↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第4章 秦の終焉

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

98/176

第97話 鴻門の会

 函谷関(かんこくかん)が開いてからほどなく、項羽(こうう)の楚軍は関中へ入り、鴻門(こうもん)に大軍を置いた。


 その陣中にいる俺は、いつもとは少し違う緊張を覚えていた。戦場へ出る前の緊張ではなく、自分だけがこの後に起こる出来事の名を知っていることから来る、妙な落ち着かなさだった。


(鴻門(こうもん)の会か)


 前世で中国史を学んでいれば、一度は目にする有名な場面である。後に天下を争う項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)が同じ宴席につき、范増(はんぞう)が劉邦(りゅうほう)を殺そうとする一方、項羽(こうう)が決断し切れず、その隙に劉邦(りゅうほう)が逃げ出す。


 教科書や史書の中なら数行で終わる出来事に、俺自身が同席しようとしている。


 歴史が大きく変わっている今、前世と同じように進む保証などない。それでも、この場所の名を聞いただけで胸の奥が少し騒ぐのは、歴史を学んでいた人間として仕方のないことだった。


◆


 劉邦(りゅうほう)をどう扱うかについて、楚軍の上層部では激しい意見の対立が起きていた。


「今こそ討つべきです」


 軍議の席で、范増(はんぞう)は迷いなく言い切った。


「劉邦(りゅうほう)は先に関中へ入り、秦王・子嬰(しえい)を囲い込み、さらに函谷関(かんこくかん)を閉じて我らを締め出そうとした。これを敵意ではないと言い張る方が無理というものです」


 項羽(こうう)は腕を組んだまま、すぐには答えなかった。昨夜、項伯(こうはく)からも張良(ちょうりょう)の願いを聞いており、劉邦(りゅうほう)本人に弁明させてから判断しても遅くないと勧められている。


「項伯(こうはく)は、一度話を聞けと言っていた」


「甘うございます。劉邦(りゅうほう)が何を申すかなど決まっております。己に野心はない、すべては誤解であったと頭を下げるだけでしょう」


「それでも、会ってから決めればいい」


 項羽(こうう)はそう答えた後、なぜか俺へ顔を向けた。


「扶蘇(ふそ)、お前はどう思う?」


「俺?」


 突然振られ、少し考える。


 目の前の范増(はんぞう)は明らかに劉邦(りゅうほう)を危険視している。それは正しい。俺だけは、この場にいる誰よりも劉邦(りゅうほう)が後に何者になるかを知っている。


 だからこそ、ここで「殺した方がいい」と言えば、歴史そのものを大きく切り替えることになる。


「……言い分くらい聞いてもいいんじゃないか」


 俺は慎重に答えた。


「函谷関(かんこくかん)を閉じたことは確かに問題だけど、いきなり戦えば楚同士で潰し合うことになる。本人を呼んで理由を聞いて、それから決めても遅くないと思う」


 范増(はんぞう)の視線が一瞬だけ鋭くなったが、項羽(こうう)は満足そうに頷いた。


「私もそう思う。では鴻門(こうもん)へ呼べ。劉邦(りゅうほう)本人から話を聞く」


 そうして、後に名を残すことになる会談が開かれることになった。


◆


 劉邦(りゅうほう)は大軍を連れては来なかった。


 同行したのは張良(ちょうりょう)、樊噲(はんかい)、夏侯嬰(かこうえい)ら、ごく少数の側近だけである。その中でも項羽(こうう)の天幕へ入ることを許されたのは、劉邦(りゅうほう)と張良(ちょうりょう)だけだった。


 外へ残った樊噲(はんかい)は露骨に不満そうだったが、夏侯嬰(かこうえい)が宥めていた。


 天幕へ入ってきた劉邦(りゅうほう)は、俺が以前に聞いていた印象とは随分違って見えた。


 関中を先に取った男。


 秦王・子嬰(しえい)から婿にと望まれた男。


 そう聞けば、もっと堂々としていてもよさそうなものだが、目の前に項羽(こうう)を見た途端、明らかに腰が低くなった。


「上将軍・項羽(こうう)殿。このたびは、とんでもない誤解を招いてしまった」


 劉邦(りゅうほう)は深々と頭を下げた。


「誤解?」


 項羽(こうう)の声は冷たい。


「私を函谷関(かんこくかん)の外へ五日も締め出したのが、誤解だと言うのか」


「もちろん、項羽(こうう)殿と戦うつもりなんてなかった。関を閉じたのは、秦が崩れた直後だったからだ。賊徒や素性の分からない兵が関中へ流れ込めば、せっかく降った民まで騒ぐと思ったんだ」


「なら、なぜ私の軍まで通さなかった」


「そこは完全な手違いだ」


 劉邦(りゅうほう)は即座に答えた。


「俺は関中へ入ったばかりで、各地の指示まで十分に行き渡っていなかった。項羽(こうう)殿を締め出せなんて命令を出した覚えはない」


 横にいる張良(ちょうりょう)は黙っていた。


 俺は思わず劉邦(りゅうほう)を見た。


(よく言うな……)


