第103話 暗度陳倉
斉で起きた反乱は、それだけでは終わらなかった。
項羽が新たに定めた天下の秩序は、見た目ほど強固ではなかったのである。秦を倒すという共通の目的が失われると、各地に押し込められていた不満が一気に噴き出し、斉に続いて趙、魏、燕の地でも次々と争いが起こり始めた。
原因はそれぞれ違っている。新しく封じられた王を認めない者もいれば、旧王族の復権を求める者もいた。項羽の論功行賞で冷遇された将が兵を集める例もあり、秦という巨大な敵が消えたことで、それまで同じ旗の下にいた者たちまで互いに牙を剥き始めていた。
彭城へ届く急報は日に日に増え、項羽一人ではとても対応しきれなくなった。龍且や鍾離眜らも各地へ派遣され、反乱の鎮圧に追われる日々が続いていく。
だが、最も厄介なのは項羽本人が出陣した時だった。
◆
「出てこい!」
項羽の怒声が野を震わせても、反乱軍は正面から応じようとはしなかった。
彼女たちも馬鹿ではない。鉅鹿で秦軍を粉砕し、李信を一刀のもとに斬った女とまともにぶつかればどうなるかくらい理解している。だから項羽が近づけば山へ逃げ、林へ潜み、城を捨てて散っていく。そして項羽が別の土地へ向かえば、再び集まって守備の薄い場所を襲った。
「また逃げたのか!」
戻ってきた龍且の報告を聞くたび、項羽の苛立ちは強くなっていった。
「まともに戦う気がねえ。こっちが近づいたら兵を捨てて散りやがった。追えば民の中に紛れるし、少し離れりゃまた集まりやがる」
「卑怯者どもが」
項羽にとって、戦とは正面から力をぶつけるものだった。勝つにしても負けるにしても、敵がそこにいてこそ自分の武を振るえる。ところが今戦っている相手は、その土俵に上がること自体を拒んでいる。
しかも反乱軍が民の中へ紛れ込むと、誰が兵で誰がただの住民なのかすら見分けにくくなる。その曖昧さが、項羽には何より我慢ならなかった。
「この街が反乱軍を匿ったのだな」
捕らえられた役人が震えながら答える。
「す、すべてではございません。一部の者が勝手に兵糧を与えたのであって、民の大半は」
「同じことだ」
項羽は街並みを見渡した。
「反乱兵を匿い、我が軍が来れば知らぬ顔をする。ならば二度と拠点として使えぬようにすればよい」
范増が僅かに眉を寄せた。
「項羽、街全体を罰すれば、かえって周囲の反発を招きましょう。首謀者を選び、そこだけを処断した方が」
「面倒だ」
項羽はそこで話を切った。
「焼け」
その日の夕刻、街から黒煙が上がった。
反乱に加わった者だけではなく、そこに住んでいただけの者の家まで炎に包まれていく。兵たちは命令に従って民を街道へ追い出し、倉も屋敷も焼き払った。
項羽本人にとっては、反乱軍が二度と使えないようにするための処置に過ぎなかったのだろう。
だが、その炎を見た周辺の民が何を思うかまでは考えていなかった。
◆
各地の混乱は、関中にいる俺のところへも次々と届いていた。
地図の上には赤い印が増え続けている。斉、趙、魏、燕。項羽が作ったばかりの天下は、もう各地で綻び始めていた。
「龍且殿は斉方面、鍾離眜殿は趙方面へ向かったとのことです」
蒙恬が報告書を置く。
「項羽本人も出てる?」
「はい。ただし、敵はまともに戦わず散っているようです。追えば山や民家へ入り、軍が離れれば再び集まる。その繰り返しだとか」
「そうなるよな」
俺は地図を見ながら息を吐いた。
項羽と正面から戦いたい人間なんて、そう多くない。勝てない相手なら、逃げて別の場所で戦えばいい。やっていることは単純だが、その単純さこそ項羽の武を空振りさせている。
「それと、反乱に加担した街を一つ、丸ごと焼いたとの報告もございます」
「街ごと?」
「はい。反乱兵を匿ったとして」
俺は目を閉じた。
やはり極端だ。
項羽は気に入った相手には驚くほど寛大なのに、一度敵と認めた相手には容赦がない。その性格は以前から知っていたが、天下を治める立場になると、その極端さは個人の問題では済まない。
そして今、その項羽の兵力は東へ散っている。
俺の視線は自然と地図の南西へ移った。
漢中。
(そろそろだ)
劉邦が、この機を逃すとは思えなかった。
「関中西部の守りを厚くする。特に山地から抜けてこられる場所には斥候を増やしてくれ」
蒙恬がこちらを見る。
「劉邦殿が動くとお考えですか」
「たぶん」
「ですが桟道は焼かれております。あれを修復するには相当な時間が必要です」
「だからこそ、他の道も見たい」
俺は地図の山岳地帯へ指を滑らせた。
「普段なら軍が通らないような細い道も含めて調べてほしい。獣道みたいな場所でもいい」
「軍を通すには不向きでも、完全に不可能とは限らないということですね」
「ああ」
蒙恬はすぐに頷いた。
「承知いたしました。西南一帯の斥候を増やします」
俺はそれ以上、理由を詳しく話さなかった。
前世で知っている歴史が、そのまま起きる保証はない。
それでも韓信という将がいる以上、劉邦が漢中へ引きこもったままで終わるとは思えなかった。
今度は、待ち構える側だった。
◆
一方、その頃。
漢中では、劉邦が地図を前に腕を組んでいた。
「つまり、お前は関中へ戻れるって言うんだな?」
「戻れます」
向かいに座る韓信は、迷いなく答えた。
