5.名前を呼んで
ダリア様は、すでに部屋の奥――ベッドの前に立っていた。
「ここ、座っていい?」
「いや、そこはちょっと……」
しかし、返事を待たずに彼女はベッドへ腰を下ろす。
こっちに椅子もありますよ、と声をかけてみたものの、首を横に振られてしまった。
ティーセットのお茶をカップに入れて、「どうぞ」とダリア様へ渡す。
「このベッド、柔らかくて気持ちいいのよね。
それに、ここの方がカードしやすそうでしょ?」
彼女の視線が、ベッド脇に置かれた小さな木箱へ向く。
「カードゲーム、ですか?」
「そう。一緒にやりましょ」
「えっと……」
時は二十二時を過ぎている。
今日会ったばかりの男性の部屋に、十八の女の子が一人でいていい時間じゃない気もするが、ダリア様はカードを裏向きに並べ始める。
やっぱり、お部屋へ戻った方が。
喉まで出かかった言葉はどうしても出てこない。
一緒に過ごしたい気持ちと、俺がダリア様の婚約をダメにしたのだという罪悪感が心の中でごちゃ混ぜになっていた。
っもう、どうにでもなれ。
ばくばく鳴っている心臓を無視して、ベッドへと腰を下ろす。
ダリア様が嬉しそうに体を弾ませると、緩やかにベッドがたわんだ。
「じゃあ、私からね」
カードへ伸びる細い指。
傾けた肩口から、まだ湿っている金髪がぱらりと落ちる。
ダリア様も風呂上りなのだという事実が、より鮮明に脳裏へ焼き付いた。
「次、ルークの番よ」
「あっ、はい」
声をかけられ、慌ててカードをめくる。
カードの数字と模様を覚えなければならないが、身を乗り出して覗き込むダリア様は妙に近かった。
息遣いさえ聞こえてきそうな距離に、全く集中できない。
「っ」
大きく開いた胸元に視線が落ちそうになって、慌てて上を見る。
警戒心とか!
と、訴えは浮かんでくるものの、実際ダリア様にぶつけられない。
五年前のあの日から、ずっと、ずっとダリア様を追いかけて来た。
今、自分の部屋で一緒に過ごしていることにさえ、歓喜を越えて感動すらする。
邪な気持ちなんか持ってはいけない。
ダリア様は俺を婚約者だなんて知らないし、婚約者自体認めて等いないんだから。
「ねえ」
「あ、はい、今!」
急かされたと慌てて答えると、そうではなかったらしい。ダリア様は首を横に振り、言葉を続ける。
「ルークって、魔導士なのよね?」
「ああ、はい。そうです」
高位、はつくけれど嘘ではない。
頷くと、ダリア様が息を飲むが分かった。
迷うように動く瞳。やがて、固く閉ざした唇が、ようやく開く。
「……ここには、父様の命令できたの?」
痛い質問だった。公爵の命令かと言えば、そうではない。
婚約者として、ダリア様を助けに来た、というだけだ。
けれど、ここで公爵の命令ではないと言ってしまったら、彼女は傷つくかもしれない。
――父様はわたしのことなんてどうでもいいのよ。
展望台でのダリア様の悲痛な表情が頭をよぎった。
「………それもありますし、自分の意志でもあります」
我ながら、かろうじてできたのは無難な返し。
「ふうん」
「………」
気のない返事に、そっとダリア様を垣間見る。
カードを見つめる、何も気にしていないとでもいいたそうな表情。
「ルークって、嘘が下手ね」
突然の言葉に、心臓が跳ねた。
「嘘では……!」
「嘘つきは嫌いよ」
「!」
「………でも、貴方は優しい嘘つきだわ」
だから嫌いじゃない。
ぽつり、と紡がれた言葉は、かすかだが確かに俺の耳に届いた。
ダリア様の照れたような微笑みに、どきりと胸が高鳴る。
カードゲームになんか、そこから集中できるはずなどなかった。
◆◆◆
数ターン進み、カードゲームの結果は明白だった。
「やった。私の勝ちね」
ぱちん、とダリア様が手を叩く。
「……参りました」
「ふふ。ルークってすごーく弱いのね」
「………」
あんなん言われて集中できるか、と心の中で突っ込みながら、笑ってごまかす。
「わたしが勝ったんだから、命令を聞いて」
「え、そんなの聞いてな――!」
つい、と目の前に伸びたダリア様の人差し指に押し黙ると、ダリア様がいたずらっぽく瞳を細める。
「命令よ。