 実際にどうだったかは別として、よくこれだけ滑らかに言えるものだと思う。


 項羽(こうう)は疑っている様子だったが、怒鳴ることはなかった。


「では、子嬰(しえい)を庇護しているのはなぜだ」


「それも関中を鎮めるためだ。秦王族をいきなり殺したら、秦の民がどう思う? せっかく武器を置いた連中が、また反乱を起こしかねない。だから一時的に保護しているだけで、秦を再興させるつもりなんてない」


 そう言うと、劉邦(りゅうほう)は地面へ膝をつき、さらに深く頭を下げた。


「俺は項羽(こうう)殿と争うつもりなんかない。関中を独り占めするつもりもない。信じてくれ」


 目の前で平伏する劉邦(りゅうほう)を見ているうちに、項羽(こうう)の表情から怒りが薄れていった。


 強い者には強く出る。


 だが、こうして頭を下げ、震えながら敵意はないと言う相手を、項羽(こうう)はいつまでも責める性格ではなかった。


 むしろ、次第に興味そのものを失ったように見えた。


「もういい。顔を上げろ」


「許してくれるのか?」


「ただし、条件がある」


 項羽(こうう)は劉邦(りゅうほう)を見下ろした。


「子嬰(しえい)をこちらへ渡せ」


 張良(ちょうりょう)が僅かに顔を動かした。


 俺も劉邦(りゅうほう)を見る。


 子嬰(しえい)を守る。


 そう劉邦(りゅうほう)が宣言したことは、こちらにも伝わっていた。


 だが。


「分かった」


 劉邦(りゅうほう)はほとんど間を置かなかった。


「子嬰(しえい)を引き渡す。それで今回のことを水に流してくれるなら、それでいい」


 今度は張良(ちょうりょう)が明らかに驚いた。


「沛公」


「何だ?」


「……いえ」


 張良(ちょうりょう)はそれ以上言わなかったが、その目には呆れに近いものが浮かんでいた。


 守ると言ったのではなかったのか。


 おそらく同じことを考えている。


 俺も内心で少し呆れた。


 美女を前にした時には項羽(こうう)を敵に回してでも守ると言い、今度は本人を前にすると、ほとんど迷わず差し出す。


(これも劉邦(りゅうほう)らしさなのか……?)


 少なくとも、俺には真似できそうになかった。


「よし。それなら今回のことは終わりだ」


 項羽(こうう)はあっさりとそう告げた。


 こうして、子嬰(しえい)の身柄と引き換えに、劉邦(りゅうほう)はひとまず許されることになった。


◆


 話がまとまると、そのまま酒宴へ移った。


 張り詰めていた空気は少し緩み、酒と肉が運び込まれる。劉邦(りゅうほう)も先ほどまで平伏していたのが嘘のように杯を手に取り、項羽(こうう)も機嫌を直して飲み始めた。


 俺も席を与えられていた。


(本当に鴻門(こうもん)の会にいるんだな)


 改めて周囲を見ると妙な感慨が湧いてくる。


 正面には項羽(こうう)。


 その向かいには劉邦(りゅうほう)。


 隣には張良(ちょうりょう)がいて、少し離れた場所には范増(はんぞう)が座っている。


 前世なら史書の中にしかいなかった人間たちが、同じ天幕で酒を飲んでいた。


 もっとも、その感動に浸っていたのは俺くらいだったらしい。


 范増(はんぞう)は酒などほとんど口にせず、何度も項羽(こうう)へ目配せしていた。


 劉邦(りゅうほう)をここで殺すべきだ。


 そう訴えているのは明らかだった。


 だが項羽(こうう)は気づいていても動かなかった。


 すでに一度許した相手を、酒宴へ招いた後で殺すつもりはないようだった。


 やがて范増(はんぞう)は諦めたように視線を外すと、席の端に控えていた項荘(こうそう)へ声を掛けた。


「酒だけでは退屈じゃ。項荘(こうそう)、一つ剣舞でも見せてはどうか」


 項荘(こうそう)が范増(はんぞう)を見る。


 ほんの一瞬だけだった。


 だが二人の間に何らかの意思が交わされたことを、張良(ちょうりょう)は見逃さなかった。


「承知いたしました」


 項荘(こうそう)が立ち上がり、剣を抜いた。


 酒宴の余興として剣を振るい始めるが、その軌道は少しずつ劉邦(りゅうほう)の席へ近づいていく。


 そして范増(はんぞう)の視線は、時折こちらにも向いていた。


(劉邦(りゅうほう)だけでは足りぬ)


