第99話 分封
秦が滅びた後、天下にはすぐに別の問題が持ち上がった。
誰が、どの土地を治めるのか。
秦という共通の敵がいる間は、楚も趙も斉も魏も、それぞれの思惑を抱えながら同じ方向へ兵を進めることができた。だが秦がなくなれば、今度は奪った天下を分けなければならず、咸陽には各地の諸侯や将が集められ、項羽を中心として論功行賞が行われることになった。
俺も、その席に呼ばれていた。
◆
項羽が功績を見る基準は、驚くほど単純だった。
戦った者を報いる。
自ら兵を率い、秦軍と刃を交え、実際に功を立てた者には相応の土地を与える。その一方で、名門の出であろうと旧王家の血を引いていようと、自分の目に見える働きがなければ扱いは軽く、各国で王を支えていた将の方が、その王自身より大きく報われることさえあった。
当然、それで誰もが納得するはずはない。
「我が王は反秦の兵を起こした当初から戦を支えてこられた。それなのに、なぜ臣下である将が王より広い地を得るのです!」
「前線へ兵を出したのは我らも同じだ。戦場にいたかどうかだけで功を量られては困る!」
不満の声が次々と上がったが、項羽はほとんど動じなかった。
「兵を出したと言うだけなら誰にでもできる。私が見ているのは、実際にどこで戦い、何を得たかだ」
その返答に、広間の空気はさらに悪くなった。
俺から見ても危うい分け方ではある。
旧六国の王族には、それぞれ長く積み重ねてきた正統性がある。前線で戦った者を厚く報いること自体はおかしくないが、それだけを基準にしてしまえば、戦場へ出る立場になかった王や、後方から兵糧や兵員を支えた者たちに不満が残るのは避けられない。
だが、項羽自身には、その分け方が偏っているという自覚がなかった。
「戦った者が報われず、血筋だけで上にいる者の方が多く土地を取る方がおかしいだろう」
項羽にとっては、それで筋が通っている。
意外だったのは、范増も根本の部分では強く反対しなかったことだった。
「功ある者を報いること自体は間違っておりませぬ。ただ、あまりに旧王家を軽く扱えば、後々まで禍根を残します。土地の配置と王号については、もう少し慎重になさるべきでしょう」
「だから、お前にも見てもらっている」
「見ているから申し上げているのです」
范増は呆れながらも、誰をどこへ置くかについては細かく口を挟んでいた。
俺は二人のやり取りを聞きながら、かつて知識として覚えていた天下分封が、目の前で少しずつ形になっていくのを眺めていた。
◆
やがて、俺の名が呼ばれた。
「公子扶蘇。お前は何を望む?」
項羽が、最初から答えを楽しみにしていたような顔で尋ねてくる。
ここで迷う理由はなかった。
「関中王を望む」
広間のあちこちから声が漏れた。
范増の表情も、予想通り険しくなる。
「なりませぬ」
「やっぱりそう言うと思った」
「当然でございます。関中は秦の本拠、そこへ秦の公子である扶蘇殿を置けば、旧秦の兵も民も自然と集まります。すでに十万を超える秦兵を率い、蒙恬殿、楊端和殿、王賁殿まで擁している。その上で関中まで与えれば、秦を滅ぼした直後に、同じ土地で別の秦を作るようなものです」
「だが関中を治めるなら、扶蘇が一番ましだろう」
項羽はあっさり返した。
「秦人はこいつを知っているし、郡県の仕組みも法も分かっている。民から恨みを買っていたわけでもない。知らない者を置いて反乱を起こされるよりいい」
「だからこそ危険なのです。秦人が喜んで従う者を、秦の故地へ戻すのですぞ」
「反旗を翻したら、その時に私が討つ」
范増が頭を抱えそうな顔になった。
「十万の秦兵を預けられた時にも、まったく同じことを仰いましたな」
「実際、問題なく連れているではないか」
「今は、でございます」
「なら今はそれでいい」
項羽はそう言って俺を見ると、楽しそうに口元を上げた。
「それに、いずれ私の婿になる男だ。関中くらい任せても構わん」
