告白
【告白】
1
コズエの家の前に立っていた。肩から掛けていたバッグを降ろし、全身を脱力させて見上げた。甦る想い出。取り戻せない生活感。今では立ち入ることのできないあの部屋を、俺は今でも自由に想像できた。
ドアを開けると、笑顔で迎えてくれたコズエ。
今日あったことを、楽しそうに教えてくれたコズエ。
飯を食べている俺の顔をニコニコと覗くコズエ。
俺の右腕をいつも掴みながら、TVを観ていたコズエ。
ベッドの中で、照れながらキスをしてくれたコズエ。
涙を堪えた。
「もう涙はいらない」
コズエはいつも俺の為にしてくれた。
「俺は・・・どうだったのか」
ちゃんと優しくしていたのか。
コズエの気持ちに応えていたのか。
守れていたのか。
甘えてばかりいたんじゃないのか。
俺は・・・コズエを愛せていたのか。
ダメだった。感情を殺すことはできない。溢れる涙は感情の代名詞。
(何故、泣く?)
「感動したから?嬉しいから?悲しいから?」
(淋しいから)
結局ヒトは自分の感情で泣くのだ。そこに他人が関係しようが、していまいが、自分が感銘を受けたから涙を流す。心が震えたのだ。だから、潤そうとする。涙は信じていなかったはずだった。いつからこんなに涙もろくなったのか。
「歳、とったな」
転校していった時には流れなかった涙。自分ではどうしようもできない事実だから、抗うことのできないことだから、心が震えなかったのか。
電話が来て、いつものところで、といわれた。こずえちゃんの声を聞いた瞬間すでに涙は流れていた。胸の辺りがざわざわしていた。「心が震えている」小五の淡い思い出だ。
会えるという現実。絶望からの脱却。目の前に差し込んだ希望という光。そのすべてが自分の感情だ。こずえちゃんが、どうこうじゃなくて、こずえちゃんと、どうこうなのだ。青春の1ページを共有した相手。それがこずえちゃん。俺に愛を教えてくれたのが、コズエ。その先に一体何があるというのか。ヒトは何のために生きていく。命に限りがあることを知っているのに、大半のヒトは前向きに生きていこうとする。
大きな夕日、赤くて暖かい。引き寄せられるように、俺はここにいた。
河原。
腰まである雑草。隠れるように腰を降ろした、あの日と同じように。
吹き抜ける風。心地がいい。目を閉じた。目を閉じると、あの日と何も変わっていないと感じた。
俺の中の、あの日。
こずえちゃんが・・・いなくなった日。
川の向こう岸では子供が二人で遊んでいる。男の子と女の子。男の子は青い短パンに白いランニングシャツ。胸のところが泥で汚れている。川面に向かって石を投げ、女の子に自慢をしているようだ。髪の長い女の子は、それを見て嬉しそうに手を叩いていた。幸せそうな二人。夕日が眩しくて表情までは見えないが。
二人の後ろに聳え立った黒い影。
影は突然、女の子の腕をとった。抵抗する女の子。その時、赤いリボンのついた麦わら帽子が風で飛ばされた。コロコロ、コロコロと転がるように飛ばされる麦わら帽子。俺はそれを目で追った。
髪の長い女の子は、帽子を追うように手を伸ばしている。だが、黒くて大きい影は彼女の腕をしっかりと掴み、離そうとはしない。
男の子は女の子のもう片方の腕を握り、彼女を懸命に助けようとしている。何かをいい争っている黒い影と男の子。でも声は聞こえない。
男の子は突然、顔面を蹴られた。
ゾクっ。背筋に寒気が走った俺。
黒くて大きな影は、女の子のことも忘れ男の子に夢中で殴りかかっている。
「やめろっ」
叫んだ。向こう岸から。助けなきゃと思い、立ち上がっていた。
逃げる暇を与えないほどの殴打。黒い影の手が少しだけ止まりかけた、その時、男の子はその一瞬の隙を窺い、逃げるように背を向けた。
「アブナイっ」
黒い影は、何かを男の子に向け振り降ろした。振り降ろされたそれは真っ赤な夕日を妖しく反射させ、俺の瞼を降ろさせた。
刃物。そう見えた。眩んだ残像がまだ残っているが、俺は大きく瞼を持ち上げ、黒い影の右手を凝視した。ナイフだった。その先からはぽたぽたと血が滴り落ちている。
「ギャーーー」
のたうちまわる男の子。白いランニングシャツがみるみるうちに紅く染まっていく。
