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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第5章 秦楚漢

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第103話 暗度陳倉

 斉で起きた反乱は、それだけでは終わらなかった。


 項羽(こうう)が新たに定めた天下の秩序は、見た目ほど強固ではなかったのである。秦を倒すという共通の目的が失われると、各地に押し込められていた不満が一気に噴き出し、斉に続いて趙、魏、燕の地でも次々と争いが起こり始めた。


 原因はそれぞれ違っている。新しく封じられた王を認めない者もいれば、旧王族の復権を求める者もいた。項羽(こうう)の論功行賞で冷遇された将が兵を集める例もあり、秦という巨大な敵が消えたことで、それまで同じ旗の下にいた者たちまで互いに牙を剥き始めていた。


 彭城(ほうじょう)へ届く急報は日に日に増え、項羽(こうう)一人ではとても対応しきれなくなった。龍且(りゅうしょ)や鍾離眜(しょうりばつ)らも各地へ派遣され、反乱の鎮圧に追われる日々が続いていく。


 だが、最も厄介なのは項羽(こうう)本人が出陣した時だった。


◆


「出てこい!」


 項羽(こうう)の怒声が野を震わせても、反乱軍は正面から応じようとはしなかった。


 彼女たちも馬鹿ではない。鉅鹿(きょろく)で秦軍を粉砕し、李信(りしん)を一刀のもとに斬った女とまともにぶつかればどうなるかくらい理解している。だから項羽(こうう)が近づけば山へ逃げ、林へ潜み、城を捨てて散っていく。そして項羽(こうう)が別の土地へ向かえば、再び集まって守備の薄い場所を襲った。


「また逃げたのか!」


 戻ってきた龍且(りゅうしょ)の報告を聞くたび、項羽(こうう)の苛立ちは強くなっていった。


「まともに戦う気がねえ。こっちが近づいたら兵を捨てて散りやがった。追えば民の中に紛れるし、少し離れりゃまた集まりやがる」


「卑怯者どもが」


 項羽(こうう)にとって、戦とは正面から力をぶつけるものだった。勝つにしても負けるにしても、敵がそこにいてこそ自分の武を振るえる。ところが今戦っている相手は、その土俵に上がること自体を拒んでいる。


 しかも反乱軍が民の中へ紛れ込むと、誰が兵で誰がただの住民なのかすら見分けにくくなる。その曖昧さが、項羽(こうう)には何より我慢ならなかった。


「この街が反乱軍を匿ったのだな」


 捕らえられた役人が震えながら答える。


「す、すべてではございません。一部の者が勝手に兵糧を与えたのであって、民の大半は」


「同じことだ」


 項羽(こうう)は街並みを見渡した。


「反乱兵を匿い、我が軍が来れば知らぬ顔をする。ならば二度と拠点として使えぬようにすればよい」


 范増(はんぞう)が僅かに眉を寄せた。


「項羽(こうう)、街全体を罰すれば、かえって周囲の反発を招きましょう。首謀者を選び、そこだけを処断した方が」


「面倒だ」


 項羽(こうう)はそこで話を切った。


「焼け」


 その日の夕刻、街から黒煙が上がった。


 反乱に加わった者だけではなく、そこに住んでいただけの者の家まで炎に包まれていく。兵たちは命令に従って民を街道へ追い出し、倉も屋敷も焼き払った。


 項羽(こうう)本人にとっては、反乱軍が二度と使えないようにするための処置に過ぎなかったのだろう。


 だが、その炎を見た周辺の民が何を思うかまでは考えていなかった。


◆


 各地の混乱は、関中にいる俺のところへも次々と届いていた。


 地図の上には赤い印が増え続けている。斉、趙、魏、燕。項羽(こうう)が作ったばかりの天下は、もう各地で綻び始めていた。


「龍且(りゅうしょ)殿は斉方面、鍾離眜(しょうりばつ)殿は趙方面へ向かったとのことです」


 蒙恬(もうてん)が報告書を置く。


「項羽(こうう)本人も出てる?」


「はい。ただし、敵はまともに戦わず散っているようです。追えば山や民家へ入り、軍が離れれば再び集まる。その繰り返しだとか」


「そうなるよな」


 俺は地図を見ながら息を吐いた。


 項羽(こうう)と正面から戦いたい人間なんて、そう多くない。勝てない相手なら、逃げて別の場所で戦えばいい。やっていることは単純だが、その単純さこそ項羽(こうう)の武を空振りさせている。


