夕日
【夕日】
1
ぼく達は、いつもここにいた。
河原。
石がごろごろしていて、長く座っているとお尻が痛くなってくるけど。
それでもぼく達は、いつもここにいた。
そして、いつも夕日を眺めていた。
座る場所も見る方向も、いつも一緒。違うのは、季節によって伸びる影の長さが違うことくらい。
こずえちゃんは、いつもぼくの右側に座る。そして、ぼくの肩に頬をつけ、大きなその目を閉じる。ぼくもそれが居心地よくて、こずえちゃんの方に首を傾けていた。ぼく達は手を繋ぎながら、いつもそうした。
いつも一緒にいた。雨の日は傘の中にいた。大きめの赤い傘。こずえちゃんのだ。ぼく達はいつものように小さく寄り添い、いつもと同じ方向に顔を上げた。
今日は見えない夕日。いつもなら、真っ直ぐ立っている四角い煙突の向こう側に夕日は沈む。
今日はやっぱりいつもとは何かが違っていた。いつもは穏やかに流れる川も、今日だけは速く感じた。昨日からの雨のせいか。水かさもいつもよりは少し多いように見える。
こずえちゃんは指をさした。ぼくはその指のさす方を見た。
赤い傘。半分埋まるように流されている。流れが速い川の真ん中を。
(・・・?)
違和感? ふわふわとした不安定な感じ。胸の奥がざわざわと、心臓に鳥肌でもたったかのような・・・そんな不安感。
赤い傘はぼくの視界の端の方へと流されていく。
「だれかの、ながされちゃったんだね。かわいそうにね」
ぼくはそういいながら・・・誰もいない右側を見た。
こずえちゃんは、そこにはいない。
そこにいるはずのこずえちゃんは、もうここにはいない。
ぼくが握っていた傘も、川を流れていた赤い傘も、右肩に感じていた優しさも、右腕にしがみつく温もりも、ぼくの心を包んでくれたあの笑顔も、耳元で感じた彼女の吐息も、そして彼女と見た夕日の思い出さえもがみな、この川に流されてしまったのだろう。時間が経つにつれ、どんどんと剥ぎ削がれてゆくぼくの記憶。抗いがたい虫唾が、ぼくの脳を掻き荒らした。
こずえちゃんが亡くなって2週間がたった。
こずえちゃんが亡くなって2週間、毎日ぼくはここにいた。今でもこずえちゃんが、何気ない顔でやってくるような気がしたから。ぼくはいつものように待っていた。いつもと同じように右側を空けて。
あの日は雨だった。
傘が流れていた日。
こずえちゃんが・・・いなくなった日。
どしゃぶりの雨だった。その日ぼくは傘を忘れていた。どうしようかと思ったが、迷うより先に駆けだしていた。全身がびちょびちょになるには、そんなに時間がかからないくらいの大雨。風も強かった。まわりのみんなも傘を飛ばされそうになっていて、必死で傘を掴んではいるが、そのせいでみんなもやっぱりびちょびちょになっていた。
玄関を飛び出したぼくは、校庭を縦断し、校門を出て、いつもの道を一直線に走った。
(こずえちゃんが待っている)
手のひらをグウにして、一生懸命に振った。こずえちゃんが待っているから・・・その一心で。
こずえちゃんとは同じ小学校だった。先週までは。転校していったから、もう会えないと思っていた。子供にとってのヨソの町は、非常に遠い。
もう、会えないと思っていた。彼女から連絡がくるまでは。
嬉しかった。涙が幾筋も頬を伝った。彼女からの突然の電話。覚えているかぎりの人生で初めての涙だった。転校していった時だって流れなかった涙が、その時出た。絶望感から脱した喜び。もう会えないと諦めていた矢先のこずえちゃんの声。
幼くて小さな胸を、張り裂けそうな動悸が支配していた。押さえようと胸に手を当てた。止めようとそれを、ギュっと握った。聞き慣れたはずの彼女の声が妙に新鮮で、先週までは当たり前のように聞いていたのに、涙は勝手に溢れていた。
小五の恋だった。初恋。淡い恋だった。むずかしい言葉ではいえないけど、大切なひと、だと。それだけはわかっていた。子供ながらに。
毎日会っていた河原。何するわけでもない特別な時間。二人だけの大切な場所。いつだったか彼女がぼくに一度だけいった言葉があった。
「たっくんのお嫁さんになれるかな」
彼女があらわしたぼくへの気持ち。胸に刻まれた彼女の想い。
「夕日が昇ることってあるのかな」
彼女らしい質問だと思った。
「夕日が昇れば・・・朝日なの?」
夢中で考えた。彼女の為に。
