第93話 十万の命
鉅鹿を離れ、西へ向かう軍列は日に日に長くなっていた。
その原因は、敗れた秦兵たちだった。章邯の死後に武器を捨てた者だけではなく、鉅鹿の各所で敗走した兵も次々と合流し、楚軍と俺たちの後ろには十万を超える降兵が続いている。
問題は、その全員が腹を空かせるということだった。
秦軍が残した兵糧を確保できたことで、すぐに飢えるわけではない。だが項羽の楚軍も、もともとは三日分の食糧だけを持って鉅鹿へ突入した軍であり、余裕があるとは言い難かった。
「このままでは、関中へ着く前に兵糧が尽きます」
蒙恬からそう報告された時、俺は後方へ続く列を眺めながら顔をしかめた。
十万を超える人間を食わせ、見張り、連れて歩く。
数字にすれば単純だが、実際には巨大な負担だった。
そして、その状況には前世の記憶を刺激するものがあった。
この先、降伏した秦兵をめぐって何が起きたのかを、俺は知っている。
だが、今はまだ何も起きていない。
項羽が降兵をどうするつもりなのかも分からないし、起きてもいないことを理由に責めるつもりもなかった。
ただ、この十万を俺が引き受けられるなら、その方がいい。
そう考え、俺は項羽のもとへ向かった。
◆
「十万の秦兵を、俺に預けてほしい」
軍議の席で切り出すと、項羽は意外そうにこちらを見た。
「降兵をか?」
「ああ。今、楚軍と一緒に連れている秦兵のうち、十万を俺の預かりにしてほしい」
項羽はすぐには答えず、腕を組んだ。
「お前のところも兵糧が余っているわけではないだろう」
「余ってはいない」
「なら、なぜ欲しがる」
「このまま一緒に連れていけば、そっちの負担が大きすぎるからだ。俺たちも西へ行くし、別々に抱えた方がまだ動きやすい」
項羽は顎へ手をやった。
実際、楚軍側も降兵の扱いに困っていたらしい。勝ったことで兵は増えたが、食糧まで同じ割合で増えるわけではなく、進軍速度も目に見えて落ち始めていた。
「それに、降った以上は食わせないといけない」
「随分と面倒見がいいな」
「生かしたまま連れていくなら当然だろ」
俺がそう返すと、項羽は面白そうに笑った。
だが、隣にいた范増は笑わなかった。
「反対じゃ」
「范増」
「十万ぞ」
范増は鋭い目で俺を見た。
「百でも千でもない。秦の公子である扶蘇殿へ、十万もの秦兵を渡す。これほど危うい話を、兵糧が足りぬというだけで決めるべきではない」
言っていることはもっともだった。
俺が秦兵を吸収しながら勢力を立て直してきたことは、范増もすでに知っている。十万を渡せば、そのまま俺の軍勢へ変わる可能性を考えるのは当然だった。
「預かった兵を無理に俺の兵にするつもりはない」
「つもりの話ではない。秦兵から見れば、お主は始皇帝の長公子であり、胡亥より遥かに受け入れやすい旗じゃ。本人が望まずとも集まる」
俺は否定できなかった。
そこで項羽が俺を見た。
「どうする、扶蘇。范増の言うことももっともだぞ」
「なら、約束する」
「何をだ」
「この十万を使って、項羽に害を及ぼすようなことはしない」
范増が眉を寄せる。
「言葉だけなら何とでも言える」
「その時は俺を討てばいい」
天幕が静かになった。
范増は呆れたようにこちらを見た。
「簡単に申すな」
「簡単じゃない。でも、それくらいしか証明のしようがないだろ」
俺は項羽へ向き直った。
「もし俺がこの十万を使ってお前へ刃を向けるなら、その時は遠慮なく討て。それでいい」
しばらく俺を見ていた項羽は、やがて声を上げて笑った。
「はははっ! いいな、それでこそだ」
「何がだよ」
「さすが、私が婿に欲しいと思った男だ」
「……まだその話を引っ張るのか?」
「冗談だと言っただろう」
そう言いながら、項羽は妙に楽しそうだった。
(本当に冗談なんだろうな)
前に一度笑われて終わった話だと思っていたのに、本人がこうして何度も蒸し返すせいで不安になってくる。
「で、十万は?」
俺が話を戻すと、項羽はあっさり頷いた。
「預ける」
「項羽!」
范増が声を上げる。
「こちらも兵糧不足で困っている。扶蘇が引き受けると言うなら、悪い話ではない」
「しかし」
「それに」
項羽は俺を見て笑った。
「もし本当に十万を率いて私へ向かってくるなら、その時はまとめて叩けばいい」
范増は深く息を吐いた。
この女にとっては、それで話が済むらしい。
「分かった」
俺は頷いた。
「十万、預かる」
「食わせられなくなったから返す、は無しだぞ」
「最初からそこが一番の問題なんだけどな」
◆
こうして十万を預かった。
そして翌日には、早くも俺は頭を抱えていた。
「……足りない」
兵糧の帳簿を何度見ても、数字は変わらない。
俺たち自身の兵に加えて、新たに十万を抱えたのだから当然だった。秦軍から押収した糧秣もあるが、それをすべて使ったところで長くは保たない。
「扶蘇様」
蒙恬が帳簿の横から顔を上げる。
「昨日から申し上げております」
「分かってるよ」
「十万を引き受けると仰った時点で、こうなることは」
「分かってたって」
「本当に?」
「……だいたいは」
蒙恬が呆れたように俺を見る。
「だいたいで十万を引き受けないでください」
