4.あなたのせいです。
ごくり、と固唾を飲む。
メルティから滲む、殺意にも近い敵意。
切れ長の目が、俺を睨む。
湯につかっているのに、冷や汗が頬を伝った。
メルティの唇が、嫌悪に歪む。
「貴方のことは知っていますよ、ルーク=フィーレント」
低く静かな声で彼女は言う。
「魔力量の高さから、十歳にして王宮魔導士に就任。
国の最高位魔導士であるレンワルド様に認められ、二十歳の若さで高位王宮魔導士に選任。
けれど、まさか選任されてすぐにダリア様との婚約を申し出るなんて……予想外すぎて阻止さえできませんでした」
執念さえ感じる嫌味の籠った声色に、思わず身構える。
「俺のこと、知ってたのか」
「当然です。ダリア様にとって、あなたは二度目の婚約者ですから」
「………」
四年前まで、ダリア様には親の決めた婚約者が他にいた。
大公爵の子息、エドガー。五年前、俺を虐げてきた相手でもある。
俺が婚約を申し出られたのは、エドガーとダリア様の婚約が白紙になったおかげだった。
「クレイトン公爵は、俺とダリア様の婚約を認めてくれてる。
知ってるのに、どうして俺をそんなに敵視するんだ」
ため息交じりに吐き出すと、メルティが信じられないとばりに口を覆う。
「よくもまあ、自分勝手に婚約を申し込んできておいて、そんなことが言えますね。
厚顔無恥さ加減にもほどがあります。
ダリア様が婚約破棄されたのは、あなたのせいだというのに」
「………え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
不愉快そうに歪んだメルティの表情に、少しずつ鼓動が早まっていく。
確かに、俺が婚約を申し込んだのはかなり身の程知らずで強引に見えたと思う。
でも……
――エドガーとの婚約破棄が、俺のせい?
そう聞き返したいのに、喉の奥が張り付いて声が出なかった。
狼狽する俺を見て、メルティが信じられない、と目を見開く。
「まさか、あなた知らなかったのですか?」
「知るわけないだろ! なんでそんなこと……」
「五年前の、あの日ですよ」
「五年前……?」
ざわ、と胸が波立つ。
暖かい湯の中に浸かっているのに、体の中が凍っていくようだ。
「――きっかけは、クレイトン様が開催したパーティーでした。
エドガー様と、パーティーの護衛で雇った魔導士の間でトラブルが起きたんです。
エドガー様の怒りは酷いもので、見かねた優しいダリア様は、その護衛を庇われた。
あの時の護衛――あなたですよね。ルーク様」
忘れたとは言わせないと、怒気を孕んだその声が物語る。
忘れるわけない。
だって、それは毎日思い返すくらい、俺の中で大切な思い出なんだから。
◆◆◆
当時。
平民ながら魔導士として働いていた俺は、クレイトン公爵家の開催したパーティーで護衛の任を受けた。
勇んで会場に結界を張り、レンワルド師匠の命の下、来賓者だったエドガー様の護衛について――なぜか目を付けられた。
罵られ、飲み物をかけられ、しまいには落ちた物を食べるように命じられた。
悔しかった。
何で、こんなことをされなくちゃいけないのか。
けれど、魔導士とはいえ平民が貴族に楯突けば、状況はもっとひどくなる。
「ほら、早く食べろよ」
落ちた食べ物を指され、言われるがままに膝まづく。
下げた頭と背中に、貴族たちの嘲笑と好機の目が刺さった。
くすくすくす……
背中に降り落ちる幾重もの笑い声に、かっと体が熱くなった。
握った拳に爪が食い込み、ぎりぎりと奥歯が鳴る。
でも、耐えなければ。
耐えなければ――
その時だった。
俺とエドガーの間に、水色のドレスが立ちはだかった。
華奢な肩に揺れる、美しい金髪。
「いい加減になさい!
彼は貴方を守ってくれる護衛なのよ!