「助けなきゃ」
足が動かない。
「行かなきゃ・・・」
一歩が踏み出せない俺。足を見降ろした。二本の足はガタガタと大きく震えていた。
2
「やめろよっ」男の子の声。
目が覚めた。自分の布団の中だった。聞き覚えのある声だった。
「夢・・・か」
夢にしては、リアルすぎる夢。両足に脱力感が残っている。起き上がろうとは思わなかった。身体にダルさを感じていたから。
「あのコたちは誰だったんだろうか」
気になった。無性に。あの後の結末。男の子はどうなったのか、それと女の子は連れて行かれたのだろうか。目を閉じると、もう一度観れるかもしれないと思った。が、しなかった。あの黒い影も一緒に思い出してしまうから。あの影からは自然と避けているようだった。
男の子を蹴飛ばす後ろ姿。
ゾクっ。
刃物を振り降ろした後の鬼のような目。
ゾクゾクっ。
全身がまた震えだした。
「オ、オヤジ・・・だ」
俺のトラウマ。掘り起こしてしまった記憶。自分にそんな過去があったなんて、知らなかった。だから帰った実家。知っていたら多分、帰ることはなかっただろう。
将来の母親をDVしていた後ろ姿。同じだった。あの夜とあの夢が。
震えは止まらない。肩を抱いた。止めようと自分で自分を、強く絞めつけるように。それでも止まらない震え。無理なんだ。「だって俺は独りぼっちだから」
背中が疼いた。
「あの男の子は・・・俺だっていうのか」
背中が疼く。痛いほどに。左手で右肩を押さえた。
「ギャーーー」
男の子の悲鳴。この世のものと思えないほどの叫び。
耳を塞いだ。
「見たのか?」
親父の声。確かに聞こえた。両手に力を込めた。耳を掴みように。目もギュっと瞑った。闇で覆い隠してしまいたかった。
「見るなよ」
「は、はい」
まだ背中は疼いている。右肩の辺りから左わき腹あたりにかけて、肉が引き裂かれるように痛み。
白いランニングシャツ。背中が裂かれ、紅く染まった男の子のシャツ。
「俺のだ」
着ていたシャツを脱ぎ捨て、鏡に背を向けた。
「コズエ・・・」
躊躇いながらも俺は、鏡に映った背中の傷を見た。紅い月。
「あ、あったここにも・・・」
「俺、コズエの瞳好きなんだ」
「どうして?」ゆっくりとテーブルに肘をついた。
「月が浮かんでる」
「つき?」目を見開き、首を傾けた。
「うん。あかい月だよ。吸いこまれそうになるんだ」
「やだ、恥ずかしいよ」頬を赤く染めた。
「コズエ・・・」
「やだってば」彼女を抱き寄せた。
「俺の・・・目を見てよ」
「・・・」潤んだ瞳。
「欲しいよ」
「・・・私も」吐息を感じた。
「愛してるよ」
「・・・私も」紅い月が揺れていた。
コズエにもあった、月。自然と惹かれあった二人。それこそが運命。俺のすべてだった。
宿命を背負った体。いや、心。背中の傷は心の傷。女の子を助けようとしなかった俺の恥。逃げようとした臆病な気持ち。だから刻まれた深く、紅く。
確かめたい。でも無理だと思った。相手は親父だ。怖い。会いたくはない。
女の子の正体。あの夢が、夢に思えなくなってきた。現実のように思えてきた、根拠はないが。親父なら知っているのではないか、あのコのことも、あの夢の是非も。
「親父がつれていこうとしていた女の子」
触れてはいけない過去だ。これも多分。でも俺はまたそれを知ろうとしている。
「どうして・・・親父が」
止めることのできない衝動。
「家族?」
親父と俺と・・・。混乱し始める脳内を説得するように整理していく。
「・・・だとすると」
知らされていない過去に触れた気がした。消された過去、といった方が適当か。
「きょうだい?俺にきょうだいがいたっていうのか」
自分のことのはずなのに、やけに他人行儀に感じられた。
「だから、親父が」
腑に落ちた。違和感なく。輪郭はまだぼやけているが、今の俺の胸中は穏やかなものだった。意外と冷静になれていた。客観的になっていた。
「聞いてないよ。そんなこと」
カーテンを少し捲った。遠くで雲が流れている。
「生き別れか。いつのことだ、妹?いや姉か」
次々と溢れだす疑問。知っているのが当然のはずなのに、知らないことばかりだった。
