悩める師弟
クロベルからソルシスの話を聞いた数日後。
走り抜けるように秋が終わりを迎え、暦上の季節は冬へと移行していた。
そんな冬の始め。ある朝のこと。
朝食を終えるまではいつも通りだったが、魔法の勉強を始めようかというところでセレストとヒューティリア、両者の動きが止まる。
セレストはこれ以上ヒューティリアに教えられることがなく、どうしたものかと考え込み。ヒューティリアは考えることが多過ぎる余りふとした瞬間に思考の底に潜り込んでしまい、身じろぎひとつしなくなる。
そんなふたりを見兼ねたのが、森の精霊や妖精たちだった。
『ねぇ、そんな無理して詰め込まなくてもいいんじゃない?』
『ちょっと勉強はお休みにしたら?』
「……そうするか」
「うん」
しばし考え、セレストは精霊や妖精たちの提案に乗った。ヒューティリアも了承し、リビングのテーブルを挟んで向かい合わせでソファーに座る。
しかしどちらも口を開くことはなく、ふたりは同じ空間にいながらそれぞれがそれぞれの思考の中に身を投じていった。
* * * * *
(聞いても無駄だろうし、俺が知るべきことならいずれ話しにくるだろうから放っておくつもりではいるが──)
ソファーに座るなり、セレストは視界の端に映ったクロベルを横目で見遣る。
窓辺で外の景色を眺めていたクロベルは視線を感じたのか、セレストを振り返った。しかし目が合うなりさっと逸らされる。
(……あの様子だと、聞いても無駄だろうしな)
思わず嘆息する。
いつもならここまで気にすることはないのだが。
(どうしても、引っかかる)
これまで何度となく感じてきた頭の片隅に覚える痛みと、記憶の引っかかり。それが、クロベルから聞いた話のどこかと繋がっているような気がして、すっきりしない。
できることならはっきりさせて引っかかりを消してしまいたいのだが、どうやらクロベル側が逃げ腰のようなので、やはり今は放置するしかないのだろうと結論付ける。
(気になることは山積みだが、今すぐ解決する必要があるかと言うとそうでもないだろう。いずれわかるかも知れないし、このまま忘れていくのかも知れない)
それならそれでいいと、思考を切り替えた。
(……となると、目下の悩みはヒューティリアの今後についてか)
これは至急考えなければならないことだ。先ほどのように、なにを教えればいいのかわからなくなっているようでは師匠失格である。
(魔法は一通り教えた。魔法薬ももう教え切った。あとは本人が復習を望むならそれに付き合えばいいだろう)
他に何かないかと、せっせと記憶を掘り起こす。
(他にあるとしたら、魔法道具の作り方か……? しかしあれには必要なものが多すぎる。教えるにも一度王都で材料を買い込んでこないことには──)
今後の予定も含め、セレストはあれこれと思考を巡らせていく。
一方、その向かい側では。
* * * * *
(マールエルさんの手記……あと少しなんだけど……)
ヒューティリアは小さなため息をついた。
どうにも続きを読もうという気持ちがわいてこない。むしろ最近は、読みたくない気持ちが勝ってきている。
(多分あたしは、本当のことを知るのが恐いんだ)
薄々気付き始めていることがある。
まだ予測の範囲を出てはいない。しかし予測が外れている可能性は極めて低く、それが明確に提示されることを避けたがっている自分がいる。
(そのことが書かれているかどうかなんて、わからないのに)
それでも、どうしても読み進められない。
「…………」
ふう、とため息をついたところでハッと目を見開く。そしてぶんぶんと頭を振ると、握った手に力を込めた。
(いやいや、もう何度同じことを考えて答えが出ないままぐるぐるしてると思ってるの! 最後まで読むって、一番初めに決めたでしょ)
皮膚に食い込もうとする爪の痛みで、重く沈みかけていた意識を無理矢理引き上げる。
散々悩み、沈み、その度に心配されてきたこの数ヶ月を思うと、ただ同じ場所を行ったり来たりするだけの毎日が勿体ないように思えてきた。
そう思えるようになったのは恐らく、当初の悩みがひとつ解決しているからかも知れない。
