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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第5章 秦楚漢

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第104話 陳倉の戦い

 韓信(かんしん)が選んだ道は、軍を通すにはあまりにも細かった。


 山肌に沿うように人が一列で進む場所もあり、馬を降り、荷を背負い、先頭の兵が枝や岩を退かしながら進まなければならない。樊噲(はんかい)と灌嬰(かんえい)が率いる先鋒三万がまず山へ入り、その後ろを劉邦(りゅうほう)、夏侯嬰(かこうえい)、盧綰(ろわん)らの本隊が続いていた。


 進軍は遅かったが、韓信(かんしん)に焦りはなかった。焼け落ちた桟道では、大勢の兵にわざと目立つ形で修復を続けさせている。関中側がそこへ注意を向けている間に、軍道としては使われないこの道を抜ける。それが今回の策だった。


 山越えそのものは厳しかった。兵は疲れ、荷も減り、長くこの道に留まれば兵糧も苦しくなる。だからこそ、関中へ出た後は速やかに足場を確保する必要があった。


「もう少しです。山を抜ければ陳倉(ちんそう)へ出ます」


 韓信(かんしん)が告げると、樊噲(はんかい)は肩の武器を持ち直して笑った。


「やっと平らなところへ出られるのか。敵がいたって、山の中よりゃましだね」


「敵がいなければ、ですけどね」


 灌嬰(かんえい)は周囲へ目を走らせた。


「こんな道を使うとは普通考えない。でも、向こうが同じことを考えていない保証はないわ」


「いたら殴ればいい」


「あなたは本当に分かりやすいですね」


 韓信(かんしん)は二人のやり取りを聞きながら、前方を見ていた。


 敵がまったくいないとは思っていない。


 ただ、ここへ十分な兵を置く余裕はないはずだった。扶蘇(ふそ)が桟道を警戒し、関中各地にも兵を置くなら、軍を通すのに向かないこの道へまで大軍を回すことは難しい。


 そう判断していた。


◆


 やがて視界が開けた。


 関中の西端、陳倉(ちんそう)。


 険しい山中を抜けた兵たちから、安堵の声が漏れる。韓信(かんしん)も前方に城壁を確認すると、ようやく僅かに表情を緩めた。


 ここまで敵兵には遭遇していない。


(出し抜いた)


