第100話 関中王
関中の王となってからというもの、俺の一日は以前よりも短くなったように感じられた。
秦が滅びたことで戦が終わったわけではない。むしろ、これまで秦という巨大な仕組みが押さえ込んでいた問題が、一度にこちらへ流れ込んできたようなものだった。荒れた郡県を立て直し、逃げた官吏の代わりを置き、戦乱で耕されなくなった土地へ人を戻し、十万を超える兵の処遇まで決めなければならない。
その中でも、俺が最初に手をつけたのは法だった。
秦という国が、なぜあれほど短く終わったのか。
前世で学んだ歴史を抜きにしても、この世界で実際に秦の内側を見てきた俺には、一つ思い当たるものがある。
法が苛烈すぎた。
人を治めるために作られたはずの法が、いつしか人を縛り、怯えさせるためのものになっていた。
◆
政務の合間、古い竹簡を手にしていると、ふと韓非のことを思い出すことがある。
まだ俺が幼かった頃、韓非は法について何度も話してくれた。
人は善なのか、悪なのか。
その問いに、俺はいまだ答えを出せていない。
善人だと思っていた者が追い詰められて人を裏切ることもあれば、悪人と呼ばれた者が最後には誰かを守ろうとすることもある。ここまでの乱世を見てきた今となっては、人を善と悪の二つだけに分ける方が無理なのだと思う。
だが、韓非は人の善性を信じなかったからこそ、法が必要だと考えていた。
同時に、昔こんなことも言っていた。
李斯が法を作れば、きっと苛烈になる、と。
あの時の俺には、二人の思想の違いを完全には理解できていなかった。どちらも法家で、同じように法によって国を治めようとしているように見えていたからだ。
だが、秦の末期まで見届けた今なら分かる。
李斯は制度を信じすぎた。
正しい命令があり、正しい罰があり、それを誰に対しても同じように適用すれば国は治まる。その考えそのものは間違っていなかったのかもしれないが、人間が制度の重みに耐え切れなくなるところまで法を締め上げれば、最後には法そのものが国を壊してしまう。
「……結局、先生の言った通りになったな」
竹簡へ目を落としながら呟いた。
李斯は、いつの間にかこの世を去っていた。
胡亥と趙高の宮廷が崩れていく中で病を得、そのまま回復することなく死んだという。あれほど秦の制度を支え続けた女の最期としては、驚くほど静かなものだった。
俺は李斯を嫌ってはいない。
むしろ、最後まで秦という仕組みを守ろうとした点では、尊敬している部分すらある。
だからこそ、その失敗まで引き継ぐつもりはなかった。
◆
関中では、秦の行政そのものを壊さなかった。
郡県制も、戸籍も、土地の記録も、その多くはそのまま使っている。せっかく各地まで行き届いている仕組みを、秦が滅んだからという理由だけで捨てれば、困るのは民だからだ。
変えたのは、その運用だった。
罪を犯した者は裁く。
だが、一つの罪から家族や隣人まで巻き込み、連座によって際限なく罰を広げるやり方は縮小した。徴税も、その年の収穫を無視して同じだけ取り立てることはやめ、戦乱で荒れた地域には減免を認めた。
労役についても同じだった。
秦の末期には、阿房宮や驪山の工事にあまりにも多くの人間が投入された。そのために畑から人が消え、徴税を支えるはずの生産そのものが壊れていった。
だから不要な大工事は止めた。
その代わり、壊れた水路や道路、倉の修復には人を使う。
民に働かせること自体をなくすのではなく、その労力が民自身へ返るところへ使うようにした。
人は善なのか、悪なのか。
今も分からない。
だが、善人であることを前提に国を作る必要もなければ、悪人であることを前提に過酷な罰で縛る必要もない。
悪いことをすれば罰せられる。
普通に暮らしている限り、必要以上に役人を恐れなくていい。
俺が作ろうとしているのは、その程度の国だった。