(セレストにマールエルさんの手記は見せない。これはもう決めた。けど、きっとまだ、あの手記にはあたしが知らなきゃいけない何かがある。だからクロベルも読み終えたか何度も確認しにくるんだろうし)
ずっと逃げていても意味がないのだと自らに言い聞かせる。何故ならば、ヒューティリアが手記を読まずともいずれクロベルが真実を語りにくるからだ。
ヒューティリアにはその確信があった。
(多分クロベルはセレストが予測してた通り、ずっとこの家にいたんだと思う。マールエルさんの部屋を閉ざしていたのはクロベルだったんだもの、間違いない。でもずっと干渉しないでいた。それはもしかしたら、機会を窺っていたのかも知れない)
機会。
それはきっと、クロベルが現れたあのタイミング。ヒューティリアが時繰り魔法を学ぶ決意をし、学び始めたあのタイミングだったのだと今ならわかる。
(なら、クロベルの目的は多分──)
それは、本人も口にしていたことだ。
結論はまだ出ていないようだけど、きっと、それは。
『ヒューティリアが百面相してる……』
そんな声が聞こえて、ヒューティリアの意識が現実に引き戻される。
声の方を見遣れば、以前も見かけた猫の姿をした精霊が、じっとヒューティリアを見ていた。
『憂鬱そうだったかと思ったら急にやる気がみなぎったみたいな顔になって、かと思ったら急に恐い顔になってたよ』
猫の精霊は身軽にヒューティリアの肩に飛び乗ると、こそこそと囁きかける。
『あんまりあからさまだと、またセレストが気にするよ』
反対側の肩からも囁かれてそちらを見るも、姿は見えず。気配から、妖精がいるらしいと判断する。
「そうだった」
両肩側からの指摘に思わずヒューティリアは正面のセレストを見遣った。
幸い、セレストはいつの間にか書棚から持ってきたらしい本と睨めっこをしていた。いつも通り眉間に皺を寄せ、真剣に本を読み込んでいる。
何の本だろうとタイトルを覗き込んでみれば、『魔法道具入門』と書かれていた。
「魔法道具!」
興味を惹かれて思わず声を上げると、セレストが本から顔を上げた。
それからじっとヒューティリアの顔を見つめ、ひとつ頷く。
「興味があるか」
「ある!」
即答するヒューティリアに、セレストは安堵したように僅かに表情を緩める。
「もう教えられることがほとんどないからどうしたものかと思っていたんだが、興味があるなら作ってみるか?」
もう教えられることがほとんどない。
その一言にドキッとする。マールエルの手記の一文が、脳裏を過る。
──もう教えることは何もない──
──近いうちに独り立ちの日を迎えるだろう──
(独り立ち……)
嫌だと思った。
いずれその日がくるとわかっていても、まだここにいたいと思ってしまった。
だからこそ、セレストが他に教えることはないかと考えていてくれたことが、どうしようもなく嬉しい。
「作ってみたい……!」
「なら、春になったら王都で材料を買ってこよう。今この家にある材料だと魔法紙くらいしか作れないからな」
そう言いながらセレストは閉じた本をヒューティリアに差し出した。
ヒューティリアは『魔法道具入門』を受け取り、大事そうに胸に抱く。
「今のお前ならひとりで読んでもある程度理解できるだろう。気晴らしに目を通してみたらどうだ」
何気なく投げかけられた言葉に、ヒューティリアは息を呑む。
ヒューティリアが何を読んでいるのかまではわかっていないのだろうが、ここ数ヶ月、根を詰めて手記を読み込んでいることにセレストは気付いている。そんな気がした。
「……うん」
素直に頷いて、さっそく『魔法道具入門』を開いてみる。
見慣れた字で書かれた序文。
それを読み進めるうちに新しい知識への期待がどんどん膨らみ、どうしようもなくわくわくしてきた。
目を輝かせながら本に没頭するヒューティリアをしばらく眺め、セレストはソファーから立ち上がる。
視界の中にぼんやりと虚空を見上げている原初の精霊の姿が映り込むが、特に声をかけることもなく、ライアーを手に取ると静かに庭へと出て行った。