答えなんて求めていなかったような気がする。今思うと。ぼくを困らせようとしただけ。ぼくの困った顔を見たかっただけのような気が。
永遠の問いかけ。それで良かったんだ。答えが出ないことで、ずっとこの先将来、一緒にいれたのではないか。彼女がいって、ぼくが首を傾げる。それで良かったんだ。無理に答えを出す必要はなかったんだ。きっと。
「こうして寝てみて・・・顔をあっちに向けると・・・」
ぼくはその場に寝そべりながらいった。彼女もぼくがいうままに、寝そべって顎を上げた。
「うわぁー」
見えた。昇る夕日。真っ赤に染まりゆく空の中をゆっくりと昇る夕日。
言葉は失われた。時間が止まったような空間。その中をゆっくりと、とてもゆっくりと夕日が昇っている。
「すごいねたっくん。あったまイイ」
寝そべりながら、こずえちゃんがいった。寝そべりながらもぼく達は、手を繋いでいた。決して離すことはない小さな手と手。決して途切れてはならない絆。ぼく達の赤い糸。
こずえちゃんがいなくなったのは、それからすぐのことだった。
雨の中、駆けまくったぼく。びしょ濡れになりながらも、こずえちゃんの待つあの河原へ向かって。
胸騒ぎ。
足は止めなかった。信号が点滅しても、自転車が前を阻もうとも。早く会って、この胸騒ぎを止めたかった。河原の近くに集まるヒトだかりが見えた。ぼくは少しだけそれが気になったが、スピードを緩めることなく、振り切るように駆け続けた。
(こずえちゃんが待っている)
かき分けた草の向こうに、いつものようにちょこんと座っている・・・はずだった。
「はあ、はあ・・・まだ来てないや」
気を鎮めようとして、自分にいった。
「何やってんだろ、遅いなあ」
ぼんやりと川を眺める・・・しかなかったぼく。
「急用かな?」
遠くで聞こえるサイレン。さっき見たヒトだかりだと思った。
「今日は、こないのかな」
ぼんやりと眺めていた川が、急に水かさが増すように歪みだした。
「いや、絶対にくるよ」手の甲で拭った。「だって忘れたことないもん。今まで」
確かに忘れたことはなかった。昨日までは。
「あっ、そうか。傘忘れたんだな。ドジだなあ」
今日は夕日が見えない。いつもは見える夕日。いつもとは違う日だった・・・今日に限っては。
少し俯いた。目を閉じた。大きく出来るだけ大きく深呼吸した。でもまだ、胸騒ぎは続いている。ぼくは胸に手を当て、服をギュっと力強く握った。それでも、紛らわすことはできなかった孤独感。
(あっ、傘だよ)
ぼくはその声につられるように顔を上げた。
(ほら、あそこ)
目も開けた。そして隣りにこずえちゃんがいることを感じた。
いつもと同じ、だと思った。
彼女は指をさした。
傘が流れているのが見えた。赤い傘だった。
胸騒ぎの理由。振り払うようにかぶりを振った。何度も、何度も。
彼女自身、こずえちゃん自体が幻だったんじゃないか。そう思うようになっていた。そう思った方が、楽になれるような気がしたから。彼女の存在。彼女への想い。彼女との思い出。ぼくが作り上げた彼女の幻影。すべてが、そのすべてが否定されていそうで、彼女とここにいたぼくの存在までもが消え去りそうで、ぼくはぶるぶると肩を震わせた。雨に打たれ体が冷えたわけではない。なんていうか、心が渇いていく感じ。
彼女といた時間。忘れようもない現実。
夢。実は夢だったんじゃないか。あんなかわいいコと友達になること。そして、仲良くなること。学校にはないぼくの居場所。それを勝手に作り上げていたぼくの存在意義。ぼくが生きているという実感。
ふたりだけの居場所。
手を繋ぐこと。それは親から受けていた愛情の代替え。
(たっくんのお嫁さんになれるかな)それはぼくの切なる願望。
答えを求めない理由。それは終わらないでほしいという欲求。
何もかもが、自分で作り上げた理想郷。自分で自分を慰めることに飽きたことへの知恵。
閉じていた目を開けた。夕日は今日も赤々とぼくを照らしている。いつもと変わらない大きな夕日。あの日にはなかった夕日。二度とその夕日は、昇ることはないと思った。
ぼくは右側をそっと見てみた。腰まである雑草が、ぼくの頬を優しく撫でていた。
2
乾いた音をたてて、英語の先生がチョークを滑らせている。俺は英語が苦手だった。窓際の席、ゆっくりと外を眺めていた。
窓の外は雨。
雨が降るたびに思い出していたあの日の出来事も、今では映画のワンシーンのように奇麗に繕われ、胸の引き出しの中にきちんとしまわれている。
