第97話 鴻門の会
函谷関が開いてからほどなく、項羽の楚軍は関中へ入り、鴻門に大軍を置いた。
その陣中にいる俺は、いつもとは少し違う緊張を覚えていた。戦場へ出る前の緊張ではなく、自分だけがこの後に起こる出来事の名を知っていることから来る、妙な落ち着かなさだった。
(鴻門の会か)
前世で中国史を学んでいれば、一度は目にする有名な場面である。後に天下を争う項羽と劉邦が同じ宴席につき、范増が劉邦を殺そうとする一方、項羽が決断し切れず、その隙に劉邦が逃げ出す。
教科書や史書の中なら数行で終わる出来事に、俺自身が同席しようとしている。
歴史が大きく変わっている今、前世と同じように進む保証などない。それでも、この場所の名を聞いただけで胸の奥が少し騒ぐのは、歴史を学んでいた人間として仕方のないことだった。
◆
劉邦をどう扱うかについて、楚軍の上層部では激しい意見の対立が起きていた。
「今こそ討つべきです」
軍議の席で、范増は迷いなく言い切った。
「劉邦は先に関中へ入り、秦王・子嬰を囲い込み、さらに函谷関を閉じて我らを締め出そうとした。これを敵意ではないと言い張る方が無理というものです」
項羽は腕を組んだまま、すぐには答えなかった。昨夜、項伯からも張良の願いを聞いており、劉邦本人に弁明させてから判断しても遅くないと勧められている。
「項伯は、一度話を聞けと言っていた」
「甘うございます。劉邦が何を申すかなど決まっております。己に野心はない、すべては誤解であったと頭を下げるだけでしょう」
「それでも、会ってから決めればいい」
項羽はそう答えた後、なぜか俺へ顔を向けた。
「扶蘇、お前はどう思う?」
「俺?」
突然振られ、少し考える。
目の前の范増は明らかに劉邦を危険視している。それは正しい。俺だけは、この場にいる誰よりも劉邦が後に何者になるかを知っている。
だからこそ、ここで「殺した方がいい」と言えば、歴史そのものを大きく切り替えることになる。
「……言い分くらい聞いてもいいんじゃないか」
俺は慎重に答えた。
「函谷関を閉じたことは確かに問題だけど、いきなり戦えば楚同士で潰し合うことになる。本人を呼んで理由を聞いて、それから決めても遅くないと思う」
范増の視線が一瞬だけ鋭くなったが、項羽は満足そうに頷いた。
「私もそう思う。では鴻門へ呼べ。劉邦本人から話を聞く」
そうして、後に名を残すことになる会談が開かれることになった。
◆
劉邦は大軍を連れては来なかった。
同行したのは張良、樊噲、夏侯嬰ら、ごく少数の側近だけである。その中でも項羽の天幕へ入ることを許されたのは、劉邦と張良だけだった。
外へ残った樊噲は露骨に不満そうだったが、夏侯嬰が宥めていた。
天幕へ入ってきた劉邦は、俺が以前に聞いていた印象とは随分違って見えた。
関中を先に取った男。
秦王・子嬰から婿にと望まれた男。
そう聞けば、もっと堂々としていてもよさそうなものだが、目の前に項羽を見た途端、明らかに腰が低くなった。
「上将軍・項羽殿。このたびは、とんでもない誤解を招いてしまった」
劉邦は深々と頭を下げた。
「誤解?」
項羽の声は冷たい。
「私を函谷関の外へ五日も締め出したのが、誤解だと言うのか」
「もちろん、項羽殿と戦うつもりなんてなかった。関を閉じたのは、秦が崩れた直後だったからだ。賊徒や素性の分からない兵が関中へ流れ込めば、せっかく降った民まで騒ぐと思ったんだ」
「なら、なぜ私の軍まで通さなかった」
「そこは完全な手違いだ」
劉邦は即座に答えた。
「俺は関中へ入ったばかりで、各地の指示まで十分に行き渡っていなかった。項羽殿を締め出せなんて命令を出した覚えはない」
