喪失
【喪失】
1
結局あの日以来、コズエからの連絡はない。俺は部屋の隅でぶるぶると肩を震わせていた。
孤独。
しばらく感じなかった、元々の俺の居場所。
「どうして?」とは考えなくなっていた。三日目にして。
ヒトの感情とはその程度のものなのか。
(そこに愛はない)
学生時代に味わった空虚な感じ。結局コズエも同じだったということか。コズエも同じ女。簡単にいえば飽きられたということだ。
「人間だもの」
結局そこに辿りつく。変哲のない答え。答えはおのずと出る。出そうとしなくても。
宿命。持って生まれたもの。俺はそういうことを繰り返しながら、生きていくんだろうな、と思った。
(愛ではない)
愛って何なんだ。俺はコズエを愛していた・・・はずだ。一方的な愛、だったというのか。
「あの笑顔が偽り。あの笑顔が」
ごみ箱に入っている携帯電話。拾う気力はない。一週間経っても携帯は、俺を呼ぶことはなかった。
深夜。ふとTVをつけた。逃避できる友達。暗闇に浮かびあがった。音は小さくてよく聞こえない。うまそうなハンバーグとエビフライ、そして俺の大好物のコーンポタージュが湯気をひらひらと舞いあがらせ、俺を手招きしているようなファミレスのCMが流れていた。
「コズエと前に行ったな。ここ」唾が吹きだすのを感じた。
新型機種の携帯電話。
「俺たちのと同じやつだな」ごみ箱のなかにある今では決して新型と呼べない携帯。
黒いワンピースを着たモデルが挑発する視線を送る。
「コズエも黒、似合ってたよな」俺の脳裏に焼き付いている後ろ姿。
高そうに煌めく貴金属。
「何も買ってやれなかったな」拳を作った。
二人でよく聞いたラブソングを思い出した。
「何も、何もしてやれなかった」俯き、膝を叩いた。
画面はもう見えていない。溢れだした涙が視界を歪ませた。
「今までの女とは違うんだ」敢えて引いた一線。
「愛していたんだ」相思相愛だと思っていた。
まだ肩は小刻みに震えている。
「結局、ヒトは独りなんだ」
結局はそうだった。結果がいつもそうだった。二人の時に精一杯に表現した自己。相手にではなかった。あくまで自分に対してだった。
「生きている証」
他人に見せる必要はない。どんなに想っても、どんなに焦がれても、どんなにコズエのことを求めていたにせよ。どれほどこずえちゃんを忘れられなくても、結局はエゴだった。独りよがり。誰も自分を認めてくれないことへのストレス。
「俺は不器用だ」
俺は下手だった。何もかもが。知っているはずだった。今さら落ち込む必要はない。今さら自覚することでもない。
それを忘れさせてくれた存在、それがコズエだった。そんなこと、どうでもよくさせてくれたのが、コズエの存在だった。結局は引きずっていたのだ。結局はコズエという存在を必要とする心になっていたのだ。孤独に耐えることのできない心に。
「俺は・・・弱い」
TVの明かりに視線を戻した。不思議と涙は出ていなかった。
ニュースを映していた。音は依然と小さいままで、よく聞こえない。七三分けのキャスターが渋い表情で、何かを読み上げていた。
「・・・?」
見覚えのある河原。俺は無意識にリモコンを拾い、ボリュームを上げていた。どこにでもあるような河原が何気なく映っているが、俺にはそれだけで充分すぎるくらいの映像だった。
「草・・・」
どこにでも生えていそうな、腰くらいまである雑草。
どこにでも転がっている、ゴツゴツした石コロ。
そこに横たわるきちんと畳まれた赤い傘が、目に入った。
「やっぱり、あそこだ」
確信した。あの日の河原。こずえちゃんがいなくなった河原。画面は一人の女性の写真に切り替わった。
「コ・・・コズエ」
瞳孔が開くのを感じずにはいられなかった。画面から目を逸らしていた。丸一週間連絡が来なかったコズエが、TVの画面に大きく映し出されている。冷静になろうと息を深く吸った。そして俺はゆっくりと視線を戻した。
キャスターは彼女のことを、コズエ、と呼んだ。ダメを押されたような衝撃が俺の脳を震わせた。
「またか」俺の大切なヒトが・・・。「またなのか」消え去っていく。
TVを消した。黒闇が一気に俺の部屋を支配した。
ふっ、とまた鼻で笑った。笑っていた。可笑しかったから。可笑しくて堪らなかったから。
(何が?)
