第92話 咸陽の美女
武関を抜けた劉邦軍が関中を北上し、咸陽へ迫っているという報せを受けた時、秦王・子嬰は抵抗を続ける道を捨てた。
北では秦軍主力が鉅鹿で敗れ、李信も章邯もすでにいない。南の武関まで破られた以上、咸陽に残る兵だけで劉邦軍を押し返すことはできず、無理に戦えば都そのものが戦場となり、最後に犠牲になるのは民だった。
「降ります。秦を守る力は、もう残っておりません」
集められた臣下たちを前に、子嬰は静かに決断を告げた。
「ここで抗って咸陽を焼くより、秦王である私が責を負います。ただし、降伏して終わりではありません。その後に王族や旧臣、そして民をどう守るかまで考えなければなりません」
反対する者はほとんどいなかった。むしろ、誰もが分かっていながら口にできなかった結論を、ようやく王が言葉にしたという空気さえあった。
その傍らに立つ王賁も、黙って子嬰の決断を受け入れた。娘の王離を失ったと思い、胡亥と趙高を自ら斬った今、王氏の名誉のためだけに咸陽を血で染める気はなかった。
「問題は、劉邦という男が降伏後の秦をどう扱うかですな」
「はい。力で抵抗できない以上、今度はこちらが相手を見極めるしかありません」
「噂では、かなりの女好きだとか」
子嬰はその言葉に、ほんの僅かに笑みを浮かべた。
「それなら、それも一つの道具になりましょう」
王賁は子嬰の横顔を見た。
初めて間近で見た時、自分でさえ一瞬息を呑んだほどの美貌である。劉邦が本当に噂どおりの男なら、この女を前にして平静でいられるかどうかは怪しかった。
◆
劉邦軍が咸陽へ到着した時、秦側からの抵抗はなかった。
城門は開かれ、武器を捨てた兵が道を空け、その先には白装束に身を包んだ子嬰が王族や重臣とともに待っていた。
「秦王・子嬰にございます。秦は、沛公・劉邦殿へ降伏いたします」
子嬰が深く頭を下げる。
馬上の劉邦は、すぐには返事をしなかった。
子嬰の顔を見たまま、明らかに視線が止まっている。
「……へえ」
隣にいた張良は、その一言を聞いただけで嫌な予感を覚えた。
子嬰もまた、劉邦の視線を見逃してはいない。自分の顔を見た瞬間に目が止まり、僅かに姿勢が変わったことまで読み取ると、何も気づいていないように目を伏せた。
(分かりやすい御方ですね)
子嬰の後ろに立つ王賁も、同じ結論へ達していた。
(……ただの助平ではないか)
戦では人の言葉を聞き、ここまで軍を率いてきた男である以上、愚か者ではないのだろう。だが、女を見る時の目だけは恐ろしく正直だった。
「沛公?」
張良に呼ばれ、劉邦はようやく我に返った。
「ああ。降るなら受け入れる。戦う気のない奴まで殺すつもりはない」
「ありがとうございます」
子嬰はもう一度頭を下げ、顔を上げる瞬間にだけ劉邦と目を合わせた。
それだけで劉邦の口元が緩んだ。
王賁は内心で溜息をついた。
◆
正式な降伏を終えると、子嬰は劉邦へ個人的な面会を求めた。
同席したのは張良と蕭何、秦側からは王賁だけである。
「沛公に、一つお願いがございます」
子嬰は劉邦の前へ座ると、先ほどより柔らかな声で切り出した。
「秦王族と、降った者たちを御庇護いただきたいのです。秦にはもう沛公へ抗う力はございませんが、後から関中へ入る諸侯まで、同じように扱ってくださる保証はございません」
劉邦が何か答えるより先に、張良が口を挟んだ。
「沛公一人の御意向だけでは決められぬ問題もございます。特に秦王族の扱いとなれば、楚や諸侯も無関係ではありません」
「承知しております」
子嬰は張良へ一度だけ視線を向けた後、再び劉邦を見る。
「だからこそ、私は秦王としてだけではなく、一人の女としてお願いしたいのです」
劉邦の表情が目に見えて変わった。
張良はその横顔を見て、早くも頭が痛くなってきた。
「もし沛公がお許しくださるなら、私は沛公を秦王家の婿としてお迎えしたく存じます。関中を制した沛公が秦王家へ入ってくだされば、旧秦の民も従いやすくなり、王族や旧臣を守る理由にもなるでしょう」