「その話を当然の前提みたいに混ぜるなよ」
思わず視線を逸らしたところで、妙な場所を見てしまった。
座った項羽の脚だった。
軍議とはいえ重い甲冑を着けているわけではなく、衣の合わせ目から覗く太腿が、思ったより近いところにある。
(見るな、俺)
すぐに顔を戻そうとしたが、僅かに遅かった。
項羽はきっちり気づいている。
「ほう」
「何だよ」
「今、私の脚を見たな?」
「見てない」
「見ていた」
「視線の先にたまたまあっただけだ!」
項羽は機嫌良さそうに笑う。
「何だ。婿になる気が少しは出てきたか?」
「出てない!」
「顔が赤いぞ」
「暑いんだよ」
「ここは寒いくらいだがな」
周囲から笑いが漏れた。
范増だけは、まったく笑っていなかった。
◆
「くだらない!」
突然、鋭い声が広間へ響いた。
笑いが止まり、視線が一斉にそちらへ集まる。
立ち上がっていたのは、秦との戦にも加わった一人の女将だった。率いていた軍は大きくないものの、自ら兵を動かして戦った者であり、今回与えられた土地が本人の望んだものより遥かに小さかったらしい。
「何が論功行賞だ! 気に入った者には好きなだけ土地を与え、気に入らぬ者には端切れを投げる。これのどこが天下を分ける話だ!」
近くにいた諸侯たちの顔色が変わった。
それでも女将は止まらない。
「戦った者を報いると言いながら、結局はお前の好き嫌いではないか! 秦を倒した後に始めるのが、こんなままごととは笑わせる!」
項羽の顔から笑みが消えた。
范増が口を開くより早く、項羽は立ち上がって腰の剣を抜いた。
一歩で間合いへ入る。
刃が女将の首筋を走り、その身体が床へ崩れ落ちた。
広間のざわめきが消えた。
項羽は剣についた血を払い、何事もなかったかのように鞘へ収める。
「他に、不満のある者はいるか?」
誰も答えなかった。
さっきまで俺をからかって笑っていた女と、目の前で人を斬った女は同じ人物だった。
項羽は気に入った者や、自分が認めた相手には驚くほど寛大だ。だが一度敵と見なした者や、自分の筋を踏みにじったと感じた相手には、その寛大さがまるで残らない。
そして范増も、斬られた女を見るより、黙り込んだ諸侯の顔を確かめていた。
誰も、もう異を唱えなかった。
◆
論功行賞の結果、俺は関中王となった。
范増は最後まで難色を示していたものの、項羽が決定を変えなかったため、そのまま認めざるを得なかった。
一方、劉邦は関中を得られなかった。
誰より早く咸陽へ入ったにもかかわらず、与えられたのは南西の漢中を中心とする土地だった。
漢中王。
王号は得たものの、山々に囲まれた土地へ押し込められたことに変わりはない。
劉邦本人も不満を隠そうとはしなかったが、鴻門で命を拾ったばかりの立場で項羽へ正面から逆らうことはできず、結局は与えられた任地へ向かうしかなかった。
その項羽自身は、咸陽へ留まるつもりがなかった。
「私は彭城へ戻る」
范増は関中の豊かさと地勢を挙げ、ここを天下の中心とする利を何度も説いたが、項羽の意思は変わらない。
「私は楚の人間だ。秦の都に住む気はない」
そうして諸侯への分封を終えると、項羽は軍を率いて東の彭城へ帰る準備を始めた。
◆
劉邦が漢中へ向かう直前、蕭何が一人の女を連れてきた。
「沛公。この者を大将軍にしてください」
「いきなり大将軍?」
劉邦は、連れてこられた女へ目を向けた。
最初に目についたのは、ろくに整えていない髪だった。
長い髪は後ろで適当に束ねているだけで、ところどころが跳ね、額にも何本か垂れている。衣も実用一点張りで飾り気がなく、化粧らしい化粧もしていないうえ、姿勢もどこか気怠そうで、少なくとも男の目を意識しているようには見えなかった。
美醜以前に、本人がそういうものへまるで関心を払っていない。
張良を初めて見た時のように、劉邦の目つきが変わることもなかった。
「名は?」
「韓信」
