第104話 陳倉の戦い
韓信が選んだ道は、軍を通すにはあまりにも細かった。
山肌に沿うように人が一列で進む場所もあり、馬を降り、荷を背負い、先頭の兵が枝や岩を退かしながら進まなければならない。樊噲と灌嬰が率いる先鋒三万がまず山へ入り、その後ろを劉邦、夏侯嬰、盧綰らの本隊が続いていた。
進軍は遅かったが、韓信に焦りはなかった。焼け落ちた桟道では、大勢の兵にわざと目立つ形で修復を続けさせている。関中側がそこへ注意を向けている間に、軍道としては使われないこの道を抜ける。それが今回の策だった。
山越えそのものは厳しかった。兵は疲れ、荷も減り、長くこの道に留まれば兵糧も苦しくなる。だからこそ、関中へ出た後は速やかに足場を確保する必要があった。
「もう少しです。山を抜ければ陳倉へ出ます」
韓信が告げると、樊噲は肩の武器を持ち直して笑った。
「やっと平らなところへ出られるのか。敵がいたって、山の中よりゃましだね」
「敵がいなければ、ですけどね」
灌嬰は周囲へ目を走らせた。
「こんな道を使うとは普通考えない。でも、向こうが同じことを考えていない保証はないわ」
「いたら殴ればいい」
「あなたは本当に分かりやすいですね」
韓信は二人のやり取りを聞きながら、前方を見ていた。
敵がまったくいないとは思っていない。
ただ、ここへ十分な兵を置く余裕はないはずだった。扶蘇が桟道を警戒し、関中各地にも兵を置くなら、軍を通すのに向かないこの道へまで大軍を回すことは難しい。
そう判断していた。
◆
やがて視界が開けた。
関中の西端、陳倉。
険しい山中を抜けた兵たちから、安堵の声が漏れる。韓信も前方に城壁を確認すると、ようやく僅かに表情を緩めた。
ここまで敵兵には遭遇していない。
(出し抜いた)
そう考えるのも無理はなかった。
扶蘇は旧秦の将を集め、関中を固めている。だからこそ韓信は正面から挑まず、誰も大軍を通そうとは思わない道を選んだ。
「樊噲殿。まず城門へ圧力をかけてください。守りが薄ければ、そのまま押し切ります」
「任せな!」
樊噲は兵を率いて前へ出た。
山越えで疲れているとはいえ、敵が備えていなければ十分に攻め切れる。ところが城壁へ近づくにつれ、樊噲は違和感を覚えた。
静かすぎる。
門は閉じているのに、城壁の上にはほとんど人影がない。
その意味に気づいた時には、もう遅かった。
城壁の上に一斉に兵が立ち上がり、何百もの弩がこちらへ向けられた。
「盾を上げろ!」
樊噲の叫びと同時に、無数の弦が鳴った。
矢が雨のように降り注ぎ、前へ出ていた兵たちを次々と倒す。山道を通るために重い装備を減らしていた者も多く、急いで掲げた盾だけでは秦式の強弩を防ぎきれなかった。
樊噲はすぐに後退を命じ、二射目を受ける前に兵を射程の外へ戻した。
「ちっ……最初から待ってやがったな」
その言葉を聞きながら、韓信は城壁を見上げた。
弩兵の数も、一斉射撃の統制も、偶然そこにいた守備隊のものではない。こちらが射程へ入るまで姿を隠し、最初の一撃で先鋒を叩くよう準備されていた。
そして城壁中央へ、一人の男が姿を現した。
その隣には弓を持った女が立っている。
掲げられた旗を見た韓信の顔が強張った。
公子扶蘇。
その傍らには蒙凛がいた。
◆
俺は城壁の上から、山道を抜けてきた軍を見下ろしていた。
やはり来た。
実際に韓信の旗を目にすると、予想していたとはいえ緊張する。前世の歴史で名を残した大将軍が、今は俺の守る陳倉の前にいる。
「扶蘇様、先鋒は下がりました」
蒙凛が弓を下ろしながら報告する。
「追い射ちはしなくていい。次に近づいた時に撃たせよう」
「はい」
その時、城下から大きな声が響いた。
「扶蘇!」
声の主が韓信であることは分かった。
「読んでいたのか!」
