第101話 ふたりの妻
蒙恬から世継ぎの話をされた翌日、俺は幕下の面々を集めた。
関中王となった以上、婚姻はもう俺だけの問題ではない。誰を妻に迎え、誰が次の世代を担うのかは、この先の関中の安定にも関わってくる。そう頭では分かっていたが、いざ自分の口から告げるとなると、戦場へ出る時とは違う緊張があった。
「皆に話がある。俺は、蒙凛を妻に迎えたいと思っている」
昨夜すでに話を聞いている蒙恬だけは涼しい顔をしていたが、当の蒙凛はしばらく俺を見つめたまま動かなかった。やがて意味を理解したらしく、頬から耳まで一気に赤くなる。
「……私を、ですか?」
「ああ。正式な儀式はこれから決めるけど、俺はそうしたいと思ってる」
「お待ちください!」
予想どおり、王離が勢いよく立ち上がった。
「なぜ蒙凛なのですか。私との婚姻のお話は、どうなったのでしょう!」
「忘れてないよ。ただ、お前はずっと戦死したことになってただろ。今までは公に妻にすること自体が難しかったんだ」
「ですが母上もこちらにおります。事情はすでに変わっております」
すると今度は王賁まで腕を組んだ。
「扶蘇様。母・王翦が昔、扶蘇様へ何と申し上げたかは覚えておられますな?」
「……王離を妻に、だろ」
「お忘れでないなら結構。それなのに王氏との話を横へ置いて、先に蒙凛を妻にすると言われれば、こちらとしても黙ってはいられません」
その言い方に、今度は蒙恬が眉を上げた。
「王賁殿。婚姻は当人同士の意思が第一ではございませんか。親や祖母が交わした話だけで決めるものでもないでしょう」
「昨夜、自分の娘を扶蘇様へ勧めた者がそれを言うのか?」
「なぜご存じなのです!」
「今朝から妙に満足そうな顔をしている」
「顔だけで分かるわけがないでしょう!」
気づけば、俺の婚姻を決めるはずの話が、蒙恬と王賁の言い争いになっていた。その間で蒙凛と王離まで互いを意識し始めているのだから、幼い頃からの競争心というものは厄介だった。
そんな状況を一番楽しんでいるのが黥布だった。
「ははははっ! 関中王になった途端、今度は嫁を巡って内乱か。王ってのも大変だな!」
「笑ってないで助けろよ」
「嫌だね。こんな面白えものを止める奴があるか」
黥布はひとしきり笑った後、今度は自分を指差した。
「そういや俺の話も忘れてねえだろうな。早いところ俺も王にしてくれよ」
「まだ早い」
「またそれか!」
「俺が関中王になったばかりなのに、翌日から家臣へ王号を配り始めたらどう見えるんだよ」
「景気がよくていいだろ」
「よくない」
俺が呆れると、黥布は今度は蒙凛と王離へ向き直った。
「まあ、お前らも喧嘩してる暇があるなら早く決めた方がいいぜ。ぐずぐずしてっと、今度こそ項羽に扶蘇を取られるぞ」
「それは駄目です!」
誰より先に声を上げたのは楊端和だった。
一同の視線が集まる。
楊端和自身も、自分が何を叫んだのか今になって気づいたらしい。みるみる頬が赤くなった。
「いえ、その……扶蘇様は関中王です。楚へ婿入りされるなど、政治的にも軍事的にも問題があるという意味でございます」
「へえ。政治的ねえ」
黥布が楽しそうに笑う。
「黥布。それ以上何か言えば斬りますよ」
「俺ぁまだ何も言ってねえぞ」
十分に言っているようなものだった。
◆
このままでは話が終わらない。
俺は一度息を吐き、蒙凛と王離へ向き直った。
「二人とも、聞いてほしい。俺はどちらか一人を選ぶつもりはない」
二人の表情が変わる。
「蒙凛にも、王離にも、俺の妻になってほしいと思ってる」
さすがに二人とも驚いたようだった。
「王だから二人とも娶る、なんて話じゃない。蒙凛とは小さい頃からずっと一緒にいて、何度も命を預けてきた。王離にも、函谷関で命を懸けて俺を逃がしてもらったし、それ以前から何度も一緒に戦ってきた。二人とも、俺にとって大切な人なんだ」
言葉にしてしまうと、急に恥ずかしくなった。
「だから、二人がそれでもいいと思ってくれるなら、俺の妻になってほしい」
先に答えたのは王離だった。
「私は構いません」
「即答なんだな」
「祖母との約束がなくとも、私は以前から扶蘇様のお傍にいたいと思っておりました。蒙凛と一緒なのは少し癪ですが、その程度で諦めるつもりもございません」
「最後の一言はなくてもよかったと思う」
隣では蒙凛が俯いたまま、膝の上で指を握り合わせていた。
「蒙凛は?」
尋ねると、ようやく顔を上げる。
