現実
【現実】
1
世は、不景気だった。学生の頃には感じなかった不況の風。高校を出た俺は就活二年目を迎えようとしていた。
二十歳。
フリーターとして迎えた成人。劣等感はない。周りにそんな奴らがうじゃうじゃいるから。ただ、この先も定職につく予定も、自信もない。
毎日がただ過ぎてゆくだけ、下水道にでも流した方が世の中の役にたつと思うほど、無駄な時間を過ごしている実感はあった。
朝起きて、歯を磨いて、バイトに出掛ける。何の目標もなく行われているレジ打ち、俺は毎日そうして時間を消費しているのだった。晩飯はバイト先の賞味期限が切れそうな弁当を安く譲ってもらう。金が無いから仕方がない。寝て、起きて、バイトして、その繰返し。
休みの日は一日中家にいる。外に出ると何かと疲れるし、金もつかうから。
ダメ人間。まっすぐ、そこへ向かっていた。明るい兆しの見えない未来へと向かって。
幼い頃からそうだった。何をやりたいということもなく、何が好きとか、何が嫌いとか、あんまり口に出してヒトに伝えるのが苦手だった。
繰り返されるしょうもない日々。それでも太陽は昇ってきて、必ず朝を迎える。確実に歳だけはとっていた。目標もないから進歩もない。いつからか鏡で自分の顔を見なくなっていた。
部屋にはTVだけはあった。TVを観るのは嫌いではない。娯楽。唯一の楽しみなのかもしれない。TVを観ていると時間を忘れられる。時間だけではない、現実すらも忘れられるのだ。しかも、電気代だけで。こんなに重宝なものは他にはない。
パソコンは持たないことにしていた。まあ、金が無いから買えないのも事実だが、あんまり好きとは思えなかった。最近ではツイッターとかフェイスブックだとかで正体も知れないヒト達と意見交換を行うそうだが、俺の性分にはどうやら合っていないようで、一方的に情報を映すだけのTVの方がストレスを感じないから、俺はTVだけで充分だった。
たまに親父が電話をよこす。いつも俺のことを心配してくれているようだ。一応、親父には感謝している。若くして亡くした母親の代わりに、不器用だが俺をここまで育ててくれた恩。苦労をかけてきただろう。でも、その恩を返せる予定や目途は立っていない。今の生活のままでは、これからも先もそうだろう。
今実家に戻ると今よりさらに堕落していくのは、目に見えていたから。今の生活を親父には見せたくなかった。苦労して育てた息子がこんな風に落魄れていると知れば、全力で救いだそうとするはずだ。そういうヒトなのだ、俺の親父は。今のこの状態は、俺自身の責任だから、そこで妥協してはいけないと理解していた。
ある日の夕方。いつもと同じようにバイトをしていた。あと一時間か、と溜息をひとつ吐いたと同時に客がレジにやってきた。
「らっしゃいませ」
俺はいつもの通りに素っ気なくいった。そして、いつものようにレジを打ち始めた。
「タクヤ・・・だよな。おい」
聞き覚えのない声で呼ばれた。名前を呼ばれたことすら久し振りのことだった。俺は金額を呟きながら、そいつに目をやった。
「ほら、やっぱりタクヤだ」
小学校の時の同級だと、彼はいった。しかし、そんな記憶は俺の中にはまったく無い。よく俺のことを覚えていたものだ、と思った。彼の慣れ慣れしい不快な感じだけが印象付き、記憶を掘り起こす作業を妨げていた。
仕事終わりに会う約束をした。ヒトと約束をしたことも久し振りのことだった。ほとんど無理矢理だったが。
駅前の銅像の前で七時。あの片手に変な物を持った銅像を思い出した。彼はシックな色のジャケットを羽織って立っていた。口には煙草を咥えていたが、俺を見つけるなりそれを指で摘まみ、その手を大きく俺に向けて振って見せた。
「おう、よく来てくれたね。ドタキャンされたらどうしようかと思ってたのよ」
彼はまた慣れ慣れしく俺の肩に手をまわし、行き先もいわずに歩きだした。
「お、おい。どこ行くんだよ」
