第102話 再び動く天下
彭城へ戻った項羽は、秦を滅ぼした覇者として新たな天下の中心に立った。
だが、その天下には一人、扱いの難しい存在が残されていた。
楚王心。
かつて項梁が楚王家の血を引く者として担ぎ上げ、反秦勢力の旗印となった王である。秦が健在だった頃には、その血筋にも大きな意味があった。だが秦が滅び、実際に天下を分けたのが項羽となった今、その存在は次第に邪魔なものへと変わっていた。
「王には、南へ移っていただく」
項羽はそう決めた。
名目上は新たな領地を与えて移すだけだったが、実際には彭城から遠く離れた僻地への追放に近い。楚王心が不満を抱いたとしても、すでに彼女には項羽へ抗うだけの兵力は残されていなかった。
項羽にとって、それで話は終わっていた。
しかし范増は違った。
「生かしておけば、いずれ誰かが旗印として利用いたしましょう」
楚王心は何もせずとも王家の血を持っている。その血筋に価値を見いだす者が現れれば、項羽に不満を抱く諸侯を集める旗になりかねない。
范増は項羽へ改めて許可を求めることもなく、密かに手を回した。
そして楚王心は、任地へ向かう途中で死んだ。
◆
その報せを聞いた時、虞は背筋に冷たいものを感じた。
秦王であった頃の名は、子嬰。
今ではその名を捨て、項羽から与えられた虞という名で生きている。
項羽は自分を殺さなかった。
首へ剣を当てながら「子嬰は死んだ」と告げ、その場で新しい名まで与えた。気まぐれと言ってしまえばそれまでだが、その気まぐれがなければ、自分はとうに秦最後の王として首を落とされていた。
だからこそ、楚王心の死は他人事ではなかった。
(用がなくなれば……殺される)
秦王であった自分を生かしておく理由など、本来ならどこにもない。
今は項羽に気に入られている。
ただ、それだけだ。
項羽という女は極端だった。
気に入った相手には驚くほど寛大で、扶蘇には十万を超える秦兵を預け、関中まで与えてしまった。その一方で、自分へ面と向かって逆らった者を斬る時には、ほとんど迷いを見せない。
好かれている間は安全。
ならば、好かれ続ければいい。
そう考えるのは自然だった。
◆
「お帰りなさいませ」
項羽が戻ると、虞はいつもより丁寧に迎えた。
酒を用意し、自ら酌をする。旅の疲れを労い、彭城の暮らしに不自由がないよう細かく気を配った。
項羽はしばらく黙ってそれを受けていた。
やがて杯を置く。
「虞」
「はい」
「何を怯えている?」
虞の手が止まった。
「……何のことでしょう」
「私に殺されたくないから機嫌を取っているのだろう」
胸の内をそのまま言い当てられた。
虞は咄嗟に否定しようとしたが、項羽の目を見てやめた。この女を相手に、下手な媚びや嘘を重ねても意味がない。
ならば。
「はい」
虞は杯を置いた。
「怖いです」
項羽が僅かに眉を上げる。
「私は秦王でした。あなたにとって、秦を滅ぼした証として殺してしまうのが一番分かりやすい存在だったはずです。それを気まぐれで生かされ、今はこうして傍に置かれている。ですが、その気まぐれがいつ終わるのか、私には分かりません」
口に出すほど、恐怖が現実のものになっていく。
「楚王心も王でした。それでも必要がなくなれば、あのようになる。ならば私も、あなたが飽きた日に殺されるのではないかと考えます」
項羽は答えなかった。
怒らせたかもしれない。
それでも虞は目を逸らさなかった。
「ですから、あなたに尽くそうとしました。捨てられないように。殺されないように」
「なるほどな」
やがて項羽が笑った。
次の瞬間、腕を掴まれた。
「きゃっ」
引き寄せられ、そのまま項羽の胸元へ抱き込まれる。虞が驚いて見上げると、項羽は愉快そうに笑っていた。
「そちらの方がいい」
「……何がです?」
「怖いなら怖いと言え。嫌なら嫌だと言え。先ほどまでのお前は気味が悪かった」
「気味が悪いとは、随分ですね」
「秦王だった頃のお前は、首へ剣を当てても私を睨んでいたぞ。それが急に従順な女の真似を始めれば、何か企んでいると思うだろう」
虞は言葉に詰まった。
どうやら自分は、完全にやり方を間違えていたらしい。
「それでは……私はどうすればよいのです」
「好きにしていろ」
「それが一番困るのですが」
「なら、私が怖い時はそう言えばいい」
項羽は笑いながら、さらに腕へ力を込めた。
「少なくとも、怯えていることを隠して媚びるお前より、今のお前の方が私は好きだ」
虞はその顔を見つめた。
やはり分からない女だった。
恐ろしい。
何をするか分からない。
それなのに、不思議と先ほどまでより呼吸は楽になっていた。
「……やはり、あなたは怖い人です」
「そうか」
「そこで笑うところも含めてです」
項羽はますます楽しそうに笑った。
虞は呆れながらも、今度は無理に笑顔を作らなかった。
少なくとも、この女の前ではその方が長生きできそうだった。
◆
秦が滅び、天下は分けられた。
諸侯はそれぞれの国へ戻り、長く続いた戦乱がようやく終わったようにも見えた。
だが、その平穏はあまりにも短かった。
最初に火の手が上がったのは斉だった。
項羽の論功行賞によって定められた新たな王に対し、斉の田氏が反旗を翻したのである。分封そのものへの不満に加え、斉の内情を無視して王を置いたことへの反発も強く、争いは瞬く間に広がった。
そして、項羽が封じた王が殺された。
新たな天下の秩序は、作られて間もないうちから崩れ始めた。
◆
斉で反乱。
その報告を受け取った時、俺は関中の王宮で政務を執っていた。
「……始まったか」
思わず呟いた。
蒙恬が顔を上げる。
「何がでございますか?」
「いや」
俺は竹簡を置き、壁に広げた地図へ目を向けた。
前世で知る歴史なら、ここから天下は再び戦乱へ落ちていく。
楚漢戦争。
項羽と劉邦が天下を争い、最後には一方が全てを手に入れる戦い。
だが。
(もう、俺の知っている楚漢戦争じゃない)
最大の違いは、地図を見れば一目で分かる。
関中。
そこにいるのは劉邦ではない。
俺だ。
しかも俺のもとには、十万を超える旧秦兵がいる。蒙恬、蒙凛、楊端和、王賁、王離、黥布もいる。
史実では劉邦が関中へ進出する際、そこには項羽によって封じられた王たちがいた。
今は違う。
俺がいる。
歴史を知っているという優位は、ここから急速に小さくなっていくのかもしれない。俺自身が歴史の大きな分岐点へ立ってしまった以上、前世の知識どおりに物事が動く保証などない。
それでも、一つだけ確信していることがあった。
俺の視線は、関中から南西へ動いた。
山々に囲まれた土地。
漢中。
そこには劉邦がいる。
そして韓信がいる。
「……必ず来る」
桟道を焼いた程度で、あの二人が漢中へ引きこもるはずがない。
むしろ、天下の目を欺くために焼いたのだ。
斉で反乱が起きた。
項羽の目は、いずれ東へ向く。
その時こそ。
(韓信は動く)
俺は地図の漢中と関中の境を指でなぞった。
秦を滅ぼす戦いは終わった。
だが、平和になったわけではない。
前世で知る楚漢戦争よりも、さらに先の見えない戦いが始まろうとしていた。
そして今度は俺も、その中心にいる。