「俺を、婿に?」
「はい」
子嬰は政治的な利点を説明しながら、最後に少しだけ目を伏せた。
「もちろん、沛公がお嫌でなければの話でございますが」
劉邦は完全に黙り込んだ。
少し後ろに控えていた王賁は、その顔を見て確信した。
(落ちたな)
◆
「いけません」
劉邦が答える前に、張良がはっきりと言った。
「何でだよ」
「何で、ではありません」
張良は子嬰へ目を向けた。
美しいことは認めざるを得ない。だが、それ以上に気になるのは先ほどからの視線や間の取り方だった。
劉邦が自分を見る瞬間には目を合わせ、理屈を説かれれば少し引き、最後には守ってほしい女として弱さを見せる。相手が何を欲しているのかを測りながら、一歩ずつ自分から望んだと思わせる方向へ誘導している。
(この女、分かってやっていますね)
張良の脳裏に、かつて授かった太公望の兵法が浮かぶ。
敵を動かす手段は武だけではない。欲、恐れ、名誉、財、そして色もまた人を動かす力になる。
子嬰が本当に太公望の兵法を学んでいるかまでは分からない。だが少なくとも、自分の色香をどう使えば男を動かせるのかについては、十分すぎるほど理解していた。
「沛公。秦王家の婿になるということが、どういう意味かお分かりですか」
「秦の連中が俺を受け入れやすくなるんだろ?」
「そこだけではありません」
今度は蕭何が静かに口を開いた。
「沛公は楚王・心様の命を受けて西へ進み、先に関中へ入った者を関中王とするという約定の下でここまで来られました。その御方が秦王家へ婿入りすれば、外からは関中王となるはずの男が秦王家へ取り込まれたようにも見えます」
張良も続ける。
「もっと悪く言えば、関中王が秦王へ降ったようなものだと見る者さえ出るでしょう。何より、項羽殿が間もなく西から来ます」
劉邦の顔から、ようやく少し笑みが消えた。
「項羽か」
「はい。鉅鹿で秦主力を破った項羽殿にしてみれば、御自分が秦軍と死闘を繰り広げている間に、沛公が先に関中へ入り、そのまま秦王家と結んだことになります。関中を自分のものにするつもりだと受け取られても不思議ではありません」
「しかし」
子嬰が静かに割って入った。
「私が望んでいるのは秦の再興ではございません。ただ、生き残った者たちを守っていただきたいだけです」
その声が僅かに弱くなる。
「沛公まで私たちを見捨てるのであれば、私にはもう頼れる御方がおりません」
張良は内心で眉をひそめた。
理屈で押せば感情へ移る。
しかも劉邦は、女から頼られることに弱い。
「分かった」
案の定、劉邦はそう答えた。
「俺が守る」
「沛公」
「項羽が何を言おうが、一度降った奴を後から殺させるつもりはない。子嬰も、秦王族も、俺が守る」
張良は目を閉じた。
そして子嬰は、さらに一歩踏み込んだ。
「では、婿の件も?」
劉邦は張良と蕭何を見た。
二人とも明確に首を振っている。
それでも最後には子嬰へ目を戻した。
「……悪くない話だと思う」
蕭何が深く息を吐き、張良は額へ手を当てた。
王賁だけが、予想どおりという顔をしていた。
◆
問題は、劉邦が子嬰に篭絡されたことだけでは済まなかった。
秦が正式に降伏したことで、劉邦軍はほとんど抵抗を受けることなく咸陽へ入った。長い戦いを続けてきた兵たちの目の前には、始皇帝が築いた巨大な都があり、倉には食糧、屋敷には財貨、商家には酒や布が溢れている。
最初に手を出したのは、ごく一部の兵だった。
だが、一軒の酒蔵が破られれば、それを見た別の兵も続く。無人となった官吏の屋敷から財物が持ち出され、やがて商家へまで兵が入り始めると、略奪は一部隊の問題では済まなくなった。
「勝手に持ち出してはいけません! 秦はすでに降伏しております!」
蕭何は各隊へ命令を飛ばし、曹参にも兵の整理を頼んだが、都の広さに対して手が足りない。
「沛公へ報告を。本人から全軍へ命令を出していただいた方が早いです」
しかし戻ってきた兵は、困ったような顔をしていた。