恥を知りなさい、このパワハラ野郎!」
まだ幼い、けれど凛とした声。
「ダリア……」
と呻く、エドガーの気まずそうな顔。
ダリアと呼ばれた彼女が、俺に向きなおる。
「わたしの家のパーティーで、嫌な思いをさせてごめんなさい」
伸ばされた手。
細い指。
差し出された手を取る。
資料によると、彼女はまだ十三歳。
そんな少女が、大人たち、しかも貴族の前で、平民に頭を下げるのは勇気がいっただろう。
けれど、彼女が周りを気にする様子はなかった。
憂いを帯びた瞳は、俺だけを見ている。
その真っ直ぐさに、俺は目が離せなくなった。
パーティーの後、いつか必ず恩を返すと約束した。
悪いのはこっちだから、と断られたが、それは俺の人生の目標になった。
彼女との再会を望んで、焦がれて。
エドガーがダリア様の婚約者だと知った時は、雷に打たれたくらいの衝撃があった。
しかし、その一年後。
ダリア様とエドガーの婚約が白紙になったと噂が流れた。
ダリア様なら、すぐに他の良い方と婚約するだろう。
そう思っていたのだが、ダリア様のお相手の話はいつまでたっても流れなかった。
◆◆◆
「エドガー様から婚約破棄の要望があったのは、あのパーティーの後、すぐです」
メルティの声が浴場に響く。
「根も葉もないダリア様の悪評が流れるようになり、クレイトン公爵も、そんなダリア様を避けるようになりました。
ダリア様のお顔が俯いていくのを、わたしはずっと傍で見ていた」
悔しさに耐えるように、メルティが唇を噛む。紫の瞳が、俺を捕える。
「あれもこれも、すべて貴方が原因です。
わたしは、貴方を許しません」
「っ………」
メルティの言葉は、重かった。
知らなかった。
エドガーとダリア様の婚約破棄について、ダリア様に対する心ない噂は耳にしていた。
ダリア様のエドガーへの態度が酷かったとか、心変わりしたとか、裏切ったとか。
ダリア様はそんな人じゃない。
だから、理由は他にあるのだろうと、思ってはいた。
まさか、それが俺を庇ったせいだったなんて。
ダリア様はエドガーを止めただけなのに、どうして。
大体、よく分からない理由で急に蹴りつけてきたのはエドガーだったろ。
胸の奥が、熱くなる。
自己嫌悪と、罪悪感。
そして、ダリア様への恩義と、敬意。
「……ダリア様の人生を狂わせた張本人が、ダリア様へ婚約を申し込んだってことか。
そりゃ、お前も腹が立つよな。
でも――」
ぴくり、とメルティの眉が跳ねる。それでも、彼女を見据える。
「俺は、ダリア様を手放せない」
「はあ?」
「ここで引けるくらいなら、高位王宮魔導士になんてなってないんだ。
大体、大公爵の子息とはいえエドガーって最低野郎じゃねえか。
あんなのと結婚しても、お前良かったのかよ」
「それは……」
逡巡するように、メルティの体がわずかに揺れる。
「ただ、エドガー様はダリア様にはお優しかったのですよ。
それに、ダリア様はあなたとの結婚だって望んでいないでしょう」
「それは……そうだな」
正直、婚約者の名前さえ知りたがらないダリア様の様子に、かなり戸惑ってはいる。
でも、今更「そうですか」と退けるほど大人にもなりきれなかった。
ダリア様は『不愛想で守銭奴で高慢なじじい』との婚約者は拒絶していて、俺を拒絶しているわけじゃない。
そこに一縷の望みがあるなら、まだ賭けていたかった。諦めたくない。
「………とりあえず、色々誤解があるみたいだから、それを解くとこから始めるよ」
「それでも望まなかったら?」
「その時は……婚約は、断ってもらったらいい。
でも、例えそうなっても、俺は一生かけてダリア様に恩を返す。それは変わらない」
は、とメルティが鼻で笑う。
「あなたなんぞに、返しきれるとお思いですか?」
「俺は高位王宮魔導士だぞ。利用なんていくらでもできるだろ。
それでもダリア様の下へ置けないと思うなら、その時は追い出せばいい」
「わたしは一介の侍女ですよ。そんな権限――」
「お前はダリア様からの信頼が厚い。
そんなの、やろうと思えば造作もないんだろ」
「…………」
メルティが、考え込むように目を伏せる。
長い沈黙。
やがて、小さくため息をついた。
