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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第4章 秦の終焉

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第98話 虞美人

 鴻門(こうもん)の会から一夜が明けると、劉邦(りゅうほう)は約束どおり、子嬰(しえい)を項羽(こうう)へ引き渡すことを決めた。


 その知らせを受けた子嬰(しえい)は、何かの間違いではないかと思った。項羽(こうう)が函谷関(かんこくかん)を越えれば自分は殺されるかもしれないと訴えた時、劉邦(りゅうほう)は自分が守ると言った。それどころか、子嬰(しえい)を妻として迎え、秦王家の婿になることまで受け入れようとしていたのだ。


 だからこそ子嬰(しえい)は、引き渡される前に劉邦(りゅうほう)のもとを訪れた。


「沛公。私を項羽(こうう)殿へ引き渡すというのは、本当なのですか」


「ああ」


 あまりにもあっさりとした返事に、子嬰(しえい)は言葉を失った。


「……あなたは、私を守ると仰ったではありませんか。項羽(こうう)殿が来ても渡さないと、そのために函谷関(かんこくかん)まで閉ざしたのでしょう?」


「そうなんだけどな。状況が変わったんだよ」


 劉邦(りゅうほう)は困ったように頭を掻いたものの、その口調には深刻さがなかった。


「昨日、実際に項羽(こうう)と会って分かった。今あいつと戦うのは無理だ。子嬰(しえい)を渡せば今回のことは水に流すって言うんだから、それで済ませた方がいいだろ」


「では、私を守るという約束は?」


「だから、それは……悪いとは思ってる。でも俺一人の意地で何万人も死なせるわけにもいかないだろ。それに、お前なら案外なんとかなるんじゃないか?」


「なんとかなる?」


「項羽(こうう)だって話せば分かるかもしれないしな」


 子嬰(しえい)はしばらく劉邦(りゅうほう)を見つめていた。昨日まで自分を欲しがり、守ると言い、項羽(こうう)すら敵に回しかけた男が、今日はその項羽(こうう)を恐れて自分を差し出そうとしている。


「……分かりました」


 それ以上、何を言っても無駄だった。子嬰(しえい)は静かに一礼すると、そのまま部屋を出ていった。


 その背中を見送っていた張良(ちょうりょう)は、扉が閉じてから劉邦(りゅうほう)へ顔を向けた。


「沛公。本当に、あれでよろしいのですか」


「仕方ないだろ。昨日のお前だって、項羽(こうう)とは戦うなって言ってたじゃないか」


「それとこれとは話が違います。私は子嬰(しえい)殿を守ると約束しておりません。沛公がご自分で約束なさったのです」


「だからって、その約束のために全軍を危険に晒すのか? それこそ大将のすることじゃないだろ」


 理屈だけを取れば、間違ってはいないのかもしれない。張良(ちょうりょう)自身、項羽(こうう)との戦いなど望んでおらず、そのために項伯(こうはく)を頼り、鴻門(こうもん)まで赴く道を作ったのである。


 だが、張良(ちょうりょう)が問題にしているのはそこではなかった。


 劉邦(りゅうほう)は人の意見を聞き、必要ならば格下の者にも頭を下げ、自分にない才を持つ者へ仕事を任せることができる。面子よりも実利を選べるその柔軟さを、張良(ちょうりょう)は大きな器だと思っていた。


 しかし今は、それが別のものに見えていた。美しい子嬰(しえい)を前にした時には項羽(こうう)を敵に回してでも守ると言い、実際に項羽(こうう)を前にして恐ろしくなれば、昨日の約束などなかったように差し出してしまう。柔軟なのではなく、ただその時々の欲と恐怖に流されているだけではないのか。


「……そうですか」


「何だよ。さっきから変だぞ」


「いえ。もう結構です」


 張良(ちょうりょう)は静かに頭を下げた。


 怒りはなかった。ただ、それまで自分をこの男のそばへ繋ぎ止めていた何かが、ふっと切れてしまった。


(もう、この御方にはついていけませんね)


 天下を取る器かもしれないと思った。


 だからこそ力を貸してきた。


 だが、器が大きければ誰に仕えてもよいというわけではない。


 張良(ちょうりょう)の心は、この日、静かに劉邦(りゅうほう)から離れた。


◆


 その日の午後、秦王・子嬰(しえい)は楚軍へ引き渡された。


 俺も項羽(こうう)に呼ばれ、その場に立ち会っていた。


 子嬰(しえい)とは昔、咸陽(かんよう)の宮廷で何度か会ったことがある。まだ少女だった頃の話で、特別に親しかったわけではないものの、王族同士ということもあり、宴や儀礼で顔を合わせる機会はあった。当時から整った顔立ちをしていて、いずれ美しい女になるだろうとは思っていた。