「それと、反乱に加担した街を一つ、丸ごと焼いたとの報告もございます」


「街ごと?」


「はい。反乱兵を匿ったとして」


 俺は目を閉じた。


 やはり極端だ。


 項羽(こうう)は気に入った相手には驚くほど寛大なのに、一度敵と認めた相手には容赦がない。その性格は以前から知っていたが、天下を治める立場になると、その極端さは個人の問題では済まない。


 そして今、その項羽(こうう)の兵力は東へ散っている。


 俺の視線は自然と地図の南西へ移った。


 漢中(かんちゅう)。


(そろそろだ)


 劉邦(りゅうほう)が、この機を逃すとは思えなかった。


「関中西部の守りを厚くする。特に山地から抜けてこられる場所には斥候を増やしてくれ」


 蒙恬(もうてん)がこちらを見る。


「劉邦(りゅうほう)殿が動くとお考えですか」


「たぶん」


「ですが桟道は焼かれております。あれを修復するには相当な時間が必要です」


「だからこそ、他の道も見たい」


 俺は地図の山岳地帯へ指を滑らせた。


「普段なら軍が通らないような細い道も含めて調べてほしい。獣道みたいな場所でもいい」


「軍を通すには不向きでも、完全に不可能とは限らないということですね」


「ああ」


 蒙恬(もうてん)はすぐに頷いた。


「承知いたしました。西南一帯の斥候を増やします」


 俺はそれ以上、理由を詳しく話さなかった。


 前世で知っている歴史が、そのまま起きる保証はない。


 それでも韓信(かんしん)という将がいる以上、劉邦(りゅうほう)が漢中(かんちゅう)へ引きこもったままで終わるとは思えなかった。


 今度は、待ち構える側だった。


◆


 一方、その頃。


 漢中(かんちゅう)では、劉邦(りゅうほう)が地図を前に腕を組んでいた。


「つまり、お前は関中へ戻れるって言うんだな?」


「戻れます」


 向かいに座る韓信(かんしん)は、迷いなく答えた。


「でも桟道は焼いたぞ。あれを直すだけでも何年かかるか分からないって、蕭何(しょうか)も言ってたじゃないか」


「ですから、修復を始めます」


 劉邦(りゅうほう)が眉をひそめる。


「話が違わないか?」


「違いません。桟道を直しているところを、関中の者たちに見せるのです」


 韓信(かんしん)は地図の上に指を置いた。


「大勢の兵を使って、できるだけ目立つように修復を続けます。そうすれば、関中の守備側は我々がそこから出てくると思うでしょう」


 劉邦(りゅうほう)はしばらく黙った後、ようやく意味を理解したらしく口元を上げた。


「なるほど。見せるために直すのか」


「はい。守る側の目を一か所へ集めます」


 韓信(かんしん)の指が、今度は地図の別の場所へ移った。


「本命はこちらです」


「……陳倉(ちんそう)?」


「はい」


 そこへ至る道は、軍道と呼べるようなものではなかった。


 山中を縫う細い道で、場所によっては獣が通る程度の幅しかない。荷車を並べることはできず、騎兵も馬を降りなければ進めない場所がある。大軍を動かす道として考えれば、むしろ真っ先に候補から外すような経路だった。


「こんなところを軍で通るのか?」


「通ります」


「何人で?」


「通せるだけ通します」


「いや、それは無茶だろ」


 劉邦(りゅうほう)はさすがに顔をしかめた。


 韓信(かんしん)はそれでも表情を変えない。


「無茶だから使うのです。関中の守備側も、同じように考えます。軍を通すには向かない。だから警戒も薄くなる」


 蕭何(しょうか)が地図を覗き込む。


「兵糧はどうします? 荷駄をほとんど通せないなら、長くは保ちません」


「一人が持てる量を増やし、荷駄は最低限にします。先遣隊を出して足場を整え、危険な場所だけ通れる程度に広げます。速度は落ちますが、それでも正面から桟道を通って迎え撃たれるよりはましです」