「その程度が、一番難しいのですけれどね」
政務の報告書を抱えてきた蒙恬が、俺の考えを聞いて小さく笑った。
「分かってるよ」
「扶蘇様は、時折ひどく簡単そうに仰います」
「簡単だと思わないとやってられないんだよ」
そう言って笑ったものの、机の上にはまだ処理していない竹簡が山のように積まれていた。
◆
関中だけを見ていればいいわけでもなかった。
かつて北辺に残してきた十万の秦兵について調べさせたところ、その多くはすでに部隊として残っていなかった。
胡亥政権の混乱の中で各地へ分散させられ、反乱の鎮圧や郡県の守備へ投入され、一部はそのまま戦乱へ飲み込まれている。生き残った者も故郷へ帰ったり、別の軍へ加わったりしており、かつての北辺軍をそのまま呼び戻せる状態ではなかった。
その空白を、匈奴が見逃すはずもない。
北から届く報告には、再び侵入が増えていると書かれていた。
小規模な略奪だけではない。
国境近くの集落を襲い、家畜を奪い、人を連れ去る動きまで出始めている。
「頭曼が動き始めたか」
俺が地図を見ながら呟くと、隣にいた蒙恬が頷いた。
「北辺の守りが薄くなったことは、向こうにも伝わっているのでしょう。このまま放置すれば、さらに南へ出てくる可能性がございます」
「関中を立て直したら、北も何とかしないとな」
「その前に国内が安定すればよいのですが」
蒙恬が指したのは西だった。
漢中。
そこには劉邦がいる。
そして、その傍らには韓信がいる。
桟道を焼いたという報告を聞いて、諸侯の多くは劉邦が漢中へ引きこもるつもりだと思っている。
俺だけは、それを信じていなかった。
あれは終わりではない。
始まりだ。
韓信が本当に俺の知る人物に近いなら、今頃すでに関中へ戻る道を考えているはずだった。
北には匈奴。
西南には劉邦。
東には項羽がいる。
関中王になったからといって、落ち着いて王様らしい暮らしを楽しめるほど天下は親切ではなかった。
◆
そんな日々の中で、俺が倒れずにいられたのは、蒙恬のおかげだった。
朝から政務を始め、日が落ちても竹簡を読んでいると、決まって蒙恬がやって来る。
「もうお休みください」
「あと三つ」
「昨日もそう仰って、七つ処理なさいました」
「今日は本当に三つ」
「では、その三つは明日の最初に回しましょう」
そう言いながら、勝手に竹簡を取り上げる。
「王に対して随分強引じゃないか?」
「幼い頃からお世話してきた方が王になられた程度で、急に扱いを変えるほど器用ではございません」
「程度って」
俺が苦笑すると、蒙恬も笑った。
王になってから、周囲の人間の態度は少しずつ変わった。
以前よりも深く頭を下げられるようになり、何を言ってもまず肯定してから意見を述べる者も増えた。
蒙恬だけは変わらない。
それがありがたかった。
◆
ある夜、蒙恬はいつもより長く俺の部屋に残っていた。
「まだ何かある?」
寝台へ腰掛けながら尋ねると、蒙恬は少し迷った後、俺の隣へ座った。
「扶蘇様も、もう二十代の後半でございますね」
「いきなり年齢の話?」
「大切なことでございます」
「嫌な予感がするな」
蒙恬は俺の冗談には乗らず、少しだけ表情を柔らかくした。
「そろそろ、世継ぎのことをお考えになるべきかと」
予想していなかったわけではない。
関中王となった以上、俺一人の問題ではなくなった。俺に何かあった時、誰がこの土地と人を引き継ぐのかは、政治そのものに関わってくる。
「そうだよな」
「はい」
蒙恬はそう答えたものの、その声はどこか寂しそうだった。
俺は横顔を見る。
「蒙恬?」
「何でもございません」
「何でもない顔じゃないけど」
俺が手を伸ばすと、蒙恬は少しだけ迷った後、そのまま俺の肩へ身体を預けた。
彼女も、もう四十を過ぎている。