「でも桟道は焼いたぞ。あれを直すだけでも何年かかるか分からないって、蕭何も言ってたじゃないか」
「ですから、修復を始めます」
劉邦が眉をひそめる。
「話が違わないか?」
「違いません。桟道を直しているところを、関中の者たちに見せるのです」
韓信は地図の上に指を置いた。
「大勢の兵を使って、できるだけ目立つように修復を続けます。そうすれば、関中の守備側は我々がそこから出てくると思うでしょう」
劉邦はしばらく黙った後、ようやく意味を理解したらしく口元を上げた。
「なるほど。見せるために直すのか」
「はい。守る側の目を一か所へ集めます」
韓信の指が、今度は地図の別の場所へ移った。
「本命はこちらです」
「……陳倉?」
「はい」
そこへ至る道は、軍道と呼べるようなものではなかった。
山中を縫う細い道で、場所によっては獣が通る程度の幅しかない。荷車を並べることはできず、騎兵も馬を降りなければ進めない場所がある。大軍を動かす道として考えれば、むしろ真っ先に候補から外すような経路だった。
「こんなところを軍で通るのか?」
「通ります」
「何人で?」
「通せるだけ通します」
「いや、それは無茶だろ」
劉邦はさすがに顔をしかめた。
韓信はそれでも表情を変えない。
「無茶だから使うのです。関中の守備側も、同じように考えます。軍を通すには向かない。だから警戒も薄くなる」
蕭何が地図を覗き込む。
「兵糧はどうします? 荷駄をほとんど通せないなら、長くは保ちません」
「一人が持てる量を増やし、荷駄は最低限にします。先遣隊を出して足場を整え、危険な場所だけ通れる程度に広げます。速度は落ちますが、それでも正面から桟道を通って迎え撃たれるよりはましです」
「相当な損耗が出るわよ」
「正面から出れば、もっと出ます」
韓信はそこで劉邦を見る。
「今の関中には扶蘇がいます。普通の道を使えば、必ず備えています。その周囲には旧秦の将たちも揃っています。正面から戦うなら、こちらが有利になる理由はありません」
劉邦は腕を組み直した。
「だから、備えてない道から出る」
「そうです」
「で、桟道の方は?」
「大々的に直してください。なるべく多くの人間に見られるように」
その言葉を聞いて、劉邦はようやく笑った。
「分かった。やってみよう」
◆
数日後、漢中と関中を結ぶ焼け落ちた桟道では、大勢の兵が修復作業を始めていた。
木材が運び込まれ、崩れた足場が組み直され、遠くからでも人が動いていることが分かるほど大規模な作業だった。隠す様子などまるでなく、むしろ誰かに見られることを前提にしているようにさえ見える。
当然、その情報はすぐに関中へ届いた。
「扶蘇様。劉邦軍が桟道の修復を始めたとのことです。かなりの人数を投入しております」
報告を聞いた俺は、地図から顔を上げた。
「そう」
「桟道方面の守りを増やしますか?」
部下の問いに、俺はすぐには答えなかった。
周囲の者なら、劉邦がそこから関中へ戻ろうとしていると考えるだろう。むしろ、そう考えてほしいからこそ、韓信はあれほど目立つように修復を始めたはずだ。
俺の視線は、桟道から少し北へ移る。
陳倉。
(やっぱり、そっちか)
まだ確証はない。
ただ、桟道の修復があまりにも露骨だったことで、かえって疑いは強くなった。
「桟道の守りは増やす。でも、そこだけに兵を集めすぎないでくれ。陳倉方面の斥候もさらに増やす」
「承知いたしました」
史実どおりなら。
そう考えかけて、俺はやめた。
今いる関中は、もう俺が知る歴史の関中ではない。
だからこそ、知識に頼り切るのではなく、目の前の動きを見なければならない。
◆
その頃、韓信は主力の一部を率いて、誰も軍道とは呼ばない山中へ踏み込んでいた。
道というより、斜面に辛うじて残された細い筋だった。兵は一列になって進み、木の枝を払い、足を取られる石を退け、馬を降りて綱を使いながら崖沿いを越えていく。
大軍を通すには明らかに不向きだった。
だからこそ、韓信はそこを選んだ。
「大将軍、本当にこの先から関中へ出られるのですか」
先頭近くにいた兵が、不安を隠せず尋ねた。
「出られる」
韓信は周囲の山を見ながら答える。
「ですが、この道では軍がばらばらになります。もし先で敵に待たれていたら」
「待たれていないから通る」
韓信の答えは淡々としていた。
「桟道を直している兵を見れば、敵はそちらへ目を向ける。こちらは軍が通ると思われていない。なら、今のうちに抜けるしかない」
兵たちはそれ以上聞かなかった。
先遣隊が枝を落とし、後続が足場を広げ、その後ろを兵が少しずつ進んでいく。速さはないが、確実に山の奥へ入り込んでいた。
韓信は時折立ち止まり、地形を確かめながら先を見据えた。
山の向こうには関中がある。
そこを治めているのは、公子扶蘇。
普通の相手なら、この策だけで十分だったかもしれない。
だが、韓信は扶蘇を軽く見ていなかった。
だからこそ、なおさら急ぐ必要がある。
表では桟道を修復し、そこへ敵の目を集める。その間に、軍を通すには不向きな陳倉への道を進み、関中へ抜ける。
それが成功するかどうかは、山を越えた先で決まる。
韓信の軍は、誰にも気づかれていないことを祈りながら、静かに関中へ近づいていた。