わたしのことは、呼び捨てで呼んで。それから、敬語もやめる」
「そ、そんなことできるわけ……!」
「あら。命令は絶対よ。拒否権はないわ。
大体、メルティにはそうしてるでしょ。わたしだけ除け者なんてひどい」
「それはっ…」
そう言われてしまうと、どうしていいか分からない。
高圧的な表情を作っているくせに、その碧眼が不安げに揺れたのを見たら、もう白旗を上げるしかなかった。
「……分かりました。呼び方は、善処します。敬語も」
「まだ敬語になってる。やり直して」
「えっと……」
変な汗が体に滲む。
俺はダリア様が嫌っている婚約者で、でも正体は気づかれてないから今はただのルークで、でもエドガーとの婚約破棄の起因を作った張本人で……
そんな思考で脳がごった返す。
たが、そんな俺にダリア様からの命令を拒否する権利はない。
「……呼び方は善処する。敬語も、やめる。」
「じゃあ、私の名前、今呼んでみて」
うぐ、と変な声が出た。言葉が詰まる。
ダリア様は期待した瞳で、ただ俺を見つめていた。
覚悟を決めて、口を開く。
「……ダリア」
たったそれだけの言葉なのに、顔がぶわっと熱くなった。
「うん、いいわ」
えらいえらい、とダリア様が頷く。
ほっ、と体の力が抜けた矢先――ふいに、ガラス玉みたいな碧の瞳がぐ、と近づいた。
「!」
鼻先を擽る、シャンプーの甘い香り。
「だ、ダリア様。ち、近――」
「あら。また様付け? ダメだってば」
「っ……」
たしなめるような叱り方に、ぐわわと全身が熱くなる。
いたずらを仕掛ける子どものような微笑み。
心拍数が、上がっていく。
「ほら。罰としてもう一回。呼んでみて」
「う……」
薄桃色の小さな唇に目を奪われ、汗が滲む。
「あの……っ離れ……」
「ね、ルーク」
「!」
せがむような甘い声。
もう限界だった。目をつむり、名を叫ぶ。
「だ……ダリア……っ」
「ん」
鼻に抜けるような、微かな頷き。
「ねえ」
「はいっ」
「………」
返事をしたが、続きはない。
しばしの、沈黙。しかし、永遠にも感じる時間だった。
どくんどくんと鼓動の音が耳で爆発している。
「………ううん。やっぱりなんでもない」
ベッドがたわんでそっと目を開けると、ベッドから立ち上がった彼女の背があった。
「っ………はー……」
全身を沼のような倦怠感が襲う。
何だこれ。何の辱めだ。
褒美か、拷問か。からかわれたのか、煽られたのか。
……煽られたとか何言ってんだ。そんなわけないだろ。
「ルーク」
「?」
ベッドに沈みこんだまま、前に立つダリアへ視線だけ向ける。
「明日も明後日も、ずっとそう呼んでね」
肩越しの穏やかな微笑みの中に、ほんの少し見えた切実の尾。
七日間、誰も来てくれなかったと彼女は言った。
彼女は気高く、強い。
けれど、これまで彼女が抱えて来た不安を、その尾が示していた。
彼女の幸せを、自分が奪ったという罪悪感。
そのくせ、彼女の無防備な笑顔を前に、邪な欲がどうしようもなく沸き出る自分が嫌になった。
ずっと名前を呼んでほしい?
そんなの、断るわけがないじゃないか。
「ダリアが、そう望んでくれるなら」
「なあに、それ。
命令だからそうするってこと?」
「そういうわけじゃないよ」
ふてくされた顔をした彼女が急に幼く見えて、つい笑ってしまう。
もし、俺が『エドガーとの婚約が白紙になった原因』で、『高慢で守銭奴で不愛想なじじいの婚約者』だと知っても、彼女はそんな風に言ってくれるんだろうか。
ダリアが自室に帰った後。
ベッドに横たわって一息つく。
エドガーとの婚約破棄の起因になったのは俺だと、メルティは言った。
そんな自分の人生を変えた出来事を、人物を、覚えていないなんてありえるんだろうか。
しかし、ダリアが俺を覚えているような様子はない。
「忘れるほど嫌な思い出になってるとか……?」
思わず笑ってしまう。
黒い靄が、胸の中で膨らんでいった。
「ますます言い出しにくいな……」
けれど、いずれは明かさなければ。
でも今は――
『明日も明後日も、ずっとそう呼んでね』
そう言った、ダリアの微笑を思い出す。
俺はシーツを握りこんだ。