 だが、楚兵に伴われて現れた子嬰(しえい)を見た瞬間、俺は思わず目を奪われた。


(……こんなに綺麗だったか)


 秦王としての華美な衣装はなく、身につけているのは簡素な白衣だけだった。それでも長い黒髪と白い肌はかえって際立ち、すらりとした身体には王族として育った気品が染みついている。何より印象的なのはその目で、胡亥(こがい)と趙高(ちょうこう)の死を経て秦王となり、今また国を失おうとしているにもかかわらず、そこには奇妙なほど強い光が残っていた。


 俺でさえそうなのだから、初めて間近で子嬰(しえい)を見る項羽(こうう)が目を奪われたのも無理はなかった。


 もっとも、項羽(こうう)は最初から子嬰(しえい)を生かすつもりで呼んだわけではない。


 秦王を斬る。


 それによって、秦が滅びたことを天下へ示すつもりだった。


 楚を滅ぼした秦への恨みは、項羽(こうう)個人のものだけではない。楚人の多くが抱えてきたものであり、秦最後の王を自らの手で処刑することには大きな意味がある。


「お前が秦王・子嬰(しえい)か」


「そうです」


 子嬰(しえい)は跪かなかった。楚兵に囲まれ、目の前には鉅鹿で秦軍を粉砕した項羽(こうう)がいるというのに、背筋を伸ばしたまま正面から見返している。


 その姿を見た項羽(こうう)は、咎めるより先にしばらく黙り込んだ。


 美しい。


 項羽(こうう)は別に女を恋愛の対象として好んでいるわけではない。俺を婿にしたいなどと言ってくるくらいなのだから、むしろ異性への興味の方が強いのだろう。それでも項羽(こうう)は、美しいものそのものを好む女だった。名馬を見れば欲しがり、見事な武具を見れば手に取り、雄大な景色を前にすれば素直に感嘆する。


 そして目の前の子嬰(しえい)は、性別などとは関係なく目を奪われるほど美しかった。


(……なるほどな)


 項羽(こうう)は、劉邦(りゅうほう)がこの女を庇護しようとした理由を妙なところで納得してしまった。


「こちらへ来い」


 呼ばれた子嬰(しえい)は逆らわず、項羽(こうう)の前まで歩いた。二人が並ぶと、ただでさえ女としては長身の子嬰(しえい)が小さく見えるほど項羽(こうう)は大きい。


 項羽(こうう)は腰の剣を抜き、その切っ先を子嬰(しえい)の首筋へ当てた。


「怖くないのか」


「怖いに決まっているでしょう」


「ならば命乞いをすればよい。私は今からお前を斬るつもりなのだぞ」


「命乞いをすれば、助けてくださるのですか」


「それは分からん」


「でしたら、するだけ無駄ではありませんか」


 子嬰(しえい)はそう言うと、首筋に冷たい刃を当てられたまま項羽(こうう)を睨み返した。


 恐怖がないわけではない。近くにいる俺から見れば、指先が僅かに震えているのが分かる。それでも視線だけは逸らさず、自分を殺そうとしている女を真正面から見据えていた。


 その目を見た瞬間、項羽(こうう)の口元が僅かに緩んだ。


「……気に入った」


「何をです?」


「お前をだ。美しいだけかと思ったが、なかなかいい目をしている」


「殺す相手を褒める趣味がおありなのですか」


「いや。今、殺すのが惜しくなった」


 周囲にいた楚兵たちがざわめき、俺も思わず項羽(こうう)を見た。子嬰(しえい)自身も、さすがに予想していなかったらしく僅かに目を見開いている。


 項羽(こうう)はそんな周囲の反応など気にせず、しばらく子嬰(しえい)の顔を眺めてから、首に当てていた剣をゆっくりと離した。


「秦王・子嬰(しえい)は死んだ」


 子嬰(しえい)が眉を寄せた。


「……私は生きておりますが」


「だから秦王が死んだと言っている。私は秦を滅ぼすためにお前を斬るつもりだった。ならば秦王がいなくなれば、それでよい。お前が別の人間として生きることまで止める必要はない」


 無茶苦茶な理屈だった。


 だが、項羽(こうう)の中ではすでに決まったらしい。


「今日から子嬰(しえい)という名も捨てろ。そうだな……虞(ぐ)と名乗れ」


「虞(ぐ)?」


 子嬰(しえい)は思わず聞き返した。


「なぜ、その名なのです」


「今、思いついた」


「……何か由来があるわけではなく?」


「ない」


 あまりにも堂々と言われたため、子嬰(しえい)は呆れたように項羽(こうう)を見つめた。自分を殺そうとしていた女が、突然殺すのをやめたかと思えば、今度は思いつきで新しい名を与えてくるのだから当然だろう。


「不満か?」


「命を取られるよりは、遥かにましです」


「ならば決まりだ。お前は今日から虞(ぐ)だ」


「……承知いたしました」


 そう答えた子嬰(しえい)を見ながら、俺はしばらく何が起きたのか理解できなかった。


 子嬰(しえい)が生き残ったことだけでも、俺が知っている歴史とは違う。だが、それ以上に俺の頭から離れなかったのは、項羽(こうう)が何気なく口にした新しい名だった。


(虞……?)