俺はまだ、こいつの名前を知らない。
「あれ、いってなかったっけ?」そいつはわざとらしく、頭を掻いた。「悪り~、悪り~、今日はナースだよー」と、ニカっと笑みを見せつけた。
知らぬ間に合コンのメンツにされていたのだった。俺は慌ててこいつの腕を振り払った。
「どうしたんだよ、急に。楽しいぜ。まっ、今日は白衣じゃないけど・・・それは後のお楽しみってことでネ」気色の悪いウィンクが飛んできた。
俺は金もないし、興味もない。はっきりいおうと思った。金が無いことを恥ずかしいとは思っていなかったから。それ以前に、何かムカついていた。
「金のことは心配すんなよ」またしても俺は肩を抱かれた。「今日は俺が面倒みっからよ」
抱かれた肩を、今度は強く引き寄せられた。
「欠席だけは困るのよ。こっちも数揃える約束してるし。どうせ暇なんだろ、今日だけは付き合えや」
呆れて俺はものもいえなくなっていた。反抗する気力を失った俺は、連れられるままに歩かされたのだった。慣れないネオンサインが妙に眩しく感じ、通り過ぎるヒト達が楽しそうに見えて、そんな光景に妬ましさを覚えながら、俺は終始俯き加減で歩き続けたのだった。
携帯を耳に当て、大声で話をして歩くこいつは、間も無くして小奇麗な店の前で足を止めた。そして、振り向きざまに俺に向かって口を開いた。
「いいか、俺たちは弁護士の卵だ。今日はそういう設定にしている。見た感じおまえは感じ違げーけど、今の調子で静かにしてれば、ばれねーからよ」といいながら、俺の全身を舐めるように見回した。
(おまえはどうなんだよ)心の中で唾を吐いた。
そんなことも知らない男は、喋りながら店のドアを勢いよく開け、大股で入っていった。
俺は思いがけずも、初めての合コンを経験するはめになってしまった。
うす暗い店内。耳を塞ぎたくなるほどの騒ぎ声。聞こえる声はほとんどが若い連中のものと思われる。金が無いから眼鏡もコンタクトも買えない俺は、そんな店内の雰囲気をぼんやりと感じ取っていた。
俺たちは一番遅かったようだ。予約席、と書かれたテーブルの席がちょうど二つ開いていた。ぺこぺこと頭を下げながら席につくあいつを見ながら俺も、開いている席に座ったのだった。
「ごめん、ごめん、遅れちゃって。始めててよかったのにー」
極めて白々しい台詞をいった後、あいつはまた頭を掻いた。そして、頭を掻きながら流れるように自己紹介に移っていった。
オクダ・ケイスケ。
あいつの名前だ。古いアルバムを捲るようにしっかりと思い出そうとしたのだが、本当に同級生だったのだろうか。まったくといっていいほど、俺の記憶に甦ってこないのだった。
あれこれ考えてるうちに自己紹介も残すは俺と向かいに座る女性の二人になっていた。もぞもぞして、なかなか口を開かない俺を見たオクダが「タクヤの番だぞ、もったいつけるなよ」と催促される始末。
逃げだせるものなら逃げ出したい。そんな衝動にかられるが、それが通用しない状況なのも十分に理解していた。
「フクヤマ・タクヤです」
確実にどよめきが起こっていた。
「芸能人みたいな名前だね」
奇抜な赤い服を着た端の女性が、笑いながらいった。
「それで、それで・・・」
名前だけで印象づけてしまったらしく、みんな俺の次の言葉を待っている。何も思いつかない俺は、出身高校でもいおうと息を吸った瞬間、
「は~い、はい。そこまでね。こいつ、口ベタだからこういうの苦手なんだわ。けど、名前はホントだから、ヨロシクで~す」
わざとなのか、それとも自然なのか。TVで最近よく見るチャラ男がそこにいた。でも、なんか救われた感じがした。オクダの本音はわかっていた。俺が口を開くことによってボロを出すことを恐れていたのだろう。
「見た感じ貧乏学生? そのまんまか。皆さん、恵まれない彼に愛の手を。なんちって~」
そんな感じで、ヨレヨレのパーカーを着た貧乏学生役の俺の番は強引に終わり、向かいに座っている女性にみんなの視線が集まった。