自分の人生が。あまりにも滑稽に思えてならなかったから。
数日後、警察が俺の家にやってきた。俺は両腕を抱えられるようにして連れ出されたのだった。
2
「俺はやってない」
コズエは殺されたそうだ。警官がそういっていた。
首を絞められ、彼女の部屋で。
「えっ?彼女の・・・コズエの部屋で?」
必死で巻き戻した記憶。薄っぺらい記憶のテープが絡まっているようだった。それを丁寧に一本、一本傷付けることのないように解いていく。ヴェールに包まれている謎。どうしても思い出せない記憶の欠片が、どこかに隠れているというのか。
「この手で、この手でコズエを・・・俺が」
猜疑心。自分に対して抱いていた感情。まったく身に覚えがない、まるで別のオレがいるようだった。
(別のオレ?)
「いや、俺の中のオレ」
(そのオレも俺。本当のオレ)
「俺の知らないオレ・・・」
頭を掻き毟った。血が出そうなほどわさわさと。警官に止められた。
事情聴取。TVで見たことがあった狭くて殺風景な部屋。一見処刑場かと思わせるほどの殺気が満ちた部屋。
二対一。
俺を犯人だと思いこんでいる男が二人。一人は激しく机を叩き俺を責め続け、もう一人は哀れみの眼差しを向けていた。
やっていない俺、一人。首を傾け、机の端を見つめていた。
胸ぐらを掴まれた。暴力。そうは思わなかった。警官だって人間だもの。質問に答えない俺にイラついての行動だから。
俺は結局、一言も喋らなかった。いや、喋らないのではない、喋ることがないのだ。だから喋らない。いくら強く証言を強要されても、何も話すことがないのだから仕方がない。
「だって俺は、やっていないのだから」
じゃそういえばいい。でも信じるはずがない、疑っているこの二人は。いくら俺が正当な釈明をしても信じるはずがない。なら余計なことはいわない方がいい。
夜。個室に移された。飯が出てきた。粗末な飯だが一応喰った。身体に害のなさそうな薄味だった。
「生きている証」
どうしても罪悪感を持てない俺。一晩中考えた。小窓の外、今晩は異様に月が奇麗に見えた。心が澄んでいるからだと思った。
「犯人は、俺ではないのか」
どうかしている。普通自分のことをこの様な角度で疑うことなんてあるのだろうか。殺したのか、殺していないのか。自分にしかわからないはずなのに。
容疑者。実態はどうであれ、響きは嫌いでなかった。が、俺じゃない。
二日目も同じだった。三日目も、四日目も。イタチごっこをしているかのようだった。
「埒が明かない」
そういったら殴られた。でも暴力だとは思わなかった。
結局俺は釈放された。証拠不十分。警察が用意した状況証拠は100%俺が犯人だと示していた。しかし所詮は、状況証拠でしかないのだ。警察側は立件できなかった。
悔しがっていた警官二人。
「そりゃそうだ、俺はやっていないのだから」
家に帰った俺はしばらく放心状態に落ちていた。抜け殻。まさにその言葉が当てはまっている様子。容疑者にさせられたことよりも、やはりコズエを失ったショックの方が遥かに大きい。釈放されてからコズエを失った実感が湧いてきたのだった。
実家に帰ろうと思った。珍しく。帰って何をしようとは考えていない。
親孝行。
何するものでもない。ただ顔を見せるだけ、容疑者までになり果てた息子の顔を。とりわけいうつもりはないが多分、人相が悪くなっているかもしれない。気付かれるかもしれないと思ったが、それならそれでも別にいいと思った。
荷物を纏めすぐに出発していた。一人暮らしの父親の元へ。
電車に揺られ、ぼんやりしていた。窓ガラスに映る自分の顔。久し振りに見た気がした。
「確かに変わったな」
つまらない顔だった。見苦しいので視線を遠くの景色へ伸ばした。流れてゆく景色。俺の意思とは無関係に、どんどんと目的地に向かっている。
間違って思わぬ場所に到着しても、そこで降りたらいいと思っていた。ヒトの人生も多分、行き先は知らぬ間に決められているのだ。ヒトと出逢い、ヒトと別れ、その度に一喜一憂する。それが人間であり、それが人生。予め敷かれたレールの上を目を瞑ったままのヒトビトが誰かしらに背中を押され、生き続けてゆく。それが嫌いなヒトだろうが、俺が愛したヒトだろうが関係ないのだ。ヒトは一生、ヒトに翻弄されながら生きなければいけない。
今この電車が突然脱線し、不慮の事故で俺は命を落すかもしれない。それもまた人生。決して抗うことなどできない決められたストーリー。