「記憶喪失みたいだな」
ふとそう思ったが、そんなわけがないと床を蹴った。
窓の外。木の葉がひらひらと舞っている。俺の心の中にも少しずつ木の葉が積もっていくような、そんな静寂に包まれていた。
3
数日後、家に警察がやってきた。
俺じゃない、といった。警官は首を振った。殺風景な部屋。
「まただ」
事情聴取。
「何故?」
警官は訊ねてきた。実家に帰ったか、と。
無言で頷いた。
「親父」
なんとなく感付いた。
将来の母親が殺されたそうだ。全身が痣だらけだったと警官はいった。
知っている、と思った。まだ口に出してはいない。迷っている自分がいる。
実家に帰って何か見たか、と訊かれた。
思い出せない、と答えた。
そんなわけないだろう、と机を叩く警官。この前と同じだと思った。それからの俺は頑なに口を閉ざした。別に親父を守ろうと思ったわけではない。そこに特別な理由も義理もないが、ただ様子を見ようと思ったのだ。親父がこれからどうなっていくのか。どのように落ちていくのか。俺を殴った親父が、将来の母親を殺したであろう親父が、俺から家族を奪っていった親父が。
警官が気になることを漏らした。
「そんなわけないだろう、おまえの母親だって・・・」
もう一人の警官が、それを止めた。
「俺の・・・母親?」
そういえば忘れていた。俺にも母親がいたことを。その時はあえて訊こうとは思わなかったが、今無性に気になってきた。
事情聴取は終わった。俺は警官の片方に案内され、警察署を後にしようとしていた。
「今ならまだ」
案内してくれた警官を呼びとめた。
「親父は今どこに」
裏腹な質問。母親のことではなく親父のことを訊いていた。心配しているというのか、親父のことを。
拘置所、とだけをいい捨てて警官は立ち去っていった。
今もなお降り積もる木の葉。確かめなければいけない真実。果たしてそうなのか。触れてはいけないのではないか、答えを出してはいけないのでは。
答えを出そうとする度に、誰かが俺の前からいなくなっていく。親父にもう一度だけ会って、確かめようとしていた矢先だった。勇気を振り絞り、河原にいた女の子が誰だったのか、訊く前に親父は逮捕されてしまった。
将来の母親。血は繋がっていないが、俺の母親になる予定だったヒト。俺が飢えていた愛の形のひとつだった。親父が殺したのだろう、多分。いや間違いなく。けど、警察にいわなかった。親父がDVしていたことは教えなかった。
「何故?」
怖かったから。いや、関わりたくなかったからか。そんなもんじゃない、気がした。そんな単純な理由では。
拘置所。
会いにいこうと思った。会って確かめようと。けど、なんか虚しかった。唯一の家族と呼べる存在が、血の繋がったヒトが、今被疑者だなんて。
こずえちゃん。
コズエ。
将来の母親。
親父。
大切なヒト達。親父がその中に入っていた。一応、家族だからか。
俺は死ぬまで独りになってしまった。大切なヒト達は次々と俺との関係を断っていく。それこそ、俺にはどうしようもできない、抗いようがない現実。そういう運命。そういう人生。悲しさはない。何ていうか、こういうもんだと思うようにしているから。
「どうせ、死ぬ時は独りだ」
冷めた感情。あの時感じた爆発しそうな感情はもう起きないだろう。コズエが亡くなった後、その感情は閉じ込めてしまったから。
迷っている自分がいる。親父に会うことを迷っている。親父を親父と呼ぶ自分。親父を親父と認めている自分。けど、素直になれない自分の方が今は強い。
(会って何を訊く)
「女の子のこと」
(知らないっていわれたら)
「知らないわけがないよ。だって間違いなく彼女の腕を掴んでいた」
(見たの?それを)
「見たよ。確かに」
(夢じゃなかった?)
「夢じゃないはず」
(紅い月は?)
「関係無いだろ。今は」
(見えなかった?)
「何を」
(紅い月を)
「どこで」
(あの河原で)
「見るはずないじゃないか」
(いや、見ているはずだよ)
「コズエがいるはずないよ」
(コズエはいないよ)
「当たり前だ」
(一緒に誰がいた?)
「赤いリボンの・・・麦わら帽子の女の子」
(そのコは誰?)