帰りたい衝動はおさまるはずがない。貧乏ゆすりをしてイライラをごまかしていた俺。
「・・・コズエです。○○総合病院の・・・」
(えっ)
俺は自分の耳を疑った。そして、ゆっくりと顔を上げ、向かい側に座る彼女の顔をそっと見た。ぼやけていたので、目を細めて見た。「い、今なんて」思わず口走っていた俺。
「えっ、今ですか」といいながら口を挟まれた彼女は、僅かに狼狽していた。「外科病棟で・・・」
「い、いや。その前」
「えっ、そ、その前。えーと、○○総合病院ですけど」
「そうじゃなくて」俺は立ち上がっていた。無意識に。
「な~に、タクちゃん。喰いついてんの。コズエちゃんがタイプだったりして、まあ、かわゆいからね。それにしてもわっかりやすっ」
オクダは今確かに彼女のことを、コズエちゃん、と呼んだ。
しばらくの間、俺の胸の奥底で眠っていた名前。急に心臓が動き始めたような、そんな衝撃を感じていた。
「コズエさんて、いうんですか」
彼女は大きな目を見開いたまま、ゆっくりと頷いた。
会うことはないと思っていた。コズエという名の女性。一生会わないと、いや、耳にしないと思っていた。
(彼女は生きている)
以前に思った、根拠のない確信。甦る想い。それと同時に湧きあがるような生気。全身を巡る俺の血を感じた。生きているという実感だった。
けれど、それ以降の俺は、合コン中にも拘わらず、相変わらず静かなものだった。会話の中には入っていけず、ゲームをしていてもノリが合わない。普段ヒトと会話をするというと、バイトくらいなものだったし、ましてや合コンなんて初めてだったから、要領もつかめないまま終わりを迎えようとしていた。
そんな時だった。彼女と目が合った。そう、向かいに座るコズエさんと目が合ったのだった。
「あ、あの。お酒強いんですね」俯きぎみに口を開いていた。
そんなに飲んでいるとは思っていなかったが、話の輪にも入っていないので、ついつい酒がすすんでいたのだろう。そういえば、少しだが酔っているようにも感じた。
「タクヤさんも行きます?よね。二次会」
一次会も終わり、会計をしている最中に彼女が俺に耳打ちした。
ドキっとした。俺の手に触れた彼女の細くて冷たい指の感触。そして同時に、脳の奥まで刺激してきたほのかな石鹸の香り。
無意識に鼻で大きく吸っている自分がいた。懐かしい香り。まさか、同じ香りがするなんて、石鹸の香り自体は珍しいものではないが、あのこずえちゃんもほのかな石鹸の香りがしていたことを思い出さずにはいられなかった。しかも、右の耳に触った吐息までも、偶然の一致にしては条件が揃いすぎている。
せっかく忘れていたのに、本当にここ最近は、思い出すことすらなくなっていたのに。でも、どんなに思い出しても、どんなに焦がれても、こずえちゃんはもう俺の前に現れることはないのだから。そこだけは昔に比べ少しだけ前向きになっているような気がした。いや、そう思わなければ収拾がつかないことに気が付いたといった方が適当だった。
俺は今、確実に彼女を意識しだしていた。
ぼんやりとした輪郭。何となくだが、かわいいんだろうな、と思えた。はっきりと、顔が見たい、と思っていた。(メガネ、買おうかな)
ヒトに対して、こんなに興味が湧いたのも、久し振りのことだった。
二次会の席はコズエさんの隣りだった。ていうか、コズエさんが隣りに座ってきたのだ。
「何のむの? またビール? さっきもずっとビールばっかだったよね」
俺の右側で囁く彼女。距離が近い。
一次会での俺は、ずっと見られていたのか。そりゃそうか向かいに座っていたんだからな、と強引に自分を納得させ、俺は店員に向かって手を挙げた。生をひとつ、と。クスクスとかすかな笑い声が聞こえたが、振り向く勇気を持ち合わせてはいなかった。
「かんぱ~い」
