第98話 虞美人
鴻門の会から一夜が明けると、劉邦は約束どおり、子嬰を項羽へ引き渡すことを決めた。
その知らせを受けた子嬰は、何かの間違いではないかと思った。項羽が函谷関を越えれば自分は殺されるかもしれないと訴えた時、劉邦は自分が守ると言った。それどころか、子嬰を妻として迎え、秦王家の婿になることまで受け入れようとしていたのだ。
だからこそ子嬰は、引き渡される前に劉邦のもとを訪れた。
「沛公。私を項羽殿へ引き渡すというのは、本当なのですか」
「ああ」
あまりにもあっさりとした返事に、子嬰は言葉を失った。
「……あなたは、私を守ると仰ったではありませんか。項羽殿が来ても渡さないと、そのために函谷関まで閉ざしたのでしょう?」
「そうなんだけどな。状況が変わったんだよ」
劉邦は困ったように頭を掻いたものの、その口調には深刻さがなかった。
「昨日、実際に項羽と会って分かった。今あいつと戦うのは無理だ。子嬰を渡せば今回のことは水に流すって言うんだから、それで済ませた方がいいだろ」
「では、私を守るという約束は?」
「だから、それは……悪いとは思ってる。でも俺一人の意地で何万人も死なせるわけにもいかないだろ。それに、お前なら案外なんとかなるんじゃないか?」
「なんとかなる?」
「項羽だって話せば分かるかもしれないしな」
子嬰はしばらく劉邦を見つめていた。昨日まで自分を欲しがり、守ると言い、項羽すら敵に回しかけた男が、今日はその項羽を恐れて自分を差し出そうとしている。
「……分かりました」
それ以上、何を言っても無駄だった。子嬰は静かに一礼すると、そのまま部屋を出ていった。
その背中を見送っていた張良は、扉が閉じてから劉邦へ顔を向けた。
「沛公。本当に、あれでよろしいのですか」
「仕方ないだろ。昨日のお前だって、項羽とは戦うなって言ってたじゃないか」
「それとこれとは話が違います。私は子嬰殿を守ると約束しておりません。沛公がご自分で約束なさったのです」
「だからって、その約束のために全軍を危険に晒すのか? それこそ大将のすることじゃないだろ」
理屈だけを取れば、間違ってはいないのかもしれない。張良自身、項羽との戦いなど望んでおらず、そのために項伯を頼り、鴻門まで赴く道を作ったのである。
だが、張良が問題にしているのはそこではなかった。
劉邦は人の意見を聞き、必要ならば格下の者にも頭を下げ、自分にない才を持つ者へ仕事を任せることができる。面子よりも実利を選べるその柔軟さを、張良は大きな器だと思っていた。
しかし今は、それが別のものに見えていた。美しい子嬰を前にした時には項羽を敵に回してでも守ると言い、実際に項羽を前にして恐ろしくなれば、昨日の約束などなかったように差し出してしまう。柔軟なのではなく、ただその時々の欲と恐怖に流されているだけではないのか。
「……そうですか」
「何だよ。さっきから変だぞ」
「いえ。もう結構です」
張良は静かに頭を下げた。
怒りはなかった。ただ、それまで自分をこの男のそばへ繋ぎ止めていた何かが、ふっと切れてしまった。
(もう、この御方にはついていけませんね)
天下を取る器かもしれないと思った。
だからこそ力を貸してきた。
だが、器が大きければ誰に仕えてもよいというわけではない。
張良の心は、この日、静かに劉邦から離れた。
◆
その日の午後、秦王・子嬰は楚軍へ引き渡された。
俺も項羽に呼ばれ、その場に立ち会っていた。
子嬰とは昔、咸陽の宮廷で何度か会ったことがある。まだ少女だった頃の話で、特別に親しかったわけではないものの、王族同士ということもあり、宴や儀礼で顔を合わせる機会はあった。当時から整った顔立ちをしていて、いずれ美しい女になるだろうとは思っていた。
だが、楚兵に伴われて現れた子嬰を見た瞬間、俺は思わず目を奪われた。
(……こんなに綺麗だったか)