「沛公は、まだ子嬰様とお話をされておりまして」
「呼んできてください」
「すでに何度か」
「何と?」
「後にしてくれ、と」
張良の表情が固まった。
「……樊噲殿を呼んでください」
◆
「私が兵を止めるのか?」
呼ばれた樊噲は、すでに酒壺を抱えて逃げようとしていた兵を片手で捕まえていた。
「はい。言うことを聞かない者がいたら、多少乱暴でも構いません。街路から追い出し、各隊の宿営地へ戻してください」
「沛公はどうした」
「今は役に立ちません」
「随分な言い方だな」
「事実です」
樊噲は大声で笑った後、捕まえていた兵から酒壺を取り上げた。
「分かったよ。おら、あんたら! 戦が終わったからって好き勝手やってんじゃないよ! それ置け、そっちも店から出な!」
「樊噲様、これは戦利品で」
「秦は降ったんだろ! 戦ってもいない相手から奪ったら、ただの泥棒だ!」
こうなると樊噲は頼もしかった。
声と腕力の両方を遠慮なく使い、従わない兵は本当に襟首を掴んで街路から放り出す。そこへ曹参と蕭何が各隊の指揮官を動かして兵をまとめ直し、略奪はようやく収まり始めた。
だが、一度民の目に映った光景は消せなかった。
◆
咸陽の民は、閉ざした戸や窓の隙間からその様子を見ていた。
秦は降った。
だから戦は終わり、少なくとも都が焼かれることはないと思っていた。
ところが城へ入ってきた兵は酒蔵を破り、商家から品を持ち出し、皇帝に代わってこの地を治めるかもしれない男はそれを止めにも来ない。
「これが……関中王になる男なのか」
年老いた商人が、荒らされた店先を見ながら呟いた。
「秦が終わっても、次がこれでは何が変わる」
怒りよりも落胆が大きかった。
始皇帝の法に縛られ、胡亥の重税と労役にも耐え、ようやく秦という時代そのものが終わろうとしている。その先に現れた男は、美しい秦王に夢中になり、自分の兵が都を荒らしていることさえ満足に聞いていない。
劉邦がここまで多くの郡県を穏便に降し、降伏兵や民への略奪を禁じて進んできたことなど、咸陽の民には分からない。
彼女たちが見たのは、この一日だけだった。
そして、その第一印象はあまりにも悪かった。
◆
一方、鉅鹿を離れた項羽軍と扶蘇軍も、西へ向けて進み始めていた。
秦軍主力を破ったことで、行く手を塞ぐ大軍はもういない。だが、勝利によって生まれた別の問題が、日に日に軍を圧迫していた。
「……また増えたな」
俺は街道の後方まで延々と続く人の列を見ながら呟いた。
秦軍から降った兵たちだった。
章邯が自刃した後に俺たちへ降った者だけではなく、鉅鹿で敗れて散った秦兵も各地から集まり、楚軍や俺たちの周囲へ次々と加わっている。
その数は、すでに十万を超えていた。
「扶蘇様」
蒙恬が険しい顔でやって来た。
「兵糧の消費が想定を大きく上回っております。秦軍が残した糧秣を確保できたため、すぐに飢えることはございませんが、この人数を養いながら関中まで進む量ではありません」
「楚軍も同じだろうな」
「はい。向こうも降兵を抱えておりますし、もともと項羽殿の軍は三日分の食糧だけで鉅鹿へ入りました。秦軍の兵糧を奪えたことで助かりましたが、それを十万を超える降兵と分ければ、余裕などすぐになくなります」
俺は改めて列を見た。
昨日まで敵だった兵たちが、今は武器を置き、生きるためにこちらへ従っている。一人一人を見れば、疲れ切って腹を空かせた普通の人間に過ぎない。
だが、それが十万人を超えれば話は変わる。
食わせなければならない。
逃亡や暴発を防ぐために見張りも必要になる。
しかも、こちらの兵まで食わせながら関中へ進まなければならない。
「勝った後の方が、面倒が増えてないか」
俺が苦笑すると、蒙恬は笑わなかった。
「戦には、勝った後にしか起きない問題もございます」
「……だよな」
秦軍には勝った。
それでも、勝ったことで抱え込んだ十万を超える命が、今度は俺たち自身の進軍を圧迫し始めていた。