みんなが手を出しあい、一斉に声を上げる。一応俺も控えめな声を出しながら手を差し伸べた。二次会も輪の中心にオクダがいる。チャラさは相変わらずだが、みんなを飽きさせない話術は確かなものだし、何より気配りがハンパでないのだ。誰かのグラスが空になりそうなら、おかわりを催促するし、話に入ってこない俺にまで無理のない話題でちょっかいを掛けてくる。一緒にいて段々と愉快になってきている自分に気が付いた。
ヒトと接することがこんなに楽しいなんて、初めて感じたほどだった。自然とあの日から、ヒトという対象を遠ざけていたのは間違いなかった。元々消極的な性格だが、今までにチャンスはいくらもあったはずだ。しかし、いつもタイミングを逃し、また殻に閉じこもる。その方が傷付かないから、それを幾度も繰り返した。
「タクヤ君、何歳?」
少し酔っているのか、さっきよりもやや色っぽく見えた。
「二十一」
「へえ~、同い年だね。弁護士の卵なんだってね、すごね。わたしなんて看護師になれる自信ないよお」
といいながら、バランスを崩し俺の方に倒れこんできたコズエさん。
また、いい香りがした。
「ねえ、どこかで会ったことある。キミ~」
酔いながらも俺の鼻に指の先をあて、ニヤっと笑った。
なんか、かわいいと思った。いくら俺の目が悪いといっても、この至近距離だとはっきりと彼女の顔を認識できていた。
「こたえなさ~い」
彼女のおかげで退屈することはなかった。彼女は終始俺だけに話かけてきてくれた。その間ずっと、彼女の手は俺の右腕を離すことはなかった。
ドキドキしていた。内心。女のヒトに触れられたことも久し振りだったが、それ以上に、コズエさんのことがこずえちゃんじゃないかって思うくらいに、俺の記憶を何度も何度も震え上がらせてくる。
(そんなはずはない、決して)
偶然がたまたま重なっただけ。人生長く生きてりゃ、そんなこともあるはずだ。そう思おうとしても彼女に惹かれている自分がここにいる。それは紛れもない事実なのだ。隣りに座るコズエさんが、あのこずえちゃんでなくても、今の俺には区別できる自信はあった。
だって、長い年月をかけて、ゆっくりゆっくりと整理してきたわけだから。
心の整理。
今の俺の心は、確実にコズエさんを見ていた。
2
頭が割れそうだ。
二日酔い。すぐにそう思った。
初めてだった。結構飲んだのだろう。あの後、三次会まで行った覚えはあった。が、そこで何があったか、何をいったかまでは、今の段階では思い出すことはできない。
頭が割れそうだ。
薬。
(頭痛薬か)
そっと、差しだされたそれを水と共に一気に流し込んだ。
「もう少し、横になったら」
いわれるがままに俺は、またベッドに倒れこんだ。
夢を見た。それが夢だと、はっきりいい切れる夢。
昔、毎日のように見た夕日。大きくてやっぱり暖かい。煙突の向こう側から昇ってくるのだ。寝そべっているわけでもないのに、夕日が昇っている。
夢なのだ。
ふっ、と鼻で笑ってしまった。
「何が、おかしいの?」
優しい口調。すべてを包んでくれるような暖かい声。
(こずえちゃんだ)
唇を動かしたが言葉にできない。隣りにいるはずなのに。夢の中の俺は、右側を向こうとしない。夢を見ている俺は、必死で横を向こうとしているのに身体がいうことをきかない。
こずえちゃんの顔。幼い頃、当たり前のように見ていたはずの大好きな笑顔。細かいモザイクがかかったように、今はまったく思い出せない。
(傘が流れている。白い傘。)
「違うっ」全力で否定した。「赤い傘だよ」と。
(白い傘は流されちゃったの?)
「いやっ」
いつの間にか二人を覆っていた傘。どしゃぶりになっていた。
「あの日と同じだ」
違うことは、傘の色くらいだと思って、ホッと溜息をついた。
「ごめんね」
突然、こずえちゃんが謝った。
ぼくは、大きくかぶりを振った。
なんで?と訊きたかったが、まだ言葉にできない。
(なんで・・・謝るの?)