 そう考えるのも無理はなかった。


 扶蘇(ふそ)は旧秦の将を集め、関中を固めている。だからこそ韓信(かんしん)は正面から挑まず、誰も大軍を通そうとは思わない道を選んだ。


「樊噲(はんかい)殿。まず城門へ圧力をかけてください。守りが薄ければ、そのまま押し切ります」


「任せな!」


 樊噲(はんかい)は兵を率いて前へ出た。


 山越えで疲れているとはいえ、敵が備えていなければ十分に攻め切れる。ところが城壁へ近づくにつれ、樊噲(はんかい)は違和感を覚えた。


 静かすぎる。


 門は閉じているのに、城壁の上にはほとんど人影がない。


 その意味に気づいた時には、もう遅かった。


 城壁の上に一斉に兵が立ち上がり、何百もの弩がこちらへ向けられた。


「盾を上げろ!」


 樊噲(はんかい)の叫びと同時に、無数の弦が鳴った。


 矢が雨のように降り注ぎ、前へ出ていた兵たちを次々と倒す。山道を通るために重い装備を減らしていた者も多く、急いで掲げた盾だけでは秦式の強弩を防ぎきれなかった。


 樊噲(はんかい)はすぐに後退を命じ、二射目を受ける前に兵を射程の外へ戻した。


「ちっ……最初から待ってやがったな」


 その言葉を聞きながら、韓信(かんしん)は城壁を見上げた。


 弩兵の数も、一斉射撃の統制も、偶然そこにいた守備隊のものではない。こちらが射程へ入るまで姿を隠し、最初の一撃で先鋒を叩くよう準備されていた。


 そして城壁中央へ、一人の男が姿を現した。


 その隣には弓を持った女が立っている。


 掲げられた旗を見た韓信(かんしん)の顔が強張った。


 公子扶蘇(ふそ)。


 その傍らには蒙凛(もうりん)がいた。


◆


 俺は城壁の上から、山道を抜けてきた軍を見下ろしていた。


 やはり来た。


 実際に韓信(かんしん)の旗を目にすると、予想していたとはいえ緊張する。前世の歴史で名を残した大将軍が、今は俺の守る陳倉(ちんそう)の前にいる。


「扶蘇様、先鋒は下がりました」


 蒙凛(もうりん)が弓を下ろしながら報告する。


「追い射ちはしなくていい。次に近づいた時に撃たせよう」


「はい」


 その時、城下から大きな声が響いた。


「扶蘇(ふそ)!」


 声の主が韓信(かんしん)であることは分かった。


「読んでいたのか!」


 俺は一瞬だけ迷った。


 読んだと言えば、それで済む。


 だが、口から出たのは別の言葉だった。


「知っていたからな!」


 韓信(かんしん)の表情が変わる。


「……何?」


「お前たちが陳倉(ちんそう)から来ることは、知っていた!」


「どういう意味だ! この策を誰から聞いた!」


 戸惑いを隠さない声だった。


 韓信(かんしん)にしてみれば当然だろう。桟道を囮にし、この道を使う策を知る者は限られている。


 言いすぎたと思ったが、今さら取り消せない。


「教える義理はない!」


 それだけ返した。


 韓信(かんしん)はしばらくこちらを見ていたが、その答えを考える余裕はすぐになくなった。


◆


 後方から斥候が駆け込んできた。


「大将軍! 北東から軍勢が接近しております!」


 さらに別の斥候も続く。


「南東にも敵軍!」


 韓信(かんしん)が振り返ると、遠くの街道や谷口に砂煙が立ち始めていた。


 北東に見えたのは王氏の旗。


 王賁(おうほん)の軍である。


 南東からは、蒙恬(もうてん)の旗が近づいている。


 二軍は陳倉(ちんそう)へ殺到するのではなく、関中内部へ抜ける道と側面を押さえるように展開していた。


「……最初から配置されていたのね」


 灌嬰(かんえい)が呟く。


 韓信(かんしん)にも、それは分かった。


 山中で敵に会わなかったのは、完全に気づかれていなかったからではない。扶蘇(ふそ)は陳倉周辺へ兵を分散させ、こちらが姿を現してから集めている。


 韓信(かんしん)軍は三万。


 山越え直後で疲れており、劉邦(りゅうほう)の本隊はまだ後方にいる。一方、前には陳倉(ちんそう)、左右からは王賁(おうほん)と蒙恬(もうてん)の軍が迫っていた。


「大将軍、退く?」


 灌嬰(かんえい)が尋ねる。


 韓信(かんしん)は背後の山道を見た。


 細い道へ三万を戻せば、軍ではなく長い人の列になる。しかも後ろからは味方の本隊が来ている。そこで追撃を受ければ、かえって危険だった。


 反対に、陳倉(ちんそう)周辺は大軍が一度に動くには狭い。


 敵の数が上でも、その全てと同時に戦う必要はない。


「退きません」


 戻ってきた樊噲(はんかい)が眉を上げる。


「城には弩兵、外からも敵が来てるぞ」


「今退けば山道で潰されます。ここで戦線を維持し、劉邦(りゅうほう)様の本隊を待ちます」


 韓信(かんしん)はすぐに指示を出した。


「樊噲(はんかい)殿は北東へ。王賁(おうほん)軍を止めてください。勝つ必要はありません。中央へ回り込ませなければ十分です」


「分かった」


「灌嬰(かんえい)殿は騎兵で南東へ向かい、蒙恬(もうてん)軍の展開を妨害してください。こちらも押し返そうとせず、包囲を完成させないことを優先してください」


「了解。あなたは?」


「私は中央で陳倉(ちんそう)を攻めます」


 樊噲(はんかい)が少し驚いた顔をした。


「まだ城を攻めるのか?」


「城を落とせれば最善ですし、攻め続ければ扶蘇(ふそ)は城内の兵を外へ回しにくくなります。ここで敵中央を拘束し、本隊が来るまで持ちこたえます」


 韓信(かんしん)は迷っていなかった。


 策は破られた。


 それでも、まだ戦には負けていない。


「全軍、戦闘準備。ここで持ちこたえます!」


◆


 城壁の上から見ていると、韓信(かんしん)軍が退くどころか三方向へ分かれ始めた。


 北へ向かうのは樊噲(はんかい)。


 南へ動く騎兵は灌嬰(かんえい)。


 中央には韓信(かんしん)本人が残っている。


「退きませんね」


 蒙凛(もうりん)が敵陣を見ながら言う。


「ああ。後ろの劉邦(りゅうほう)を待つつもりだ」


 俺はすぐに伝令を呼んだ。


「王賁(おうほん)には深追いしないよう伝えて。蒙恬(もうてん)にも谷口を押さえるのを優先してもらう。無理に包囲を完成させようとしなくていい」


「分かりました」


 蒙凛(もうりん)が伝令を走らせる。


 目の前では、最初の策を潰された韓信(かんしん)が、すでに次の戦い方へ切り替えていた。


 そこが厄介だった。


 奇襲を防げたからといって、相手が崩れてくれるわけではない。


「弩兵、準備。敵が十分に近づくまで撃つな」


 城壁の兵たちが再び弩へ矢をつがえる。


 北では樊噲(はんかい)が王賁(おうほん)軍へ向かい、南では灌嬰(かんえい)の騎兵が蒙恬(もうてん)軍へ走り始めていた。そして中央では、韓信(かんしん)軍が盾を前に集めながら、再び陳倉(ちんそう)へ迫ってくる。


 奇襲は潰した。


 だが、本当の戦いはここからだった。


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