秦王としての華美な衣装はなく、身につけているのは簡素な白衣だけだった。それでも長い黒髪と白い肌はかえって際立ち、すらりとした身体には王族として育った気品が染みついている。何より印象的なのはその目で、胡亥と趙高の死を経て秦王となり、今また国を失おうとしているにもかかわらず、そこには奇妙なほど強い光が残っていた。
俺でさえそうなのだから、初めて間近で子嬰を見る項羽が目を奪われたのも無理はなかった。
もっとも、項羽は最初から子嬰を生かすつもりで呼んだわけではない。
秦王を斬る。
それによって、秦が滅びたことを天下へ示すつもりだった。
楚を滅ぼした秦への恨みは、項羽個人のものだけではない。楚人の多くが抱えてきたものであり、秦最後の王を自らの手で処刑することには大きな意味がある。
「お前が秦王・子嬰か」
「そうです」
子嬰は跪かなかった。楚兵に囲まれ、目の前には鉅鹿で秦軍を粉砕した項羽がいるというのに、背筋を伸ばしたまま正面から見返している。
その姿を見た項羽は、咎めるより先にしばらく黙り込んだ。
美しい。
項羽は別に女を恋愛の対象として好んでいるわけではない。俺を婿にしたいなどと言ってくるくらいなのだから、むしろ異性への興味の方が強いのだろう。それでも項羽は、美しいものそのものを好む女だった。名馬を見れば欲しがり、見事な武具を見れば手に取り、雄大な景色を前にすれば素直に感嘆する。
そして目の前の子嬰は、性別などとは関係なく目を奪われるほど美しかった。
(……なるほどな)
項羽は、劉邦がこの女を庇護しようとした理由を妙なところで納得してしまった。
「こちらへ来い」
呼ばれた子嬰は逆らわず、項羽の前まで歩いた。二人が並ぶと、ただでさえ女としては長身の子嬰が小さく見えるほど項羽は大きい。
項羽は腰の剣を抜き、その切っ先を子嬰の首筋へ当てた。
「怖くないのか」
「怖いに決まっているでしょう」
「ならば命乞いをすればよい。私は今からお前を斬るつもりなのだぞ」
「命乞いをすれば、助けてくださるのですか」
「それは分からん」
「でしたら、するだけ無駄ではありませんか」
子嬰はそう言うと、首筋に冷たい刃を当てられたまま項羽を睨み返した。
恐怖がないわけではない。近くにいる俺から見れば、指先が僅かに震えているのが分かる。それでも視線だけは逸らさず、自分を殺そうとしている女を真正面から見据えていた。
その目を見た瞬間、項羽の口元が僅かに緩んだ。
「……気に入った」
「何をです?」
「お前をだ。美しいだけかと思ったが、なかなかいい目をしている」
「殺す相手を褒める趣味がおありなのですか」
「いや。今、殺すのが惜しくなった」
周囲にいた楚兵たちがざわめき、俺も思わず項羽を見た。子嬰自身も、さすがに予想していなかったらしく僅かに目を見開いている。
項羽はそんな周囲の反応など気にせず、しばらく子嬰の顔を眺めてから、首に当てていた剣をゆっくりと離した。
「秦王・子嬰は死んだ」
子嬰が眉を寄せた。
「……私は生きておりますが」
「だから秦王が死んだと言っている。私は秦を滅ぼすためにお前を斬るつもりだった。ならば秦王がいなくなれば、それでよい。お前が別の人間として生きることまで止める必要はない」
無茶苦茶な理屈だった。
だが、項羽の中ではすでに決まったらしい。
「今日から子嬰という名も捨てろ。そうだな……虞と名乗れ」
「虞?」
子嬰は思わず聞き返した。
「なぜ、その名なのです」
「今、思いついた」
「……何か由来があるわけではなく?」
「ない」
あまりにも堂々と言われたため、子嬰は呆れたように項羽を見つめた。自分を殺そうとしていた女が、突然殺すのをやめたかと思えば、今度は思いつきで新しい名を与えてくるのだから当然だろう。
「不満か?」
「命を取られるよりは、遥かにましです」
「ならば決まりだ。お前は今日から虞だ」
「……承知いたしました」
そう答えた子嬰を見ながら、俺はしばらく何が起きたのか理解できなかった。
子嬰が生き残ったことだけでも、俺が知っている歴史とは違う。だが、それ以上に俺の頭から離れなかったのは、項羽が何気なく口にした新しい名だった。
(虞……?)