胸の底からこみ上げてくる何か。そして、溢れでる涙。今まで溜めてきたものが破裂したような脆い感覚。
俺は飛び上がるように目を覚ました。全身汗でびしょ濡れだった。
「ここは・・・」
声が出た。現実の世界だった。
「わたしの部屋だよ」
ニコニコしている女性がいた。目を凝らした。コズエさんだった。
「どうして俺・・・ここに」
「やっぱり、覚えてないんだ」
口を尖らせ、不満そうな表情を浮かべたが、またすぐにニコっと笑った。
石鹸の香りがする部屋。石鹸の香りに包まれている俺。居心地がいい。ここは俺にとって、居心地がいい場所だと思った。
それからの二人は、自然と会うようになっていった。二人とも正社員ではないから収入が少ないので、いつも会うのは彼女の部屋だった。外で会うのは一ヶ月に一度給料日の日。割り勘で食事をした。俺は全額出すといったが、彼女は頑なに断ってきた。コンビニのバイトを悩みだしてきた今日この頃だった。
彼女は、違っていた。やっぱりこずえちゃんではなかった。付き合いだしてひと月が過ぎ、ふた月が過ぎ、三月目の入ろうとしていた頃。
実感した。
まず声が違う。あのすべてを包みこむような声ではなく。なんていうか、すべてのことを許してくれそうな慈愛の声。表現しづらいがはっきり違うといえる。
それとコズエは、瞳の色が赤茶色い。しかも、その中に月を浮かべる不思議な瞳をしていた。
(あ、あかい・・・月)
見惚れていた。心に空いた大きな穴。吸いこまれそうな瞳。違和感と交錯する僅かな記憶。
付き合っていくうちに、あの日の記憶が遠ざかっていっている。そりゃそうだろうと一人ですぐに納得した。今実際に付き合っているコズエの方が大切に決まっている。子供の頃の淡い思い出よりも、今生きている実感の方が大事だった。少しだけ残った淋しさは、コズエに対して失礼だと思ったから。
3
付き合って半年が過ぎた。
俺もバイトを変え、ちょっとだけだが収入が増えた。収入は増えたけど、コズエとすれ違う時間も多くなっていった。
彼女は献身的に接してくれている。不規則な俺のバイトと不規則な彼女の病院勤め。不規則な者同士の生活は、すれ違いが生じて当然だった。
お互いの限られた時間は、お互いの温もりを感じ合う時間に割かれていった。自然とそうなっていった。
言葉をあまり交わすことなく、黙々とコズエの肌に舌を這わせた。温もりを感じる手段を探りながら、この部屋が自分の居場所だと確認するため。俺を愛してくれているコズエとSEXをすることで、自分の存在を象徴化するため。
(今、何ていった)
「愛してくれている」
(誰を?)
「俺を、だよ」
(SEXしてるだけだろ)
「違う」
(何が違う)
「愛し合っているんだ。俺たちは」
(違うよ。それは愛ではない)
「俺たちは愛し合ってるんだよ、邪魔するな」
(そこに・・・愛はない)
「愛のはずだ・・・よ」
石鹸の香りがするベッド。沈んでいくようなフカフカなベッド。俺の首に腕を巻き付けるようにして、コズエは寝ていた。ふたりはひとつの塊のようになって。
涙?