横にいる張良は黙っていた。
俺は思わず劉邦を見た。
(よく言うな……)
実際にどうだったかは別として、よくこれだけ滑らかに言えるものだと思う。
項羽は疑っている様子だったが、怒鳴ることはなかった。
「では、子嬰を庇護しているのはなぜだ」
「それも関中を鎮めるためだ。秦王族をいきなり殺したら、秦の民がどう思う? せっかく武器を置いた連中が、また反乱を起こしかねない。だから一時的に保護しているだけで、秦を再興させるつもりなんてない」
そう言うと、劉邦は地面へ膝をつき、さらに深く頭を下げた。
「俺は項羽殿と争うつもりなんかない。関中を独り占めするつもりもない。信じてくれ」
目の前で平伏する劉邦を見ているうちに、項羽の表情から怒りが薄れていった。
強い者には強く出る。
だが、こうして頭を下げ、震えながら敵意はないと言う相手を、項羽はいつまでも責める性格ではなかった。
むしろ、次第に興味そのものを失ったように見えた。
「もういい。顔を上げろ」
「許してくれるのか?」
「ただし、条件がある」
項羽は劉邦を見下ろした。
「子嬰をこちらへ渡せ」
張良が僅かに顔を動かした。
俺も劉邦を見る。
子嬰を守る。
そう劉邦が宣言したことは、こちらにも伝わっていた。
だが。
「分かった」
劉邦はほとんど間を置かなかった。
「子嬰を引き渡す。それで今回のことを水に流してくれるなら、それでいい」
今度は張良が明らかに驚いた。
「沛公」
「何だ?」
「……いえ」
張良はそれ以上言わなかったが、その目には呆れに近いものが浮かんでいた。
守ると言ったのではなかったのか。
おそらく同じことを考えている。
俺も内心で少し呆れた。
美女を前にした時には項羽を敵に回してでも守ると言い、今度は本人を前にすると、ほとんど迷わず差し出す。
(これも劉邦らしさなのか……?)
少なくとも、俺には真似できそうになかった。
「よし。それなら今回のことは終わりだ」
項羽はあっさりとそう告げた。
こうして、子嬰の身柄と引き換えに、劉邦はひとまず許されることになった。
◆
話がまとまると、そのまま酒宴へ移った。
張り詰めていた空気は少し緩み、酒と肉が運び込まれる。劉邦も先ほどまで平伏していたのが嘘のように杯を手に取り、項羽も機嫌を直して飲み始めた。
俺も席を与えられていた。
(本当に鴻門の会にいるんだな)
改めて周囲を見ると妙な感慨が湧いてくる。
正面には項羽。
その向かいには劉邦。
隣には張良がいて、少し離れた場所には范増が座っている。
前世なら史書の中にしかいなかった人間たちが、同じ天幕で酒を飲んでいた。
もっとも、その感動に浸っていたのは俺くらいだったらしい。
范増は酒などほとんど口にせず、何度も項羽へ目配せしていた。
劉邦をここで殺すべきだ。
そう訴えているのは明らかだった。
だが項羽は気づいていても動かなかった。
すでに一度許した相手を、酒宴へ招いた後で殺すつもりはないようだった。
やがて范増は諦めたように視線を外すと、席の端に控えていた項荘へ声を掛けた。
「酒だけでは退屈じゃ。項荘、一つ剣舞でも見せてはどうか」
項荘が范増を見る。
ほんの一瞬だけだった。
だが二人の間に何らかの意思が交わされたことを、張良は見逃さなかった。
「承知いたしました」
項荘が立ち上がり、剣を抜いた。
酒宴の余興として剣を振るい始めるが、その軌道は少しずつ劉邦の席へ近づいていく。
そして范増の視線は、時折こちらにも向いていた。
(劉邦だけでは足りぬ)
范増はそう考えていた。
劉邦は今ここで討てる。
そして公子扶蘇も、同じ宴席にいる。