 范増(はんぞう)はそう考えていた。


 劉邦(りゅうほう)は今ここで討てる。


 そして公子扶蘇(ふそ)も、同じ宴席にいる。


 秦兵十万を抱え、蒙恬(もうてん)、楊端和(ようたんわ)、王賁(おうほん)まで集めた男を、後になって処理する方が難しい。


 余興の中で混乱が起き、二人とも死んだならば。


 その後はいくらでも説明できる。


 俺はそんなことを知る由もなく、剣舞を見ながら内心で少し感動していた。


(これが、あの有名な剣舞か……)


◆


 だが、張良(ちょうりょう)は歴史を知らなくても危険を感じ取った。


 項荘(こうそう)の踏み込みが少しずつ深くなっている。剣の切っ先も、見せるための舞にしては劉邦(りゅうほう)へ近すぎた。


 張良(ちょうりょう)は席を立った。


「少々、外へ」


 誰も止めなかった。


 天幕を出ると、外で待っていた樊噲(はんかい)をすぐに呼び寄せる。


「中へ入ってください」


「入っていいのか?」


「よくはありません。ですが、沛公が危険です」


 樊噲(はんかい)の顔が変わった。


「誰がやろうとしてる」


「話は後です。とにかく中へ」


 樊噲(はんかい)はそれ以上聞かなかった。


 止めようとした楚兵を押し退け、そのまま天幕へ踏み込んだ。


◆


 突然入ってきた大柄な女に、宴席の視線が一斉に集まった。


「何者だ」


 項羽(こうう)が尋ねる。


「沛公の臣、樊噲(はんかい)!」


 樊噲(はんかい)は胸を張った。


「聞きたいことがある。沛公は秦を降し、関中を荒らさぬよう兵を戒めてきた。それなのに、ここへ呼び出して殺すつもりなのか!」


 范増(はんぞう)の顔が険しくなる。


 だが項羽(こうう)は怒らなかった。


 むしろ、自分を前にして堂々と怒鳴る樊噲(はんかい)を見て、楽しそうに笑った。


「面白い女だな。酒をやれ」


「酒?」


「飲め」


 大きな杯が渡されると、樊噲(はんかい)は躊躇なく飲み干した。


 項羽(こうう)はさらに機嫌を良くする。


「肉もやれ」


 今度は大きな肉の塊が運ばれ、樊噲(はんかい)はそれも遠慮なく食べ始めた。


「気に入ったぞ。座れ」


「沛公に何もしないならな」


「もう許したと言っただろう」


 項羽(こうう)がそう答えると、樊噲(はんかい)はようやく少しだけ肩の力を抜いた。


 この騒ぎによって項荘(こうそう)の剣舞も自然に止まり、范増(はんぞう)の企みはひとまず潰れた。


 もちろん俺は、それにも気づいていなかった。


◆


 酒宴がしばらく続いた頃、劉邦(りゅうほう)が席を立った。


「ちょっと用を足してくる」


 かなり酒を飲んでいたこともあり、誰も不自然には思わなかった。


 張良(ちょうりょう)が一瞬だけ視線を向ける。


 劉邦(りゅうほう)もわずかに目を合わせた。


 それだけだった。


 劉邦(りゅうほう)は外へ出ると、そのまま戻ってこなかった。


 待機していた夏侯嬰(かこうえい)らと合流し、鴻門(こうもん)を離れて自軍へ向かったのである。


 宴席には張良(ちょうりょう)と樊噲(はんかい)が残された。


 しばらくしても劉邦(りゅうほう)が戻らないため、項羽(こうう)が首を傾げる。


「あいつ、随分長いな」


 張良(ちょうりょう)は平然と頭を下げた。


「沛公は酒に酔い、これ以上御前へ戻るのは失礼と考え、先に陣へ戻られました。非礼の段、どうかお許しください」


「帰ったのか?」


「はい」


 項羽(こうう)は少し呆れた顔をしたものの、それ以上怒ることはなかった。


「まあいい。用も済んだ」


 范増(はんぞう)だけが、険しい顔で杯を置いた。


 せっかく目の前にいた劉邦(りゅうほう)を逃した。


 その上、もう一人消すべきだと考えていた扶蘇(ふそ)も、何も知らない顔で酒を飲んでいる。


 一方の俺は、そんな范増(はんぞう)の胸中など想像もしていなかった。


(すごいな。本当に逃げた……)


 史書で知っていた出来事が、細部を変えながらも自分の目の前で進んでいく。


 樊噲(はんかい)が乱入し、劉邦(りゅうほう)が宴席を抜け出し、張良(ちょうりょう)がその場を取り繕う。


 その一つ一つを見るたび、歴史を学んでいた頃の記憶が蘇り、俺は妙な感動すら覚えていた。


 まさかその剣舞が、劉邦(りゅうほう)だけでなく自分の命まで狙っていたとは知らないまま。


 こうして後に「鴻門(こうもん)の会」と呼ばれる宴は終わった。


 劉邦(りゅうほう)は生きて帰り、項羽(こうう)は彼を許した。


 そして俺もまた、知らぬところで一つの死地を抜けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。