女は短く答えた。
頭を下げる動作にも愛想はなく、緊張している様子さえほとんどない。
「こいつが、そんなに凄いのか?」
劉邦が蕭何を見る。
「もし沛公が本当に漢中で一生を終えるおつもりなら必要ありません。しかし、まだ天下を望んでおられるのであれば、韓信殿を逃してはなりません」
その言葉で、劉邦の顔つきが変わった。
「そこまで言うか」
「はい。私が知る限り、大軍を任せるに値する者として、この方以上の者はおりません」
劉邦はもう一度韓信を見た。
どう見ても歴戦の将という風格はなく、樊噲のように立っているだけで武勇が伝わってくるわけでもない。ぼさぼさの髪に、色気の欠片もない格好をした女が、面倒そうな顔で立っているだけだった。
「本人はどうなんだ。いきなり大将軍になれって言われて、何か言うことはないのか?」
「兵をくれるなら使う」
韓信は平然と答えた。
「勝てるのか?」
「兵と食糧が足りるなら」
「随分簡単に言うな」
「難しく言えば勝てるわけでもない」
劉邦は一度目を瞬かせ、それから蕭何を見た。
「変な女を拾ってきたな」
「才は確かです」
「まあ、お前がそこまで言うならいい。やらせてみるか」
あまりにも簡単な決定だった。
その場にいた張良は、初めて少しだけ韓信へ興味を向けた。
(この女を、いきなり大将軍に?)
戦功も名声もほとんどない。
どういう戦をする者なのか、張良自身にもまだ分からなかったが、蕭何がここまで強く推す人物を軽く見る気にもなれなかった。
以前なら、自分も残って確かめたかもしれない。
だが、今はもう違った。
◆
「私は、韓王のもとへ戻ります」
出発を前に、張良は劉邦へそう告げた。
「戻るって、本気か?」
「はい。もともと私は韓の人間です」
秦によって滅ぼされた韓は、今回の分封によって再び国として立てられている。
韓の旧臣である張良が戻ること自体に、不自然なところはなかった。
「俺と一緒に来ればいいだろ。漢中だって、そのうち何とかする」
「沛公には蕭何殿がおり、樊噲殿も、曹参殿も、灌嬰殿もおります。そして今は、韓信殿まで加わりました。私一人が抜けても、軍が立ち行かなくなることはないでしょう」
「でもよ」
「今まで、お世話になりました」
張良は深く頭を下げた。
子嬰をあっさり見捨てた時に切れたものは、もう繋がらなかった。
劉邦は最後まで不満そうだったが、無理に引き止めることもできず、やがて張良が韓へ戻ることを認めた。
「じゃあな。またどこかで会うだろ」
「乱世が続くのであれば、いずれ」
張良はそれだけ答え、劉邦のもとを去った。
◆
劉邦軍が漢中へ向かう途中、韓信は一つの命令を出した。
「通ってきた桟道を焼け」
険しい山中に築かれた木造の道へ火が放たれ、長く連なる桟道が次々と炎に包まれていった。
その報せは、ほどなく各地へ広まる。
「劉邦は、もう関中へ戻る気がないらしい」
「桟道まで自分で焼いたのだ。漢中で骨を埋めるつもりなのだろう」
諸侯の多くはそう判断した。
項羽も大して気に留めず、辺境へ追いやった劉邦が自ら退路まで断ったのなら、むしろ都合がいいと考えた。
だが、その報せを関中で聞いた俺だけは、別の意味を知っていた。
「……始まったか」
隣にいた蒙恬がこちらを見る。
「何がでございますか?」
「いや、何でもない」
俺はそれ以上口にしなかった。
焼かれた桟道を見て、天下の誰もが劉邦は漢中へ引きこもるのだと考える。
だが、あの道を焼く意味はそれだけではない。
表の道を消し、別の道へ目を向けさせない。
その策を進める者の名を、俺は知っている。
韓信。
ぼさぼさの髪で劉邦の前に現れた一人の女が、とうとう天下の争いへ加わった。
秦が滅び、諸侯が土地を分け合ったことで、一度は戦が終わったように見えている。
だが、項羽の楚、劉邦の漢、そして関中を得た俺たちの道は、ここから別々の方向へ動き始めようとしていた。