「知らないよ。それを確かめようと、これから親父に・・・」
(行かなくても、いいんじゃない)
「訊いて確かめないと、親父に・・・」
(見ていたよね)
「だから、コズエはいないって、あそこには」
(いたはずだよ。あの時、あの河原に)
「コズエじゃない、とすると麦わら帽子の女の子は、河原にいた女の子は・・・こずえちゃん」
息を呑んだ。
「んなわけないだろ。こずえちゃんなわけないよ」
(見てるでしょ証拠を)
「わからないよ」
(見ているはずだよ・・・紅い月を)
大きくてまん丸な彼女の瞳。黒眼が大きいから特に目立って見える。そこにあったというのか、俺は見ていたのか、彼女の瞳に浮かんだ紅い月を。
かぶりを振った。振り払った。
(思い出したでしょ)
「入ってくるな・・・もうほっといてくれ」
独りきりの部屋に独り言が響いていた。
4
拘置所の受付。事務的に書類を書かされて、待合室のイスに腰を降ろした。鼓動が他人に聞こえてしまいそうなくらい、ドキドキしている。胸の辺りの服を掴んだ。
「落ちつけ」眉間に皺を数本寄せた。
受付の小窓から女性の声がして、廊下の奥に通された。基本的に灰色の壁や天井は、この前に連れて行かれた取り調べ室を連想させた。コツコツという単調な前を先導する男性の皮靴の音が響いている。
「親父・・・」
憎しみすら忘れていた。ただ今は自分の過去を探し出すことしか、俺の頭の中にはない。暴力を振るう親父も、鬼のような眼差しの親父も、ドスのきいた声の親父も、今の俺には関係のない話だった。
高鳴る鼓動。そっきよりも強くなったような気がしてならない。長く続く廊下をどこまで行くのか、気が遠くなりそうなほど、過呼吸でくらっとしてしまいそうなほどピークに達した緊張感が俺を支配していた。膝がガクガクしながらも、一歩一歩面会室へと足を動かし続けた。
親父はまだ来ていない。中央にあるパイプイスをひき、ゆっくりと座った。TVで見たことのある穴の開いた透明な仕切り。この向こう側にこれから親父がやって来るのだろう。
目を合わせることができるのか。怯えてはいないが自信はなかった。訊くことはひとつ。それ以外に用事はない。だから余計なことは訊くまい、と奥歯を噛みしめた。
この部屋は時間が止まっている。空気が澱んでいる感じ。この仕切りは世俗とを隔てている分厚い壁。ここからそっちは別次元なのだ。特別な部屋。そこに親父はこれから連れられてくる。
「追及はしない」
拳に力を入れた。手のひらが汗ばんでいた。
ドアの開く音が聞こえた。俺はゆっくりと視線を上げた。
「お、親父」
親父が来た。俯きながら俺の方へと歩いてくる。一歩一歩近づく度に、俺の鼓動も強く脈打つのを感じた。親父はまだ、こっちを見ない。足取りは重い。パイプイスの前で立ち止まった。警官らしき制服を着た男性の刑務官がイスをひいた。親父は導かれるままに腰を降ろした。浅い溜息。少しだが肩を落としたような仕草をした。
時間だけが淡々と過ぎていく。空気が滞った部屋。持ち時間は三十分。もうすでに十分は過ぎただろうか。
「・・・何しに来た」
掠れた声。あの夜の背筋に寒気が走ったものではなかった。
「笑いに来たのか」
まだこっちを見ない。
「時間、終わっちまうぞ」
肩は下がり、猫背の親父。白いものが混じった髭も生えている。
「ひとつだけ・・・」
「なんだ」
「河原・・・わかる?」
「・・・わからん」
「子供の時の」
僅かに首を傾けたように見えた。ほんの僅かに。
「ああ」
「あそこで、何があったの?」
「覚えてねえな」
「覚えてないわけないよ」
「わかんねえって」
俺は親父から視線を逸らさぬように、体を硬直させていた。
「・・・何で今頃になって、そんなこと」
「女の子、知ってるだろ」
目を閉じていた。あの日の出来事を、じっくりと思い出すような表情をしている。
「俺、一人っ子じゃないだろ」
瞼を薄っすらと開けたようだ。
「何処に連れていったの、あの後」
小さくこくりと頷いた。
「あの後、何処に連れていったって訊いてるんだよ」
俺は膝を強く殴った。
「・・・覚えていたのか」
「忘れるはずがないよ」
親父の眼差しは俺を捕らえていた。
「いや、誰かが俺を導いたんだ」
「・・えだ」
吐息を洩らすように儚いくらいに小さな声。
「えっ」
「こずえっていうんだ。双子だ」
衝撃が全身を貫いた。訊きたくもあり、訊きたくもなかった名前。ただ認めたくない気持ちは、俺の真意なのだろう。手が震えていた。
「嘘っていえよ」
「おまえは・・・弟になる」
「嘘だと、いってくれ」
静かに崩れ去るような音が、耳の奥の方で聞こえた。俺の想い出。淡い初恋。形がないはずの想い出が今、音をたてて崩れていく。
「別れたんだ。母さんと」
告げられていく、俺の知らない俺の過去を。
「こずえは俺が引きとったんだ」
(じゃ、母さんは?)と気になったが、あまりのショックで口が動かない。(背中の傷は?)
訊くことは、ひとつだけだったはず。結論を求めてはいけない。触れてはいけない真実が、まだあった。
「そのコは、今どこに・・・」
「時間だ」
刑務官が無情にも立ち上がっていた。規定の時間が過ぎたのだ。親父は部屋から追われるように出ていった。出ていく時の親父の横顔。涙ぐんでいるようにも見えた。
鬼と思っていた親父は、もうこの世には存在しない。