久し振りだった。そのくらいぶりだった。忘れていたわけではない。ただ今になっては、現実だったのかという疑問に変わっていたし、徐々にだが考えなくなっていたのが正直なところだ。考えても考えても、いくら思い出しても辿りつかない過去なのだから。
俺は高校に通っている。高二。あれからかれこれ六年が経った。あっという間だった。小学校を卒業するくらいまで引きずっていた彼女への想い。中学に上がって必死で忘れようとした三年間。部活に熱中し、脇目も振らずに勉強もした。日に日に彼女が現れる頻度が減ってゆく事実が、時には淋しさをかりたてもしたが、いつまでも縛られてちゃダメだ、と自分を戒めた。
テレビでアイドルを観ている。そんな感覚にもなっていた。抽象的な方が楽だと、客観的な方がイイと。自分の心がそれを選択したから、自然と望んでいたんだと思う。
そうやって終止符を打とうと決めた。
高校に入ってから彼女ができた。顔は普通にかわいくて、なによりもペースが自分に合っていたから、今でもその彼女とは付き合っている。休みの日には映画を観に行ったり、遊園地に行ったりもした。今度は動物園に行こう、と誘われている。一緒にいて違和感はないので、もう一年になろうとしていた。
まだ手は繋いだことはない。
その子供っぽい彼女も、デートを重ねるたびに最近、何か積極的さを感じるようになっていた。この前の遊園地に行った時だって、彼女の方から腕を組んできたり、俺がアイスを食べた口のまわりをハンカチで拭いてくれたりと。付き合った当初は、目が合うたびに顔を紅らめ俯くことが多くて、自分の気持ちでさえも手紙で伝えるようなコだったのに。最近では髪の色を少し染め、化粧もうっすらだがしてきている。女友達の影響なのか、それとも大人の女への階段を少しずつ昇りだしたというのか。
俺はそんな彼女に最近、違和感を覚え始めていた。
「たっくん、わたしのこと好き?」
その呼び方だけはしないでほしい、といった。理由は子供臭い、からにした。
(たっくん)
胸の引き出しを開ける鍵。
(たっくんのお嫁さんになれるかな)
やっと整理ができた開けてはいけない引き出し。封印しなくてはいけないキーワード。涙腺が少し緩んだような感じを、ぐっと堪えた自分。
一応、返事はした。
うん、と答えた。
彼女は嬉しそうに俺に抱きつき、そして唇を寄せてきた。それが俺のファーストキスだった。奪われた感じはなかったが、喪失した感じは少しあった。初めてだったけど長く感じたキス。彼女はその柔らかな唇で気持ちを全力で伝えてきたのだった。
それだけは感じれた。
意外と冷静でいれた、している最中。でも、心の中に波風は立っていない。
それからの彼女は、より積極的になってきた。人間も動物だと感じさせた。好きになれば相手を求める。それは動物界に共通する本能というものなのだろう。
俺の部屋に初めてきた彼女は、突然服を脱ぎだした。恥ずかしそうに背を向ける彼女。止めはしなかった。日曜日の夕暮れ。カーテンは開けっ放しだった。真っ赤な夕日は彼女の影を、俺の部屋の壁に恥ずかしそうに投影していた。
童貞。
特に必要でないこと。特に大切にしておく必要のないこと。誰しもが通る道。奪われた感じはないが、喪失した感じにまたなった。でも特に惜しくはない。確かに気持ちは良かったが、お互いに初めてだったから、こんなものなのだろうと思っていた。
ベッドの中。彼女は俺の胸で眠っている。すうすうと。静かな寝息だ。安心しきった猫みたいだと思った。
天井を見た。いつもと変わらない自分の部屋の天井が、そこにはあった。初めてのSEX。変わったのは、その後の彼女の態度だけだった。その彼女とは二ヶ月後に分かれることになった。俺がふられる格好になったが、それでも別に構わなかった。人生にはこのようなことが何度かあるのだろう、くらいに解釈していた。
独りでは生きていけない。それは、わかっているつもりはしている。けど、無理に二人という関係を望んではいなかった。
高校在学中は、もう一人彼女ができた。高三の冬だった。胸の大きい彼女とは、すぐにそういう関係になった。でも、何度かSEXをするとその彼女は、俺の前から去っていったのだった。彼女もまた俺が初めてのヒトだった。
女という生き物は、一体何なんだろうか。成長の過程で経験しなくてはいけない行為を、誰かしらで済ましているだけではないのか。