「でも項羽のところに置いておくより、こっちの方がいいと思ったんだよ」
「それは否定いたしません。ですが、食糧が湧いて出るわけではございません」
その通りだった。
周辺の村から徴発すれば、今度は民が飢える。略奪など論外であり、買い付けようにも十万を養えるほどの穀物を一か所で確保するのは難しい。
俺が地図を見ながら唸っていると、それまで黙っていた蒙凛が身を乗り出した。
「扶蘇様、成皋へ寄りませんか」
「成皋?」
「はい」
蒙凛は地図の一点を指した。
「少し進路は変わりますが、大きな遠回りではありません。あそこはかつて王氏が治めていた土地ですし、扶蘇様が函谷関から逃れた後、再び立たれた場所でもあります」
俺は地図を見た。
成皋。
忘れるはずがない。
兵をほとんど失い、何も持たずに辿り着いた土地だった。王氏の支えがあり、そこでようやく俺たちは再び足場を得た。
「それに、成皋周辺は穀倉地帯です」
蒙凛が続ける。
「戦乱の影響は受けているでしょうが、他の郡県より蓄えは残っているはずです。王氏の旧臣もおりますし、扶蘇様のことを覚えている民も多いと思います」
蒙恬も地図を覗き込んだ。
「無理に周辺の村々から集めるよりは望みがございます。十万を長く養える量まで得られるかは分かりませんが、少なくとも次の手を考える時間は稼げるでしょう」
「よし」
俺はすぐに決めた。
「成皋へ行こう」
◆
十万を超える降兵を連れたまま成皋へ近づいた時、俺は少なからず不安を感じていた。
武器を取り上げているとはいえ、遠目には巨大な軍勢にしか見えない。住民が恐れて門を閉ざしてもおかしくないし、王氏の旧領だからといって、今でも俺たちを歓迎してくれる保証はなかった。
ところが、先行していた斥候が戻ってくるなり、予想外の報告をした。
「扶蘇様、成皋の門が開いております。それだけではなく、住民たちが街道まで出迎えに来ております」
「俺たちを?」
「はい」
半信半疑のまま馬を進めると、やがて街道の先に大勢の人影が見えてきた。
老人もいれば、若い女もいる。子供を連れた者や、王氏に仕えていたらしい者たちまで混じり、俺たちの旗を確認すると次々と声を上げた。
「扶蘇様だ!」
「本当に戻ってこられた!」
「門を開けろ! 公子がお帰りだ!」
その声を聞いて、胸の奥が少し熱くなった。
俺がこの地を離れてから、それほど年月が経ったわけではない。それでも、各地を流れ、兵を失い、何度も死にかけてきたせいか、ここへ戻ってくるまでには随分長い時間が経ったように感じられた。
門の外では、里や村の代表らしい者たちが待っていた。
先頭の老女が深く頭を下げる。
「公子扶蘇様。お戻りをお待ちしておりました」
「待っていた?」
「はい。王氏の御恩も、扶蘇様が以前この地に滞在された時、民から無理に物を奪わぬよう命じてくださったことも、皆が覚えております」
俺は後方へ延々と続く降兵の列を振り返った。
「今回は、かなり無茶な頼みがあるんだ。十万を超える人間を食わせないといけない」
「承知しております」
老女は迷わなかった。
「扶蘇様の軍がこちらへ向かっていると聞き、すでに周囲の村へ知らせを出しております。王氏へ恩のある者も、扶蘇様を信じる者も、この地にはまだ多くおります」
その言葉を裏づけるように、街道の向こうから荷車が次々と姿を現した。
積まれているのは穀物袋だった。
一台や二台ではない。
長い列となって、こちらへ向かってくる。
「こんなに出して大丈夫なのか?」
「無論、我らが食べる分まで差し出すことはできません」
老女は穏やかに笑った。
「ですが、余らせて腐らせるよりは、生きるために必要としている者へ渡した方がよろしいでしょう。それに、扶蘇様なら奪わず、返せる時には返してくださると皆が知っております」
俺はしばらく言葉を失った。
十万を引き受けた時、俺は彼女たちをどう食わせるかまで完全に考え切れていたわけではない。
それでも、これまで積み重ねてきたものが思わぬところで返ってきた。
「……ありがとう」
最後には、それしか言えなかった。
◆
成皋へ入ると、王氏の旧臣たちが倉を開き、周辺から集められた穀物が次々と運び込まれた。
もちろん、これだけで十万をいつまでも養えるわけではない。それでも当面の食糧を確保できれば、進軍を止めずに済むし、次の補給先を探す時間も作れる。
降兵たちにも、すぐに食事を配らせた。
昨日まで秦の旗の下で戦っていた者たちが、湯気の立つ粥を受け取り、戸惑ったように器を見つめている。中には顔を伏せたまま涙を流す者もいた。
「これなら、しばらくは保ちそうですね」
隣へ来た蒙凛が言う。
「ああ。助かったよ」
「ですから、成皋へ来て正解だったでしょう?」
「今回は完全に蒙凛のお手柄だな」
「今回は、ではなく今回もです」
得意そうに胸を張る。
「はいはい」
俺は苦笑した。
西ではすでに劉邦が関中へ入っている。
項羽も、長く足を止めるつもりはないだろう。
天下の流れはこちらの都合を待ってはくれない。
それでも今、十万を超える降兵は殺されることも飢えることもなく、温かい飯を食べている。
少なくとも今日だけは、それで十分だった。




