いや、今の時間帯だと街中じゃ、バイクなんて走らせられないか...!)
「遅延があっても、10分は期待できない。 ならば、途中で追いつく!」
―彼は地図を脳内で展開する。
ローズの乗る列車は南下する際、渓谷の急カーブで大幅に減速する。
そこなら、チャンスはある。
.............
―そして、渓谷を見下ろす丘
アルフレッドは荒い息を整えながら、眼下を走る線路を見つめていた。
「落ち着け...僕はやればできる男だ。 "演算"!」
―遠くから、粉塵を巻き上げる煙が見えた。
巨大な鉄塊が、蛇のように渓谷へ滑り込んでくる。
「距離500...400...線路までの最短距離30...
気流、慣性、空中での減衰を考慮し...3、2、1...今だ!」
―咆哮を上げるバイクと共に、彼は崖から躍り出た。
重力を振り切り、放物線を描く。
列車の屋根が視界を埋め尽くした瞬間、彼はバイクを蹴った。
(このままだと、滑り落ちる...!)
「"メディエイト・リユニオン"!」
―局所的なパスが強引に列車の鉄板へと彼を叩きつける。
「ガハッ! 良かった成功だ!」
―全身の打撲、内出血が酷い有り様だが、彼は笑っていた。
「待っていてくれ、ローズ...今、行く!」
―その頃、客室の中でローズは窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めていた。
その白く細い指先は憤怒と悲壮で震えている。
「"考える"って言ったじゃない...
私を...抱いてくれたじゃない...!」
何で?
何で来てくれなかったの?
私は所詮、使い捨ての存在だったの?
純白のドレス...教会...ミサ...
あれは全部、嘘だったの?
「最初から...全部...演技だった...?」
―絶望に沈む少女...その首筋には黒き涙が零れていた。
絶望が彼女の心を支配しようとした、その時...
「折角の顔が台無しじゃないか、マドモアゼル?」
―聞き慣れた、少し芝居がかった声。
振り返れば、そこにはボロボロの服を着て、顔中アザだらけの男が立っていた。
「....ッ!!」
―声にならない叫びと共にローズは彼に駆け寄った。
そして...
「グハッ...!! どぼじで...ろーじゅ...」
―再会の抱擁よりも先に乾いた音が響いた。
彼女のビンタがアルフレッドの頬を捉えたのだ。
「ろ、ろーじゅ...? 「バカ... 私をどれだけ心配させたと思ってるの...!」」
―ローズの瞳から透明な涙が溢れ出す。
彼女は今度こそ、彼の首に腕を回し、力強く抱きしめた。
「ありがとう...来てくれて...! でも、あなたったら酷い顔じゃない...」
「それはローズにトドメを刺さ...「"ヒール"」」
―柔らかな光が彼を包み、彼を癒す。
「あなたを癒すことが赦されるのは、この世界に私一人よ...あなた!」
「ハハッ、メイクが崩れた顔で言われても説得力がないね。」
「こ、これは普段メイクなんてしてないもん!」
「分かっているよ。 僕も素の君の方が好きさ...だから、"クリーン"!」
―魔法で汚れを落とすと、そこにはいつもの、少し強気で美しいローズの顔があった。
「あら、全部のメイクが落ちちゃった....器用なことね、エルフの紳士様?」
「それは、どうも...ローズ嬢?」
―重なる唇と、列車の規則的な振動...
二人の新しい旅が、今ここから始まる。