「私も……扶蘇様が本当に私を妻にしてくださるのなら、嬉しいです」
「本当にいいのか?」
「何度も聞かないでください。せっかく言えたのに……」
再び顔を赤くして目を逸らしてしまう。
蒙恬と王賁はまだ何か言いたそうだったが、当人たちが決めた以上、それ以上争う理由もなくなったらしい。
こうして俺は、蒙凛と王離の二人を妻として迎えることになった。
◆
正式な婚姻の儀式は後日行うことになったが、その夜だけは三人で過ごした。
昼間までの勢いが嘘のように、寝所へ入った蒙凛と王離は静かだった。戦場なら何千もの兵を前にしても怯まない二人が、今は寝台の端へ妙に姿勢よく座り、互いに目を合わせようともしない。
「……二人とも、戦場へ行く時より緊張してないか?」
「扶蘇様は経験がおありだから、そんなことが言えるのです」
王離が恨めしそうに俺を見る。
「私たちは、その……初めてなのですよ」
言い終えた頃には、耳まで赤くなっていた。蒙凛も同じように俯いている。
「無理する必要はないよ。今日は三人で一緒にいる。それだけでもいい」
俺は二人の間へ腰を下ろし、それぞれの手を取った。
蒙凛の指先が僅かに震え、王離もいつものような力強さはなく、そっと握り返してくる。
「何だか、おかしいですね」
しばらくして蒙凛が小さく笑った。
「小さい頃からずっと一緒だったのに、手を握るだけでこんなに緊張するなんて」
「言われてみればそうだな」
俺も笑うと、ようやく三人の間にあった硬さが少しほどけた。
まず蒙凛の頬へ触れる。
彼女は少しだけ身を強張らせたものの、すぐに目を閉じた。唇を重ねると、俺の衣を掴む指に僅かに力が入り、離れた後には恥ずかしそうに胸元へ顔を伏せる。
「……顔を見ないでください」
「それは無理だろ」
「今だけです」
反対側から、今度は王離の視線を感じた。
「私もおりますが」
「忘れてないよ」
「ならば結構です」
そう言ったくせに、俺が向き直ると王離は急に黙り込んだ。大剣を振るえば何人もの兵をまとめて薙ぎ倒す女が、口づけを待っている今だけは妙に頼りなく見える。
「目、閉じなくていいのか?」
「閉じます!」
慌てて目を閉じた姿に少し笑いそうになりながら、今度は王離へ口づける。
最初は身体を固くしていたものの、やがて自分から俺の肩へ腕を回してきた。唇が離れると、しばらく顔を上げなかった。
「……扶蘇様だけ、慣れておられてずるいです」
「俺だって緊張してるって」
「そうは見えません」
蒙凛まで小さく頷いたので、俺は苦笑するしかなかった。
その後は急がなかった。
手を握り、寄り添い、互いの距離に慣れるように少しずつ時間を重ねた。蒙凛は恥ずかしさを隠せず何度も俺の肩へ顔を埋め、王離は平静を装おうとして、そのたびに頬を赤くしている。
戦場では何度も背中を預けてきた二人だった。
けれど今夜だけは、剣も弓も必要なかった。
灯りが落ちる頃には、三人の間にあった緊張もずいぶん薄れていた。
その先は、三人だけの夜になった。
◆
同じ頃、廊下を歩いていた楊端和は、ふと足を止めた。
別に寝所を覗こうとしたわけではない。ただ通りかかった時、扉の向こうから聞き覚えのある三人の声が微かに漏れてきただけだった。
何をしているかなど考えるまでもない。
(……立ち去りなさい)
自分へそう命じたのに、すぐには足が動かなかった。
昼間、黥布が項羽に取られると言った瞬間、自分でも驚くほど強く否定してしまった。その理由を考えないようにしていたが、今こうして扶蘇が他の女と夜を過ごしていると思うと、胸の奥に小さな痛みが生まれる。
「……私は、何を期待しているのでしょうね」
ようやくその場を離れ、夜風の吹く庭へ出た。
扶蘇には蒙恬がいる。今夜からは蒙凛と王離まで妻になった。
それでも、項羽に取られるのは嫌だった。
他の女のものになると考えるだけで、こんなにも胸が騒ぐ。
そこまで認めた時、楊端和はようやく、自分が抱えているものを誤魔化しきれなくなった。
「……困りましたね」
木陰に立ち、しばらく夜空を見上げた。
今すぐどうしたいのかまでは分からない。ただ一つだけ、はっきりしたことがある。
扶蘇を、ただの主君として見ているわけではなかった。
その夜、楊端和が寝所へ戻ったのは、ずいぶん遅くなった。
一方の俺はそんなことなど何も知らず、二人の新しい妻に挟まれながら、久しぶりに政務も戦も忘れて眠っていた。