俺は一瞬だけ迷った。
読んだと言えば、それで済む。
だが、口から出たのは別の言葉だった。
「知っていたからな!」
韓信の表情が変わる。
「……何?」
「お前たちが陳倉から来ることは、知っていた!」
「どういう意味だ! この策を誰から聞いた!」
戸惑いを隠さない声だった。
韓信にしてみれば当然だろう。桟道を囮にし、この道を使う策を知る者は限られている。
言いすぎたと思ったが、今さら取り消せない。
「教える義理はない!」
それだけ返した。
韓信はしばらくこちらを見ていたが、その答えを考える余裕はすぐになくなった。
◆
後方から斥候が駆け込んできた。
「大将軍! 北東から軍勢が接近しております!」
さらに別の斥候も続く。
「南東にも敵軍!」
韓信が振り返ると、遠くの街道や谷口に砂煙が立ち始めていた。
北東に見えたのは王氏の旗。
王賁の軍である。
南東からは、蒙恬の旗が近づいている。
二軍は陳倉へ殺到するのではなく、関中内部へ抜ける道と側面を押さえるように展開していた。
「……最初から配置されていたのね」
灌嬰が呟く。
韓信にも、それは分かった。
山中で敵に会わなかったのは、完全に気づかれていなかったからではない。扶蘇は陳倉周辺へ兵を分散させ、こちらが姿を現してから集めている。
韓信軍は三万。
山越え直後で疲れており、劉邦の本隊はまだ後方にいる。一方、前には陳倉、左右からは王賁と蒙恬の軍が迫っていた。
「大将軍、退く?」
灌嬰が尋ねる。
韓信は背後の山道を見た。
細い道へ三万を戻せば、軍ではなく長い人の列になる。しかも後ろからは味方の本隊が来ている。そこで追撃を受ければ、かえって危険だった。
反対に、陳倉周辺は大軍が一度に動くには狭い。
敵の数が上でも、その全てと同時に戦う必要はない。
「退きません」
戻ってきた樊噲が眉を上げる。
「城には弩兵、外からも敵が来てるぞ」
「今退けば山道で潰されます。ここで戦線を維持し、劉邦様の本隊を待ちます」
韓信はすぐに指示を出した。
「樊噲殿は北東へ。王賁軍を止めてください。勝つ必要はありません。中央へ回り込ませなければ十分です」
「分かった」
「灌嬰殿は騎兵で南東へ向かい、蒙恬軍の展開を妨害してください。こちらも押し返そうとせず、包囲を完成させないことを優先してください」
「了解。あなたは?」
「私は中央で陳倉を攻めます」
樊噲が少し驚いた顔をした。
「まだ城を攻めるのか?」
「城を落とせれば最善ですし、攻め続ければ扶蘇は城内の兵を外へ回しにくくなります。ここで敵中央を拘束し、本隊が来るまで持ちこたえます」
韓信は迷っていなかった。
策は破られた。
それでも、まだ戦には負けていない。
「全軍、戦闘準備。ここで持ちこたえます!」
◆
城壁の上から見ていると、韓信軍が退くどころか三方向へ分かれ始めた。
北へ向かうのは樊噲。
南へ動く騎兵は灌嬰。
中央には韓信本人が残っている。
「退きませんね」
蒙凛が敵陣を見ながら言う。
「ああ。後ろの劉邦を待つつもりだ」
俺はすぐに伝令を呼んだ。
「王賁には深追いしないよう伝えて。蒙恬にも谷口を押さえるのを優先してもらう。無理に包囲を完成させようとしなくていい」
「分かりました」
蒙凛が伝令を走らせる。
目の前では、最初の策を潰された韓信が、すでに次の戦い方へ切り替えていた。
そこが厄介だった。
奇襲を防げたからといって、相手が崩れてくれるわけではない。
「弩兵、準備。敵が十分に近づくまで撃つな」
城壁の兵たちが再び弩へ矢をつがえる。
北では樊噲が王賁軍へ向かい、南では灌嬰の騎兵が蒙恬軍へ走り始めていた。そして中央では、韓信軍が盾を前に集めながら、再び陳倉へ迫ってくる。
奇襲は潰した。
だが、本当の戦いはここからだった。




