第96話 開かれた函谷関
翌朝、俺は王離を伴い、函谷関の前へ出た。
もっとも、王離は表向きにはすでに死んだことになっている。ここで生存が広まれば、鉅鹿で行った戦死偽装の意味がなくなるため、鎧を着込み、兜も顔がほとんど見えないほど深く被らせていた。同行する兵も事情を知る者だけに絞り、楚軍は十分に後方へ待たせてある。
城壁の上では、秦兵たちがこちらを警戒していた。昨日まで五日間も項羽の猛攻を防いできた兵だけあって、俺たちが少人数で現れた程度では気を緩める様子もない。
「王賁! 話がしたい!」
俺が声を張ると、やがて城壁の中央へ一人の女が姿を現した。
久しぶりに見る王賁は、以前より痩せていた。それでも背筋は伸び、城壁の上からこちらを見下ろす目には、魏や楚の戦場を渡ってきた頃と変わらない強さが残っている。
「随分と立派になったものだな、公子扶蘇」
再会して最初に返ってきたのは、懐かしさではなく冷たい声だった。
「王氏に守られて函谷関を逃れ、その後は秦に刃を向け、今度は楚軍を連れて戻ってきたか。私たち母娘が何のためにあの時ここへ残ったのか、お前はもう忘れたのか?」
「忘れてない」
「なら、なぜ項羽とともに来た!」
王賁の声に怒りが滲んだ。
「お前を逃がすため、王氏の兵がどれほど死んだと思っている。私は捕らえられ、王離は私を人質に取られたまま秦軍へ縛りつけられた。その果てに娘は鉅鹿で死んだというのに、お前はその秦軍を破った楚と並んでここにいる。王離が生きていれば、何と思っただろうな」
最後の言葉を聞き、俺は返事をせずに後ろを振り返った。
それだけで十分だった。
王離が一歩前へ出る。
「……何だ、その者は」
王賁が訝しげに目を細めた。
王離はすぐには答えず、兜の縁へ手を掛けると、城壁の真正面からだけ顔が見える程度に、ゆっくりと持ち上げた。
「母上」
大声ではなかった。
だが城壁の上にいる王賁には、はっきり届いたらしい。
その表情が凍りついた。
「……王離?」
「はい。母上」
王賁はしばらく動けなかった。死んだはずの娘の顔を確かめるように何度も見つめ、やがて城壁へ片手をついた。
「お前……生きて……」
「申し訳ありません。母上を欺く形になってしまいました」
王離は周囲から顔を見られる前に、再び兜を深く下ろした。
それだけで王賁には十分だった。
焼けた遺体。
残された大剣。
戦死したという報告。
そして今、目の前に立つ娘。
王賁の視線が、今度は俺へ向いた。
「……お前がやったのか」
「ああ。王離には戦死したことにしてもらった。その方が、王賁を人質にして王離を縛る意味がなくなると思ったから」
王賁は返事をしなかった。
ただ、頬を涙が伝った。
「馬鹿娘が……」
声が震えていた。
「母など捨てて逃げればよかったものを。それでも生きていたのか」
「はい」
「なら、それでいい。謝るな」
王賁は乱暴に目元を拭った。
その姿を見ながら、俺はようやく少しだけ胸の力を抜いた。
◆
だが、娘が生きていたことと、函谷関を開くことは別の問題だった。
王賁はその場ですぐに降伏を口にせず、しばらく城壁の下にいる俺たちを見つめていた。今ここで門を開けば、五日間押し返してきた楚軍が一気に関中へ入ることになる。
項羽の強さは、実際に戦った王賁自身がよく知っていた。
劉邦では、まず勝てない。
そして秦王である子嬰も、楚軍が咸陽へ入れば無事では済まない可能性が高い。項羽にとって秦は故国を滅ぼした敵であり、叔母の項梁まで秦軍に討たれている。
門を守り続ければ、まだ秦を残せるかもしれない。
王賁がここへ立った理由も、それだった。
しかし今、その城壁の下には死んだはずの娘が生きて立っている。その隣にいるのは、かつて王氏が命を懸けて逃がした公子扶蘇だった。
「公子扶蘇。一つ聞く」
「うん」
「お前は秦を捨てたのか」
俺はすぐには答えなかった。
秦という国。
始皇帝が作った帝国。
胡亥と趙高が支配した宮廷。
そのすべてを同じものとして答えることは、もうできなかった。
「秦の人たちを捨てるつもりはない」
俺がそう答えると、王賁は僅かに眉を動かした。
「国ではなく、人を守ると言うのか」
「今の俺には、その方が大事なんだ。秦って名前を残すために民や兵が死ぬなら、俺はそっちを選ばない。でも、秦で生きてきた人たちまで捨てるつもりもない」
王賁は目を閉じた。
自分が守ろうとしてきた秦と、目の前にいる扶蘇が残そうとしているものは、同じではないのかもしれない。それでも娘は生き、秦兵たちも扶蘇のもとへ集まり始めている。
国号が消えれば、秦は終わる。
そう考えてきた。
だが、王氏も、秦の兵も、秦で暮らしてきた民も、国号と同時に消えるわけではない。
そして公子扶蘇が生きている限り、秦のすべてが途絶えるわけでもなかった。
王賁は最後にもう一度、兜を深く被った王離を見た。
「……門を開けろ」
周囲の秦兵たちがどよめいた。
「将軍、本当に?」
「二度言わせるな。函谷関を開ける」
それから城壁の下へ顔を向ける。