秦兵十万を抱え、蒙恬、楊端和、王賁まで集めた男を、後になって処理する方が難しい。
余興の中で混乱が起き、二人とも死んだならば。
その後はいくらでも説明できる。
俺はそんなことを知る由もなく、剣舞を見ながら内心で少し感動していた。
(これが、あの有名な剣舞か……)
◆
だが、張良は歴史を知らなくても危険を感じ取った。
項荘の踏み込みが少しずつ深くなっている。剣の切っ先も、見せるための舞にしては劉邦へ近すぎた。
張良は席を立った。
「少々、外へ」
誰も止めなかった。
天幕を出ると、外で待っていた樊噲をすぐに呼び寄せる。
「中へ入ってください」
「入っていいのか?」
「よくはありません。ですが、沛公が危険です」
樊噲の顔が変わった。
「誰がやろうとしてる」
「話は後です。とにかく中へ」
樊噲はそれ以上聞かなかった。
止めようとした楚兵を押し退け、そのまま天幕へ踏み込んだ。
◆
突然入ってきた大柄な女に、宴席の視線が一斉に集まった。
「何者だ」
項羽が尋ねる。
「沛公の臣、樊噲!」
樊噲は胸を張った。
「聞きたいことがある。沛公は秦を降し、関中を荒らさぬよう兵を戒めてきた。それなのに、ここへ呼び出して殺すつもりなのか!」
范増の顔が険しくなる。
だが項羽は怒らなかった。
むしろ、自分を前にして堂々と怒鳴る樊噲を見て、楽しそうに笑った。
「面白い女だな。酒をやれ」
「酒?」
「飲め」
大きな杯が渡されると、樊噲は躊躇なく飲み干した。
項羽はさらに機嫌を良くする。
「肉もやれ」
今度は大きな肉の塊が運ばれ、樊噲はそれも遠慮なく食べ始めた。
「気に入ったぞ。座れ」
「沛公に何もしないならな」
「もう許したと言っただろう」
項羽がそう答えると、樊噲はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
この騒ぎによって項荘の剣舞も自然に止まり、范増の企みはひとまず潰れた。
もちろん俺は、それにも気づいていなかった。
◆
酒宴がしばらく続いた頃、劉邦が席を立った。
「ちょっと用を足してくる」
かなり酒を飲んでいたこともあり、誰も不自然には思わなかった。
張良が一瞬だけ視線を向ける。
劉邦もわずかに目を合わせた。
それだけだった。
劉邦は外へ出ると、そのまま戻ってこなかった。
待機していた夏侯嬰らと合流し、鴻門を離れて自軍へ向かったのである。
宴席には張良と樊噲が残された。
しばらくしても劉邦が戻らないため、項羽が首を傾げる。
「あいつ、随分長いな」
張良は平然と頭を下げた。
「沛公は酒に酔い、これ以上御前へ戻るのは失礼と考え、先に陣へ戻られました。非礼の段、どうかお許しください」
「帰ったのか?」
「はい」
項羽は少し呆れた顔をしたものの、それ以上怒ることはなかった。
「まあいい。用も済んだ」
范増だけが、険しい顔で杯を置いた。
せっかく目の前にいた劉邦を逃した。
その上、もう一人消すべきだと考えていた扶蘇も、何も知らない顔で酒を飲んでいる。
一方の俺は、そんな范増の胸中など想像もしていなかった。
(すごいな。本当に逃げた……)
史書で知っていた出来事が、細部を変えながらも自分の目の前で進んでいく。
樊噲が乱入し、劉邦が宴席を抜け出し、張良がその場を取り繕う。
その一つ一つを見るたび、歴史を学んでいた頃の記憶が蘇り、俺は妙な感動すら覚えていた。
まさかその剣舞が、劉邦だけでなく自分の命まで狙っていたとは知らないまま。
こうして後に「鴻門の会」と呼ばれる宴は終わった。
劉邦は生きて帰り、項羽は彼を許した。
そして俺もまた、知らぬところで一つの死地を抜けていた。




