↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第4章 秦の終焉

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

96/177

第95話 一日の猶予

 函谷関(かんこくかん)の東から、街道を埋め尽くすほどの荷駄の列が現れた。


 穀物袋を積んだ車、乾物や塩を載せた荷車、それらを引く馬や牛まで含めれば、遠目には一つの軍勢が近づいてくるようにも見える。その先頭に掲げられていたのは、公子扶蘇(ふそ)の旗だった。


 五日間にわたって函谷関(かんこくかん)を攻め続けていた楚軍にとって、それは何より待ち望んでいた援軍だった。兵は疲れ、配給は日に日に減り、あと数日もすれば攻城戦そのものを続けられなくなるところまで追い詰められていたからである。


 項羽(こうう)は荷駄の列を確認すると、周囲が止めるより早く自ら馬を走らせた。


「扶蘇(ふそ)! ようやく来たか!」


 到着したばかりの俺へ、項羽(こうう)はいつもの豪快な笑みを向けた。


「遅くなった。成皋(せいこう)へ寄ってたんだよ。十万を引き受けたはいいけど、あいつらまで食わせようと思ったら、さすがに手持ちじゃどうにもならなかった」


「その結果が、これか」


 項羽(こうう)は俺の後ろに延々と続く荷車を見渡した。すでに楚兵たちも何が運ばれてきたのか気づき始めており、疲れ切っていた陣のあちこちから歓声が上がっている。


「正直に言おう。助かった。あと少し遅ければ、兵に食わせるものが本当になくなるところだった」


「そんなに酷かったのか」


「五日攻めて、まだあの有様だ。兵は腹を空かせ、攻城具を押す力まで落ちている。私一人が元気でも、城は一人では落とせん」


 そう言うと、項羽(こうう)は上機嫌のまま俺の肩を叩いた。


「よく来たな。本当に助かった。今のお前になら、操を捧げても惜しくないぞ」


「……は?」


 思わず聞き返した。


 項羽(こうう)は冗談でも言ったような顔で笑っているが、一度耳へ入った言葉は簡単には消えてくれなかった。


「何だ、その顔は。十万を預けろと言った時より驚いているではないか」


「そりゃ驚くだろ。何をさらっと言ってるんだ」


「嬉しい時は嬉しいと言った方がよかろう」


「表現の仕方があるだろ!」


 項羽(こうう)は腹を抱えて笑った。


 その姿を見ながら、俺は今までほとんど意識していなかったことに気づいてしまった。


 俺にとって項羽(こうう)は、まず武人だった。


 李信(りしん)を一撃で斬り、秦兵の隊列を真正面から粉砕し、あの黥布(げいふ)ですら武を見て震えた相手である。あまりにも戦場での印象が強かったせいで、これまで女として見るという発想がほとんどなかった。


 だが、こうしてすぐ近くに立たれると、嫌でも別の部分まで目に入る。


 まず、とにかく背が高い。俺よりはるかに上背があり、鎧を着た姿は威圧感すらあるのに、顔立ちそのものは意外なほど整っていた。眉は強いが形がよく、鼻筋も通っている。戦場で血と埃にまみれていた時には気づかなかったが、よく見れば十分に美形と呼べる顔だった。


(……いや、何を見てるんだ俺は)


「扶蘇(ふそ)?」


「何でもない」


「顔が赤いぞ」


「疲れてるんだよ」


「荷車を引いてきたのはお前ではないだろう」


「そういう問題じゃない。とにかく、先に兵へ飯を食わせよう。せっかく運んできたんだから、話はそれからでいい」


 俺が強引に話を切ると、項羽(こうう)はまだ面白そうに笑っていたものの、さすがにそれ以上は追及しなかった。


◆


 運び込んだ穀物は、すぐに楚軍へ回された。


 陣の各所では釜が並べられ、久しぶりに十分な量の粥が炊かれ始める。干し肉や塩も配られ、五日間の攻城戦で疲弊していた兵たちの表情は、湯気の立つ飯を前に目に見えて変わっていった。


 空腹を満たすだけではない。


 明日も戦える。


 まだ攻め続けられる。


 そう思わせるだけでも、兵糧の意味は大きかった。


 俺は配給の様子をしばらく見てから、改めて函谷関(かんこくかん)を見上げた。


「それにしても、項羽(こうう)を五日も止めたのか」


「ああ。腹立たしいほど上手い」


 項羽(こうう)は関を睨みながら答えた。


「私が前へ出ても、こちらへ兵を集めて受けようとしない。梯子と攻城具だけを狙い、関全体の守りを崩さぬままこちらを削ってくる。力比べに持ち込めればどうとでもなるが、あの将はそれをさせん」