「相当な損耗が出るわよ」


「正面から出れば、もっと出ます」


 韓信(かんしん)はそこで劉邦(りゅうほう)を見る。


「今の関中には扶蘇(ふそ)がいます。普通の道を使えば、必ず備えています。その周囲には旧秦の将たちも揃っています。正面から戦うなら、こちらが有利になる理由はありません」


 劉邦(りゅうほう)は腕を組み直した。


「だから、備えてない道から出る」


「そうです」


「で、桟道の方は?」


「大々的に直してください。なるべく多くの人間に見られるように」


 その言葉を聞いて、劉邦(りゅうほう)はようやく笑った。


「分かった。やってみよう」


◆


 数日後、漢中(かんちゅう)と関中を結ぶ焼け落ちた桟道では、大勢の兵が修復作業を始めていた。


 木材が運び込まれ、崩れた足場が組み直され、遠くからでも人が動いていることが分かるほど大規模な作業だった。隠す様子などまるでなく、むしろ誰かに見られることを前提にしているようにさえ見える。


 当然、その情報はすぐに関中へ届いた。


「扶蘇様。劉邦(りゅうほう)軍が桟道の修復を始めたとのことです。かなりの人数を投入しております」


 報告を聞いた俺は、地図から顔を上げた。


「そう」


「桟道方面の守りを増やしますか?」


 部下の問いに、俺はすぐには答えなかった。


 周囲の者なら、劉邦(りゅうほう)がそこから関中へ戻ろうとしていると考えるだろう。むしろ、そう考えてほしいからこそ、韓信(かんしん)はあれほど目立つように修復を始めたはずだ。


 俺の視線は、桟道から少し北へ移る。


 陳倉(ちんそう)。


(やっぱり、そっちか)


 まだ確証はない。


 ただ、桟道の修復があまりにも露骨だったことで、かえって疑いは強くなった。


「桟道の守りは増やす。でも、そこだけに兵を集めすぎないでくれ。陳倉(ちんそう)方面の斥候もさらに増やす」


「承知いたしました」


 史実どおりなら。


 そう考えかけて、俺はやめた。


 今いる関中は、もう俺が知る歴史の関中ではない。


 だからこそ、知識に頼り切るのではなく、目の前の動きを見なければならない。


◆


 その頃、韓信(かんしん)は主力の一部を率いて、誰も軍道とは呼ばない山中へ踏み込んでいた。


 道というより、斜面に辛うじて残された細い筋だった。兵は一列になって進み、木の枝を払い、足を取られる石を退け、馬を降りて綱を使いながら崖沿いを越えていく。


 大軍を通すには明らかに不向きだった。


 だからこそ、韓信(かんしん)はそこを選んだ。


「大将軍、本当にこの先から関中へ出られるのですか」


 先頭近くにいた兵が、不安を隠せず尋ねた。


「出られる」


 韓信(かんしん)は周囲の山を見ながら答える。


「ですが、この道では軍がばらばらになります。もし先で敵に待たれていたら」


「待たれていないから通る」


 韓信(かんしん)の答えは淡々としていた。


「桟道を直している兵を見れば、敵はそちらへ目を向ける。こちらは軍が通ると思われていない。なら、今のうちに抜けるしかない」


 兵たちはそれ以上聞かなかった。


 先遣隊が枝を落とし、後続が足場を広げ、その後ろを兵が少しずつ進んでいく。速さはないが、確実に山の奥へ入り込んでいた。


 韓信(かんしん)は時折立ち止まり、地形を確かめながら先を見据えた。


 山の向こうには関中がある。


 そこを治めているのは、公子扶蘇(ふそ)。


 普通の相手なら、この策だけで十分だったかもしれない。


 だが、韓信(かんしん)は扶蘇(ふそ)を軽く見ていなかった。


 だからこそ、なおさら急ぐ必要がある。


 表では桟道を修復し、そこへ敵の目を集める。その間に、軍を通すには不向きな陳倉(ちんそう)への道を進み、関中へ抜ける。


 それが成功するかどうかは、山を越えた先で決まる。


 韓信(かんしん)の軍は、誰にも気づかれていないことを祈りながら、静かに関中へ近づいていた。

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