「………分かりました。
貴方を許しはしません。が、もう少し様子を見て差し上げます」
湯に濡れた長い黒髪を、メルティが掻きあげる。
「どうしてエドガー様は、貴方を罵っていたのでしょうね。思い当たることは?」
そんな俺が知りたいよ。
首を横に振ると、メルティは「そうですか」と頷く。
「では、もう用はありません。お時間を取らせました」
浅く礼をして――
「ああそうそう。
重要なことを忘れていました。ちょっとそのまま、こちらを見ていてください」
「え?」
メルティに顔を向けると、探るような不躾な目線が俺を見つめた。
その目線は俺ではなく、もっと俺の奥にあるものを見ている。
気づいた瞬間、ぞわり、と全身が総毛立った。
え。これって……まさか……
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
「ちょ、待て!」
去ろうとするメルティを引き留める。
「なんですか?」
「お前、まさか今俺の魔力を視たのか?」
「ええ。そうです」
「そうですって……」
あっさり言ってのけてくれる。
魔力を視るには、高位王宮魔導士級の魔法技術と知識が必要だ。
一介の侍女が、簡単に取得できるものではない。
「そもそも、わたしがここに来たのは貴方の魔力量を正しく測りたかったからですよ。
ここ最近、魔力増強効果のある服で誤魔化す輩も増えているので」
困ったものです、と肩をすくめ、メルティはにやりと俺を見る。
「まあ、貴方の魔力量は及第点でした。
ダリア様の傍にいても許せるギリギリのライン。
良かったですね」
「っ」
えらそうに、と笑って返す余裕なんてなかった。
「お前、何者だ?」
構えた俺を払うように、メルティがしっしと手を動かす。
「ご存知の通り、わたしはただの侍女ですよ」
軽く礼をして、ダリアは脱衣所へ去る。
その姿を、俺はただ目で追うしかできなかった。
◆◆◆
「はぁあああああ……」
風呂ですっかりのぼせた俺は、自室に戻るとベッドへ倒れこんだ。
メルティとの会話が頭をよぎり、つい溜息が出る。
――ダリア様が婚約破棄されたのは、あなたのせいだというのに。
メルティの言った言葉が、何度も脳内を巡っていた。
あの時、俺を助けたせいでダリアの人生は狂ったのか。
罪悪感が波のように押し寄せる。
エドガーは最低野郎だった。
それは、今でも断言できる。
でも――
もし、それでもダリア様にとって大切な人だったら?
『恩を返す』と豪語したが、自分にとってはかけがえのない大切な出来事が、ダリア様にとっては悲しい連鎖を生むきっかけになったのだと思うと、胸が軋んだ。
「……落ち込んでたって仕方ないか」
言い聞かせるように呟く。
長風呂になってしまったからか、喉が異様に乾いていた。
大体、メルティのことだって気になる。
メルティの魔力視察は、多分本物だ。
魔族を一掃し、魔力の探査さえできる魔力量と知識。
あいつのことも意味わかんねえ、とため息をつく。
「……水飲も……」
とりあえず食堂に行ってみることにして、部屋のドアを開ける。
「あ」
「ルーク!」
そこに、ダリア様がちょうど立っていた。
「どうしたんですか、こんな夜に」
「お風呂の後、どうかなって思って」
見ると、ダリア様の持つトレイに、ティーセットが乗っていた。
「そんな、気を使っていただいて……ありがとうございます」
「わたしも、お茶一緒にしていい?」
「えっ、はい。もちろん! じゃあ食堂に行きますか?」
いさんでダリア様からトレイを受け取ると、彼女は不思議そうに小首を傾げる。
「どうして? ルークの部屋でいいよ」
「え」
思わず彼女の服に目がいく。
白の、ゆったりしたロングドレス。
質が良く柔らかそうな素材のそれは、着心地は良さそうだが――その胸元は、大きく開いている。
「お、俺の部屋はちょっ……」
「お邪魔しまーす」
答えに窮している隙に、ふわりと金髪が通り過ぎる。
甘く柔らかい石鹸の香りが鼻孔を擽り、彼女も風呂上りなのだろうと連想させた。
更に進みゆく連想を慌ててかなぐり捨てる。
「だ、ダリア様…!」
捨てても沸いてくる雑念に、俺はダリア様の背を追った。