俺が幼かった頃には大人の女にしか見えなかった蒙恬だが、今こうして間近で見ると、目元や髪に過ぎた年月が僅かに刻まれている。
それでも俺にとっては変わらず美しかった。
「今日は随分弱気だな」
「私にも、そういう夜はございます」
「じゃあ、今日は俺が甘やかす番か」
「できるのですか?」
「失礼だな」
笑いながら蒙恬の頬へ触れると、その手に彼女の手が重なった。
しばらく見つめ合った後、蒙恬の方から俺へ顔を寄せた。
唇が重なる。
北辺で再会してから、何度こうして触れ合ったか分からない。
それでも忙しい日々が続いたせいか、ゆっくり二人だけで過ごす夜は久しぶりだった。
「扶蘇」
周囲に誰もいない時だけの呼び方だった。
「何?」
「もう少し、こちらへ」
俺は言われるまま蒙恬を抱き寄せた。
戦場では何万もの兵を動かし、今も俺の政務を支えてくれている女が、二人きりになると素直に身体を預けてくる。その温もりを感じながら、俺も久しぶりに王でも公子でもない自分へ戻れた気がした。
その夜、二人は長く離れなかった。
◆
しばらくして、俺の胸へ頬を寄せていた蒙恬が静かに口を開いた。
「本当は、欲しかったのです」
「何を?」
尋ねた瞬間、何のことか分かった。
蒙恬は目を伏せた。
「扶蘇との子を」
俺は何も言えなかった。
北辺で結ばれた時から、それを考えなかったはずはない。そもそも母上が蒙恬を俺のもとへ置いた理由の一つにも、世継ぎを残させる意図があった。
だが戦乱が続いた。
俺たちは逃げ、戦い、国を失い、ようやく関中に戻ってきた。
気づけば蒙恬は四十を越えている。
「まだ、絶対に無理だと決まったわけじゃ」
「分かっております」
蒙恬は穏やかに笑った。
「ですが、期待だけで時を止めることはできません。私は自分の年齢くらい分かっておりますし、扶蘇には世継ぎが必要です」
その口調は落ち着いていた。
それでも俺を抱く腕には、ほんの少しだけ力が入っていた。
「私は扶蘇との子が欲しかった。それは今でも変わりません。でも、それが叶わないのなら」
蒙恬はそこで顔を上げた。
「今度は、孫が欲しいです」
「……孫?」
一瞬、意味が分からなかった。
だが、蒙恬が何を言おうとしているのか気づいた時、俺は思わず身体を起こした。
「待て。まさか」
「はい」
蒙恬は、妙に真面目な顔をしていた。
「蒙凛を妻にしてください」
俺はしばらく何も言えなかった。
「いやいやいや」
「何か問題が?」
「あるだろ!」
「蒙凛は扶蘇を慕っております。扶蘇も嫌ってはいないでしょう?」
「嫌ってないけど、そういう問題じゃ」
「ならばよいではありませんか」
「よくない!」
さっきまでのしっとりした空気が、どこかへ消えた。
蒙恬は俺の反応がおかしいのか、少し楽しそうに笑っている。
「私は本気ですよ」
「余計に困るんだよ」
「扶蘇に子ができれば、私にとっても孫になります。悪い話ではないでしょう」
「理屈だけならそうだけど!」
母娘そろって同じ男を、という時点で俺の感覚では十分に大問題だった。
もっとも、この世界の価値観からすれば、俺ほど強く引っかかる話ではないのかもしれない。
蒙恬は俺の胸元へもう一度身体を預けると、今度は少しだけ寂しそうに笑った。
「すぐに答えをくださいとは申しません。ただ、考えてください。扶蘇はもう、自分一人の人生だけを考えていればよい御方ではありませんから」
その言葉には反論できなかった。
関中王となった。
土地を持ち、兵を持ち、俺を頼る人間も増えた。
ならば世継ぎの問題から逃げ続けるわけにはいかない。
それでも。
(よりによって蒙凛か……)
俺は天井を見上げた。
北には匈奴。
漢中には劉邦と韓信。
東には項羽。
そして身近には、世継ぎという新しい問題まで増えたらしい。
関中王になっても、どうやら平穏とは縁がなさそうだった。