 項羽(こうう)にそこまで言わせる相手なら、ただの守将ではない。


「誰が指揮してる?」


「王氏の旗が出ている。范増(はんぞう)は、王賁(おうほん)だろうと言っていた」


 一瞬、意味が理解できなかった。


「……王賁(おうほん)?」


「ああ」


「生きてたのか」


 思わず声が低くなった。


 俺が知っていた限り、王賁(おうほん)は咸陽で囚われたままだった。娘である王離(おうり)を従わせるための人質として生かされていたはずであり、その後どうなったのかは掴めていなかった。


 その王賁(おうほん)が、今は函谷関(かんこくかん)で俺たちの前に立っている。


「間違いないのか」


「私自身は顔を見ていないが、王氏の旗があり、守り方も尋常ではない。まず間違いないだろう」


 俺は城壁を見つめた。


 函谷関で俺たちを逃がすため、王離(おうり)とともに殿を務めた女。


 その後に捕らえられ、娘を縛るための人質となった。


 俺は王離(おうり)を救い出したが、その母までは救えていない。


「……よりによって」


 胸の内が重くなる。


 王賁(おうほん)は、王離(おうり)が死んだと信じているはずだ。


 しかも今の俺は、彼女から見れば楚軍とともに函谷関(かんこくかん)へ押し寄せてきた秦の公子でしかない。


◆


「明日は総攻撃をかける」


 項羽(こうう)が関を見ながら言った。


「今日のうちに十分食わせて、一晩休ませる。五日攻めたおかげで守り方も見えたし、兵糧さえ戻ればこちらの勢いも取り戻せる。次は一気に門を破る」


 俺にも、その言葉が強がりではないことは分かった。


 これまで楚軍を苦しめていた最大の原因は、堅固な関そのものだけではない。鉅鹿(きょろく)から戦い続け、まともな休息も取れないまま兵糧まで不足していたことが大きい。


 そこへ大量の食糧が届いた。


 一晩食って休めば、兵は再び動ける。


 そして項羽(こうう)自身の武は、五日経ってもほとんど衰えていない。


 総攻撃を受ければ、函谷関(かんこくかん)がいつまでも保つとは思えなかった。


 そうなれば、王賁(おうほん)もただでは済まない。


「項羽(こうう)」


「何だ?」


「その総攻撃、一日だけ待ってくれないか」


 項羽(こうう)がこちらへ顔を向けた。


「理由は?」


「王賁(おうほん)と話したい」


「降伏させるつもりか」


「ああ。昔から知ってる人なんだ」


 俺は城壁から目を離さないまま続けた。


「魏でも楚でも一緒に戦ったし、俺が咸陽から逃げる時には、母娘で殿を引き受けてくれた。あの時王賁(おうほん)が残らなかったら、俺たちは函谷関を抜けられなかったかもしれない」


 項羽(こうう)は何も言わず聞いている。


「敵になったからって、その全部が消えるわけじゃない。今すぐ総攻撃をかければ、おそらくこちらが勝つ。でも、その前に一度だけ話をしたいんだ」


「五日間、私の兵を殺した敵将だぞ」


「分かってる」


「お前自身を敵だと思っているかもしれん」


「それも分かってるよ」


 俺はそこで初めて項羽(こうう)へ向き直った。


「それでも、助けられる可能性があるなら試したい。話して、それでも王賁(おうほん)が戦うというなら、その後は俺も止めない」


 項羽(こうう)はしばらく黙っていた。


 俺が運んできた荷駄。


 それを食べている楚兵。


 そして、目の前の函谷関(かんこくかん)。


 その三つを順番に見た後、項羽(こうう)は小さく息を吐いた。


「一日だ」


「いいのか?」


「今日お前が持ってきた兵糧がなければ、こちらは総攻撃どころではなかった。その借りくらいは返してやる」


 口元に笑みが浮かぶ。


「それに、私はお前のそういうところも気に入っている」


「嫌な予感しかしない言い方だな」


「さすが、婿に欲しい男だ」


「またそれか!」


 項羽(こうう)は声を上げて笑った。


「冗談だ。たぶんな」


「最後の一言いらないだろ!」


「ともかく一日だけ待つ。明日の日暮れまでに王賁(おうほん)を説得しろ。それでも門が開かなければ、その翌朝には攻める」


「十分だ。ありがとう」


 俺は素直に頭を下げた。


◆


 夕暮れになる頃には、楚軍の陣から久しぶりに炊事の匂いが満ちていた。


 満腹になった兵たちは次々と横になり、翌日の休息を喜んでいる。その一方で俺は、遠くにそびえる函谷関(かんこくかん)から目を離せずにいた。


 あの向こうに王賁(おうほん)がいる。


 彼女は王離(おうり)が死んだと信じ、自分を秦へ残したまま楚と行動をともにする俺を、裏切り者だと思っているかもしれない。顔を合わせたところで話を聞いてもらえる保証などなく、むしろ怒鳴られるくらいならまだ穏当な方だろう。


 それでも、行くしかない。


 王離(おうり)を生かしたまま、その母だけをここで死なせるわけにはいかなかった。


 項羽(こうう)から与えられた猶予は一日。


 その一日で、王賁(おうほん)に門を開かせなければならない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。