「公子扶蘇。私は降る。ただし、娘をもう一度死なせるような真似をしたら、今度こそお前を斬るからな」
「分かってる」
俺はようやく笑った。
「約束する」
◆
五日間、項羽の猛攻にも耐えた函谷関の門が、重い音を立てながら開き始めた。
その報せを受けた項羽は、事情を細かく問うより先に素直に喜んだ。
「やったではないか、扶蘇! 五日攻めて開かなかった門を、本当に一日で開けたか!」
「昔から知ってる相手だったからな。それだけだよ」
「それをできることが大したものなのだ」
項羽にとって重要なのは、これ以上兵を失わずに関中へ入れるという事実だった。兵糧を受け取ったばかりとはいえ、長い攻城戦を続けるより、そのまま咸陽へ向かえる方がいいに決まっている。
「よし、全軍に通達しろ。今日は関内へ入る。無駄な攻撃はやめさせろ」
項羽が上機嫌で命令を飛ばす横で、范増だけは別のものを見ていた。
扶蘇だった。
五日間、項羽が武力で落とせなかった函谷関を、この男は王氏との繋がりだけで開けてしまった。
しかも、これでまた一人増える。
蒙恬がいる。
楊端和がいる。
そして今、王賁まで扶蘇の側へ加わろうとしている。
その背後には、すでに十万を超える秦兵もいる。
(ますます危うい)
范増が恐れているのは、扶蘇が今すぐ反旗を翻すことではなかった。
本人に野心があるかどうかすら、ある意味では問題ではない。
秦の公子という血筋を持ち、秦の名将たちが集まり、秦兵が従う。それだけの条件が揃えば、本人が望まなくても周囲が王として担ぎ上げることができる。
(項羽は気に入りすぎておる)
今ここで強く危険性を訴えても、項羽は聞かないだろう。それどころか、扶蘇を害そうとしていると受け取られれば、自分の方が疎まれる可能性さえある。
だから范増は何も言わなかった。
ただ、公子扶蘇への警戒をさらに一段深くした。
◆
函谷関開城の急報は、すぐに劉邦のもとへも届いた。
「……開いた?」
報告を聞いた劉邦は、最初は意味が分からないという顔をした。
「はい。守将の王賁殿が降伏し、楚軍を関内へ入れたとのことです」
「五日も項羽を止めてたんだろ。あの王賁が、何で急に開けるんだ?」
「公子扶蘇が到着した後、交渉が行われたようです」
「……扶蘇が?」
劉邦の顔から血の気が引いた。
王賁なら守れると思っていた。項羽といえど、堅固な函谷関を短期間では落とせない。その間に何かしら手を打てると考えていたからこそ、張良と蕭何の反対を押し切って関を閉じたのである。
その計算が、一日で崩れた。
子嬰も同じことを理解していた。
「項羽殿が……関中へ入られたのですね」
声が僅かに震えている。
劉邦はすぐに子嬰の手を取った。
「大丈夫だ。俺が守るって言っただろ。今さら項羽が来たからって、約束を変えるつもりはない」
子嬰は頷いたが、不安は消えなかった。
函谷関という最後の壁がなくなった以上、項羽はもう止まらない。
咸陽まで来る。
しかも今の項羽は、劉邦が自分を締め出そうとして関を閉ざしたことまで知っている。
その場にいた張良は、これ以上正面から劉邦へ諫言しているだけでは間に合わないと判断した。
◆
その夜、張良は密かに咸陽を出た。
向かったのは函谷関を越えた楚軍の後方であり、目的の相手は前線で戦う将ではない。
項伯。
項羽と同じ項氏に属し、楚軍の中では珍しい男である。希少な男を危険な前線へ出す必要もないため、普段は本隊より後方に置かれており、戦場よりも一族や諸将の間を取り持つ役目を担うことが多かった。
張良と項伯には以前から面識がある。
深夜に突然名を告げても、項伯は追い返さなかった。
「こんな時間にどうした、張良。しかも一人で来るとは、穏やかな話ではなさそうだな」
「お願いがあって参りました」
張良は座るなり頭を下げた。
「沛公・劉邦に、項羽殿へ弁解する機会を与えていただきたいのです」
項伯はすぐに意味を理解したらしく、苦い顔をした。
「函谷関を閉じた件か。あれは私でも擁護しづらいぞ。項羽は本気で怒っている」
「承知しております。沛公の判断が軽率だったことも否定いたしません」
「ならば、私にどうしろと?」
「話をする前に戦にならぬよう、間を取り持ってください」
張良は顔を上げた。
「項羽殿と沛公がここで争えば、秦を倒した直後に楚の軍同士が殺し合うことになります。沛公が函谷関を閉じた理由も、関中を奪って項羽殿へ刃を向けるためではありません。少なくとも、その説明を本人の口からさせていただきたいのです」
項伯は腕を組み、しばらく黙っていた。
「項羽が聞くと思うか?」
「聞かせていただくために、あなたのもとへ参りました」
「随分と難しい役目を持ってきたな」
「申し訳ありません」
張良はもう一度頭を下げた。
「ですが、今の楚軍で項羽殿の怒りに割って入れる方は多くありません。どうか一度だけ、沛公に話す機会をください」
項伯はすぐには答えなかったものの、拒絶もしなかった。
函谷関は開いた。
次に必要なのは、閉じられた人と人との間をどう開くかだった。