ヒトはそのストーリーを間抜けな顔して歩いてゆく。他人からは気丈に見えるように、服装も身なりもいつでもきちんとしている人間たち。しかし、その正体はみな同じだ。全裸でSEXをしている人間の後ろ姿は、そこら辺のイヌやネコと何ら変わりはない。ただ言葉を話し、道具を使い、他人を差別し、欲求を掃ける。八十年という短い人生を我がままに生き抜くために、ヒトを利用し傷つけあう。
どんな億万長者でも、どんなに貧しいヒトでも、死ねばヒトは同じ土に還るのだ。他人の心に残るのもせいぜい十数年。太陽の年齢に比べればほんの一瞬のできごと。
こずえちゃんとコズエ。俺が作りだした幻なのではないか。そもそも二人は実在したのか。頬を抓った。夢じゃない今。溜息が小さく洩れた
「何故俺は生きている」
俺が死ねばよかったんじゃないか。こずえちゃんではなく俺が。コズエではなく俺が。その方が一番苦しまないので済んだのではないか。
けどもう遅い。俺は背負ってしまったのだ、二つの十字架を。こずえちゃんとコズエの何よりも重い十字架を。
視線は遠くにある。心の色。漆黒の海が拡がっていた。
3
親父はニコニコして迎えてくれた。何年ぶりだろうか、指を折ろうとしたがやめた。
知らない女性がいた。一緒に暮らしているようだ。親父だって男だもん、当然だと思った。まだ籍は入れていないらしいが、そのうち俺の母親にでもなるのだろう。俺に気を遣う将来の母親は、せっせと夕食の支度を始めた。
親父はまだ、ニコニコしている。
食卓についた。テーブルに並ぶ料理を口に運んだ。
おいしい、といってあげた。味のしない料理だった。どれもこれも。臭いさえもしない。無味無臭な空間の中にいるようだった。親父と将来の母親は、俺の方を見て楽しそうにその無味な料理を美味そうに食べている。
ビールを勧められた。溢れだす泡を吸った。やはり味はしなかった。冷たいはずのビールが温かった。湯気が立っている料理を親父は、熱そうにふうふうして食べている。
話すことは別にない。ただ顔を見せてやりたかっただけ。あの頃に感情をも置いてきてしまったような、無の空間に包まれていた。
いろいろと質問してくる将来の母親。俺は誠実に答えた。端的に。
「たっくん。もっと食べてもいいのよ。遠慮しないで・・・」
将来の母親は、たっくんと呼んだ。頷きはしたが返事はしなかった。
「俺はもう・・・たっくんではない」心の中で否定した。
深夜。疲れていたので早めに布団に潜った。懐かしい臭いがした。ホコリの臭い。子供の時の物だ。足が出るので丸くなって寝た。
「コズエ」
布団の中の闇に浮かんだあの笑顔。遠くにきても何処にいても、やはり思い出してしまう。実家だから尚更か。実家だったらこずえちゃんの方を思い出してもよさそうなものだが。
複雑な心境。
誰が殺したのか。俺を立件できなかった警察は唇を噛んでいた。日本の警察は優秀だというから、そのうち犯人は捕まるのだろう。考えるほどに謎は深まっていく一方だった。
頭が冴えている感じがした。寝返りをまた打った。何度目だろうか、睡魔はまったくおとずれない。水を飲もうと台所に向かった。夜も更けているので階段をそおーと降りた。戸棚の中に懐かしいコップを見つけた。俺はそれを静かに取出し、蛇口を捻った。一気に飲みこんだ水は食道を通り、すうっと胃に納まった。美味い水だったが皮肉なものだ、とも思った。水が一番美味く感じるなんて。冷蔵庫を開いてみた。几帳面に配置された食材。昔もこれ同じような映像を見たような気がした。一番上の棚にあった魚肉ソーセージを一本取り、袋を開けた。これも子供の頃よく食べたことを思い出した。
寝室に戻る途中、階段の脇の部屋から明かりが漏れているのに気が付いた。そこは親父の寝室だった。何やら中から、ぺしっ、ぱしっという音が聞こえている。誘われるように俺はその隙間から中の様子を覗いていた。
「こら、わかったのか。返事は、返事をしろ」
振り降ろす手のひら。振り上げる手の甲。隙間から見える将来の母親の頬は、真っ赤に腫れあがっていた。二階にいる俺に聞かれないように気を遣っているのか、声を必死に殺すその表情が痛々しく見えた。止まらない親父のビンタ。頬を流れる涙が飛び散っていた。
「ホントにお前はどうしようもねえな・・・」
今度は足蹴にした。頭を抱え蹲る将来の母親。
DV。
暴力で支配する愛情の形。
殴ったかと思えば、肩を優しく抱き囁きかける親父。
「だからいつもいってるだろ。お前はいい女なんだから、もう少しだけ頑張ればいいんだよ。愛しているよ。だから頑張ろうな」
歪んだ愛の形。慰めたばかりの親父はまた、豹変したように殴りかかる。痣だらけの背中から俺は目を逸らそうとした。その瞬間、