そこには、愛はない。
「つきあってくれませんか」
「さみしいよ」
「あいたいよ、今すぐ」
「ねえ、わたしのこと好き?」
「ねえ、キスして」
「わたしのこと、愛してる?」
「帰りたくないよ」
「わたしのこと、愛してないの?」
「いってくれないと、わからないよ」
「ごめん」
「好きなヒトができたの」
「サヨナラ」
そこには、愛なんてない。
愛とは何か、ふと考えた。わからない。わかるはずもない。それこそ答えを求めてはいけない事なのではないか。
こずえちゃん。
ふとその名を思い出した。答えを出してしまった結末。彼女を失った理由。涙が溢れていた。何年ぶりだろうか、彼女を思い出して涙したのは。自分で引出しを開けたのだ。彼女のせいではない。整理などできてはいなかった。逃げていただけだと思った。目を逸らしていただけだと。
気がつくと、俺はあの河原にいた。あの日と同じ夕日が、あの日と同じように赤く燃えるように沈んでいく。思い出したのは、そのせいだった。
あの日と変わっていたことが二つあった。それは、ここから見えた四角い煙突が二本になっていたことと、隣りにこずえちゃんがいないという、その二つ。
今は冬。冷たい北風が、俺の右隣りから吹付けてくる。彼女がいない右側は、彼女がいないとやっぱり寒かった。
夕日が昇る。
思い出してはならないキーワードだったはず。無性にまたそれを見たくなってしまった。沈みかけた太陽。二度とここに足を運ぶことはないと、胸に刻んだはずだった。でも俺は衝動に負け、砂利に背をつけていた。仰向けのまましばらく空を見続けた。次第に赤く染まってゆく空。俺はゆっくりと顎をあげ、夕日の方に顔を向けた。
あの日と変わらない昇る夕日が、そこにはあった。
彼女を失った理由。その時はそんなことも忘れ、夕日が昇る様に没頭してしまった。
全身に電気が迸ったような刺激を感じた。その直後、俺は金縛りのように身動きが取れなくなっていた。顔は夕日の方に向いたままだ。
左腕に何かを感じた。人肌のような、温もりのような暖かさがぞわぞわと伝わってくる感じ。気配も感じる。でも恐怖感はない。何ていうか懐かしい感じといった方が適当か。心地がよくて金縛りのはずなのに、なぜか気持ちは穏やかだった。抵抗しようとは思わない、逆にそれに身を任せるくらいに心を許している自分がいる。
目を閉じた。そして全神経を左半身に集中させた。
温もりは徐々に俺の胸を摩り、首元へと移ってきている。優しくそれも撫でるように。ゆっくりとじわじわと、首を絞めあげるように。
(こ、こずえちゃんのところへ・・・)
行ってもいいと思った。このまま・・・一緒に。俺はそのまま、力を抜いた。
あの時のこずえちゃんの吐息も、あの時感じたこずえちゃんの温もりも、優しさも、隣りから漂ってきたこずえちゃんの香りさえも。すべてが今、甦ってきたのだ。
(生きている)
死んではいない、と思った。
(誰が死んだといった)
あの雨の日のことを思い出していた。
(どしゃぶりの雨だった)
嫌な予感はしていた。
(胸騒ぎ)
理由はわからなかった。
(近くにいたヒトだかり)
顔を伏せて駆け抜けた。
(草をかき分けた)
こずえちゃんが待っていると思った。
(でも、来なかった)
遠くで鳴いているサイレン。川を流れる赤い傘。
(勘違いだった)
死んだと思っていた。事故だと、勝手に。確認はしていない、何故か。
(傘が流れていたから?)
怖かったから。
(臆病者っ)
自分を叱責した。
本当に失うのが怖かったから。しかし、現実にあの日からこずえちゃんとは会っていない。これは失ったことにならないのか。現実から目を逸らし、事実から逃げていた。事故のせいにし虚実を作り出す理由が、他にあったのではないか。
必死で思い出そうとした。
(たっくんのお嫁さんになれるかな)
何度思い返しても、それしか出てこない。
(たっくんのお嫁さんになれるかな)
それしかないのか・・・俺には。彼女を肯定できる言葉は。
気がつくと金縛りは解けていた。
(こずえちゃん・・・)
眉間に残る頭痛の余韻。まるで瞬間的にタイムスリップでもしたような、地に足がついていない感覚が残っていた。
悔しくて、涙が出ていた。
冬の雨。
その冷たくて凍えそうな雨は、あの日のように俺の身体を濡らしていた。