 美しい女。


 項羽(こうう)に命を救われ、その傍らに置かれることになった虞(ぐ)。


 そこまで考えたところで、俺の中に一人の人物が浮かんだ。


(まさか……虞美人?)


 前世の歴史で、項羽(こうう)の傍らにいたことで知られる女。


 もちろん、俺の知る虞美人が秦王・子嬰(しえい)だったなどという話はない。そもそもこの世界では始皇帝からして俺の母親なのだから、今さら史実との違いを数えても仕方がないのだが、それでも歴史上の人物が思いもよらない形で繋がる瞬間を目の当たりにすると驚かずにはいられなかった。


「扶蘇(ふそ)」


 突然、項羽(こうう)に呼ばれて我に返った。


「何だ?」


「お前、さっきから虞(ぐ)を見すぎではないか?」


「見てない!」


「いや、見ていただろう。私が剣を収めてから、ずっと顔を見ていたぞ」


「久しぶりに会ったから驚いてるだけだ。昔はまだ少女だったんだぞ」


 慌てて弁解したものの、言われてから改めて虞(ぐ)を見ると、やはり美しい。少女だった頃にもその片鱗はあったが、こうして成長した姿を間近で見ると、劉邦(りゅうほう)があっさり篭絡された理由まで理解できてしまう。


 俺が再び見てしまったことに気づき、項羽(こうう)が楽しそうに笑った。


「やはり好みなのではないか。婿になれば虞(ぐ)も一緒に」


「ならないからな!」


「まだ諦めろとは言われていないぞ」


「何で諦めてないんだよ!」


 俺が慌てる横で、虞(ぐ)は事情が分からないらしく怪訝そうな顔をしていたが、やがて項羽(こうう)が本気とも冗談ともつかない顔で笑っているのを見て、ほんの僅かに口元を緩めた。


 つい先ほどまで自分の死を覚悟していた女が見せた、初めての微笑だった。


◆


 こうして、秦王・子嬰(しえい)は死んだ。


 もちろん、それは項羽(こうう)が勝手に宣言しただけで、本人は虞(ぐ)という新しい名を与えられて生きている。それでも秦王が王位を捨て、秦を継ぐ者がいなくなった以上、この日をもって秦王朝は事実上その歴史を終えた。


 俺は函谷関(かんこくかん)の向こうに広がる関中を眺めながら、何とも言えない気持ちになった。


 始皇帝が六国を滅ぼし、天下を初めて一つの帝国としてまとめてから、わずか十六年。


 あれほど巨大で、永遠に続くかのように見えた秦は、母上が死んでから急速に崩れ、胡亥(こがい)と趙高(ちょうこう)の死を経て、とうとう王朝そのものまで消えてしまった。


 俺が生まれた国だった。


 母上が生涯を懸けて築き上げた国でもあった。


 その終わりを、自分が皇帝としてではなく、国を追われた一人の公子として見届けることになるとは、昔の俺なら想像もしなかっただろう。


 寂しくないと言えば嘘になる。それでも、秦という名を守るためだけに、これ以上の人間を死なせたいとは思わなかった。国号が消えても秦の民は残り、兵たちも残る。俺の傍らには蒙恬(もうてん)も、蒙凛(もうりん)も、楊端和(ようたんわ)も、王賁(おうほん)も、そして死んだことになっている王離(おうり)もいる。


 ならば俺がこれから守るべきものは、秦という名ではなく、そこに生きていた人間なのだろう。


 遠くでは、項羽(こうう)が新しく虞(ぐ)となった女へ何かを話しかけている。つい先ほどまで処刑するつもりだったとは思えないほど楽しそうで、虞(ぐ)もまだ戸惑いながらその言葉を聞いていた。


 秦王・子嬰(しえい)は歴史から消え、その代わりに虞(ぐ)という一人の女が生まれた。


 そして俺たちの前には、秦という巨大な敵を失った後の、新しい天下が広がり始めていた。


 戦いは終わっていない。


 むしろ、ここからだった。


第4章 了

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