コズエの頬に一筋の涙の跡を見つけた。
罪悪感。突然俺の胸の中に充満してきた。
さっきの声は誰だったのか。また夢を見ていたのか。それにしても聞いたことのある声だった。
「ごめん」
声になるか、ならないかぐらいの小さな声でいった。
(何故、謝った)
失いたくないから。コズエと共に生きていきたいから。いつしか、そう思うようになっていた。いつしか、コズエがかけがえのない存在になっていたから。
限られた時間に繰り返される抱擁。それは間違いなく俺の愛情表現なのだ。
コズエの涙の理由は何なのか。気になって仕方がない。けれど訊かない方がいい。
そう感じた。
(出してはいけない結論。知らなくてもいいこと)
「またか」
俺の人生に一生付き纏うだろう、この言葉。誰だって知りたいことはあるさ。
(知らない方がいい)
「好きになるほど、愛していくほど、相手のことを知りたくなるのは当然のことだろう」
(オマエは違う)
「違わないよ」
(オマエのは、違うんだ)
「お前は誰なんだよ一体」
(それも知らなくていいことのひとつ)
「誤魔化すなよ」
(逃げてきたオマエには、いわれたくないな)
「コズエを愛しているんだよ」
(オマエには無理なんだ)
「愛しているんだ」
(オマエにはコズエを愛することはできない)
「いい加減にしてくれ・・・オレっ」
また目が覚めた。
今になっては見慣れているコズエの部屋の天井だった。
息が乱れている。
「悪夢だ」
ひどい汗をかいている。
右側を見た。コズエはいなかった。視線の先のテーブルの上に置き手紙があった。
「仕事か」
読まなくても、そう思った。目を閉じた。えげつない睡魔がまた襲ってきそうだった。
「さっきのは・・・俺だったっていうのか」
もう一人のオレ。
「二重人格? まさかな」
コズエが帰って来るまで、もう一度寝ようと思った。今日俺は避番だったから。
石鹸の香りに身を委ねた。何も不満はない。不安もない。あるのは、俺、という存在と、コズエ、という愛の対象だけ。
目を瞑った。
カーテンの隙間から差し込む日射し。俺はそれを避けるように寝返りを打った。
4
久し振りに自分の部屋に帰った。
十日ぶりか。
しばらく帰らない部屋は、なんか閑散としていた。もぬけの殻、まさにそんな空気が漂っていた。
シャワーの蛇口を一気に捻った。頭からかぶった。洗い流したいと思った。昨日の夢を。
(夢・・・だったのか)
本心。
わからなかった。何が本心なのか。結局同じことを考えていた。コズエの部屋にいても、自分の部屋にいても、何処にいても。
掃除をしようと思った。気分転換。前向きな気持ちの表れ。コズエと付き合ってから、いくらか昔に比べ前向きになったと思う。コズエのおかげだ。いつもニコニコして俺に話かけてくれるから、いつでも俺の心は和んでいれた。多少のすれ違いはあるが、コズエと過ごす時間は、有意義だった。コズエは隙間を埋めてくれる。心の隙間を。会えない時間が苦痛だとは思わなかった。だって、すぐに会えるから。お互い大人なんだから。
涙の理由。
それはまだ、気になっていた。正直。
訊くな、といった、夢の中のオレ?
俺が不甲斐ないから。それは自分でもわかっていた。けど、それ以上に好きだった。コズエのことを好きだ、という気持ちが圧倒的に大きかったから。流れに身を任せるしかなかった。
「愛じゃないのか」
違いはわからない。どっちでも良かった。コズエと一緒にいたい、という気持ちに変わりはないのだから。
カーテンを開けた。清々しい。大きく息を吸った。
「これも生きている証」
腹が鳴った。今日はまだ何も口にしてなかった。
「それも生きている証」
SEX以外にもあったのだ、生きている証が。自分を断定できる手段が。簡単なことだった。腕を伸ばしたり、大きく息を吸ったり、太陽を見て眩しさを感じたり、腹が鳴ったり。
普通のことだった。意外と。
収入が増えた俺は、携帯電話を持つようになった。コズエが仕事終わりに必ず電子メールを送ってくれる。
《ご飯、どうするの?》とか、
《タクちゃん、何時で終わるの》とか。
時には《早く会いたいな》なんて。今の時代、恋人同士なら普通にしているやりとりだけど、俺にはそのメールが待ち焦がれるほど愛おしいことだった。コズエからの連絡が俺の、今を生きている証、だと思えたから。
しかし、今日に限ってメールはまだ届いていない。今日という一日は、もう数十分で終わろうとしているのに。
「急用でも入ったのかな」
携帯のボタンを意味無く押した。
「連絡くらいくれればいいのに」
真っ暗な部屋に携帯の明かりが眩しく光っている。
「そうだ。こっちからメールを送ればいいんだ」
できなかった。いつもは必ずコズエから送ってくるから。
「明日は来るよな」
胸騒ぎがした。
「・・・」
あの日と同じ・・・胸騒ぎだった。胸に手を当てた。あの日のように心臓に鳥肌が立ったようなざわざわとした感じ。
嫌な予感。
首を振った。かき消すように。振り払うように。
携帯は開きっぱなしだ。すぐにコズエからのメールを確認できるように。
眠ろうと思った。早く眠った方が、明日早くコズエに会えると思ったから。携帯の明かりはすぐに消えてしまった。その日、コズエからの連絡は来ることがなかったから。