「???」
脳裏を過ぎった微かな記憶。俺はその記憶の端を親指と人差し指で摘まみ、恐る恐る引っ張った。
ごとっ。突然甦った鬼の形相。目を逸らすことが許されないほどの恐怖。俺は尻もちをつき、背後の壁に頭を打ってしまった。幼いころに受けた暴力を思い出してしまった。
「俺も受けていたのか・・・DVを」
襖が大きく開けられた。隙間から洩れていた僅かな光が、俺に向かって飛びかかってくるように拡がった。
「タクヤか」
そこには親父が立っていた。低く地を這うような声で俺の名を呼んだ。
「何してんだ、ここで?」
俺は腰を抜かしていた。それでも夢中で階段の方まで這っていった。怖かった。心臓が口から飛び出しそうなほど、ビビった。
「タクヤ」
冷静で落ち着いた声が、背後から聞こえた。親父の足音が近づいてくる。
「見たのか?」
首筋に寒気が走った。動けない。
「見てないよな、何も」
小さく、本当に小さく頷いて見せた。
「そうか、そうだよな。覗くなんて趣味が悪いからな。そんなこと息子がするわけないよな」
親父の圧力を感じている背中は、汗でぐっちょりと濡れていた。
「見るなよ。恥ずかしいからよ。親の部屋、覗くなんて最低だぞ」といった親父は、俺の肩をドスンと叩き、寝室へと戻っていった。
寝付けなかった理由。なんとなくわかった気がした。この家には、帰ってきてはいけなかったのだ。ここも俺の居場所ではなかったのだ。
部屋に戻り、頭から布団に潜った。何も聞こえない。耳を塞いでいたから。それでも耳に残っていた親父の声。帰った時のあの笑顔は何だったのか。それを思うと余計に恐怖にかられてしまった。
布団を少しだけ捲った。ひんやりとした空気が頬を触った。
窓からは月が見えるた。その月明かりさえも不気味に俺を見つめているようだった。
4
翌朝。親父はすでに仕事にでかけていた。何か、ホッとした。親父に顔を見せに来たはずなのに、親父がいなくて安心するなんて。
将来の母親は今朝も俺に気を遣い、頬は少し腫れてはいるがニコニコと笑顔を見せてくれている。俺が昨夜、覗いていたことを知っているはずなのに。
「あのお、ひとつだけ・・・いいですか」
箸を止め、顔を向けていった。笑みを浮かべる口元と対照的に俺に向けられた眼差しは、悲しみを隠せないでいた。
「一緒になるつもりですか。親父と」
将来の母親も箸を止めた。そして一瞬遠くを見るような仕草をした後、唇を噛みしめた。
「あのヒトしかいないのよ。私には・・・結局」と薄く笑みを浮かべた。
結局ヒトはそういう生き物なのだ。結局ヒトは独りでは生きられない。多少の困難も、愛という言葉で塗り固めてしまう。
「俺と一緒だ」
昔は独りでもいいと思った。だけどコズエと付き合っていくうちに、二人という関係が必然となっていた。コズエを求め、俺を肯定していた。多少の困難も、コズエへの愛で塗り固めていたのだ。
「親父を・・・よろしくお願いします。不器用ですが」
いろんな意味、いろんな想い、そしてそれぞれの過去が凝縮された言葉だった。将来の母親がどこまで理解するかは考えなかった。きっと時間がそれをわからせてくれるだろうし、当人同士の問題だから。他人に限りなく近い息子が口を挟む必要はない。
朝食を採った俺は、将来の母親に会釈をして実家を後にした。とぼとぼと歩いた。曲がり角で振り返り、忌わしい記憶の残るあの家を眺めていた。ここも二度と戻ることはない、と心に刻み、拳を強く握った。
歪んだ愛。
それも愛。
俺にトラウマがあったなんて。
愛って何なんだろうか。答えを出そうと思ってはいない。けど、いつもぶつかる疑問ではあった。
愛の形。死ぬことによって、永遠に自分のものだと思ってしまう錯覚。肉体は滅びても自分の心の中で生き続ける魂。
帰りの列車。行き先を決めないで乗り込んだ。多分南へ向かっていると思った。
「帰るのか」
自然と向かっていた。あの河原のある町へ。意識しなくても足が勝手に向いてしまうのか。
「行ってみるか、もう一度だけ」
電車の揺れは、精神を落ち付かせてくれた。雑多な臭いに包まれる中、眠気が俺の手を牽いた。
「昨夜は、一睡もしてないからな」
瞼が重く感じた。ガラスに少し寄りかかった。肩から息を抜いた。
いろいろな出来事があり過ぎる最近の俺の毎日。ゆっくりと寝た覚えはなかった。電車の揺れは俺をそこへ甘く、優しく誘ってくれている。身を任せた。終点で起きればいいとそう思い、俺は瞼を降ろした。
晴天の空。ひとつの黒雲が太陽を遮ろうとしていた。