美しい女。
項羽に命を救われ、その傍らに置かれることになった虞。
そこまで考えたところで、俺の中に一人の人物が浮かんだ。
(まさか……虞美人?)
前世の歴史で、項羽の傍らにいたことで知られる女。
もちろん、俺の知る虞美人が秦王・子嬰だったなどという話はない。そもそもこの世界では始皇帝からして俺の母親なのだから、今さら史実との違いを数えても仕方がないのだが、それでも歴史上の人物が思いもよらない形で繋がる瞬間を目の当たりにすると驚かずにはいられなかった。
「扶蘇」
突然、項羽に呼ばれて我に返った。
「何だ?」
「お前、さっきから虞を見すぎではないか?」
「見てない!」
「いや、見ていただろう。私が剣を収めてから、ずっと顔を見ていたぞ」
「久しぶりに会ったから驚いてるだけだ。昔はまだ少女だったんだぞ」
慌てて弁解したものの、言われてから改めて虞を見ると、やはり美しい。少女だった頃にもその片鱗はあったが、こうして成長した姿を間近で見ると、劉邦があっさり篭絡された理由まで理解できてしまう。
俺が再び見てしまったことに気づき、項羽が楽しそうに笑った。
「やはり好みなのではないか。婿になれば虞も一緒に」
「ならないからな!」
「まだ諦めろとは言われていないぞ」
「何で諦めてないんだよ!」
俺が慌てる横で、虞は事情が分からないらしく怪訝そうな顔をしていたが、やがて項羽が本気とも冗談ともつかない顔で笑っているのを見て、ほんの僅かに口元を緩めた。
つい先ほどまで自分の死を覚悟していた女が見せた、初めての微笑だった。
◆
こうして、秦王・子嬰は死んだ。
もちろん、それは項羽が勝手に宣言しただけで、本人は虞という新しい名を与えられて生きている。それでも秦王が王位を捨て、秦を継ぐ者がいなくなった以上、この日をもって秦王朝は事実上その歴史を終えた。
俺は函谷関の向こうに広がる関中を眺めながら、何とも言えない気持ちになった。
始皇帝が六国を滅ぼし、天下を初めて一つの帝国としてまとめてから、わずか十六年。
あれほど巨大で、永遠に続くかのように見えた秦は、母上が死んでから急速に崩れ、胡亥と趙高の死を経て、とうとう王朝そのものまで消えてしまった。
俺が生まれた国だった。
母上が生涯を懸けて築き上げた国でもあった。
その終わりを、自分が皇帝としてではなく、国を追われた一人の公子として見届けることになるとは、昔の俺なら想像もしなかっただろう。
寂しくないと言えば嘘になる。それでも、秦という名を守るためだけに、これ以上の人間を死なせたいとは思わなかった。国号が消えても秦の民は残り、兵たちも残る。俺の傍らには蒙恬も、蒙凛も、楊端和も、王賁も、そして死んだことになっている王離もいる。
ならば俺がこれから守るべきものは、秦という名ではなく、そこに生きていた人間なのだろう。
遠くでは、項羽が新しく虞となった女へ何かを話しかけている。つい先ほどまで処刑するつもりだったとは思えないほど楽しそうで、虞もまだ戸惑いながらその言葉を聞いていた。
秦王・子嬰は歴史から消え、その代わりに虞という一人の女が生まれた。
そして俺たちの前には、秦という巨大な敵を失った後の、新しい天下が広がり始めていた。
戦いは終わっていない。
むしろ、ここからだった。
第4章 了




