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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第4章 秦の終焉

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第92話 咸陽の美女

 武関(ぶかん)を抜けた劉邦(りゅうほう)軍が関中を北上し、咸陽(かんよう)へ迫っているという報せを受けた時、秦王・子嬰(しえい)は抵抗を続ける道を捨てた。


 北では秦軍主力が鉅鹿(きょろく)で敗れ、李信(りしん)も章邯(しょうかん)もすでにいない。南の武関(ぶかん)まで破られた以上、咸陽(かんよう)に残る兵だけで劉邦(りゅうほう)軍を押し返すことはできず、無理に戦えば都そのものが戦場となり、最後に犠牲になるのは民だった。


「降ります。秦を守る力は、もう残っておりません」


 集められた臣下たちを前に、子嬰(しえい)は静かに決断を告げた。


「ここで抗って咸陽(かんよう)を焼くより、秦王である私が責を負います。ただし、降伏して終わりではありません。その後に王族や旧臣、そして民をどう守るかまで考えなければなりません」


 反対する者はほとんどいなかった。むしろ、誰もが分かっていながら口にできなかった結論を、ようやく王が言葉にしたという空気さえあった。


 その傍らに立つ王賁(おうほん)も、黙って子嬰(しえい)の決断を受け入れた。娘の王離(おうり)を失ったと思い、胡亥(こがい)と趙高(ちょうこう)を自ら斬った今、王氏の名誉のためだけに咸陽(かんよう)を血で染める気はなかった。


「問題は、劉邦(りゅうほう)という男が降伏後の秦をどう扱うかですな」


「はい。力で抵抗できない以上、今度はこちらが相手を見極めるしかありません」


「噂では、かなりの女好きだとか」


 子嬰(しえい)はその言葉に、ほんの僅かに笑みを浮かべた。


「それなら、それも一つの道具になりましょう」


 王賁(おうほん)は子嬰(しえい)の横顔を見た。


 初めて間近で見た時、自分でさえ一瞬息を呑んだほどの美貌である。劉邦(りゅうほう)が本当に噂どおりの男なら、この女を前にして平静でいられるかどうかは怪しかった。


◆


 劉邦(りゅうほう)軍が咸陽(かんよう)へ到着した時、秦側からの抵抗はなかった。


 城門は開かれ、武器を捨てた兵が道を空け、その先には白装束に身を包んだ子嬰(しえい)が王族や重臣とともに待っていた。


「秦王・子嬰(しえい)にございます。秦は、沛公・劉邦(りゅうほう)殿へ降伏いたします」


 子嬰(しえい)が深く頭を下げる。


 馬上の劉邦(りゅうほう)は、すぐには返事をしなかった。


 子嬰(しえい)の顔を見たまま、明らかに視線が止まっている。


「……へえ」


 隣にいた張良(ちょうりょう)は、その一言を聞いただけで嫌な予感を覚えた。


 子嬰(しえい)もまた、劉邦(りゅうほう)の視線を見逃してはいない。自分の顔を見た瞬間に目が止まり、僅かに姿勢が変わったことまで読み取ると、何も気づいていないように目を伏せた。


(分かりやすい御方ですね)


 子嬰(しえい)の後ろに立つ王賁(おうほん)も、同じ結論へ達していた。


(……ただの助平ではないか)


 戦では人の言葉を聞き、ここまで軍を率いてきた男である以上、愚か者ではないのだろう。だが、女を見る時の目だけは恐ろしく正直だった。


「沛公?」


 張良(ちょうりょう)に呼ばれ、劉邦(りゅうほう)はようやく我に返った。


「ああ。降るなら受け入れる。戦う気のない奴まで殺すつもりはない」


「ありがとうございます」


 子嬰(しえい)はもう一度頭を下げ、顔を上げる瞬間にだけ劉邦(りゅうほう)と目を合わせた。


 それだけで劉邦(りゅうほう)の口元が緩んだ。


 王賁(おうほん)は内心で溜息をついた。


◆


 正式な降伏を終えると、子嬰(しえい)は劉邦(りゅうほう)へ個人的な面会を求めた。


 同席したのは張良(ちょうりょう)と蕭何(しょうか)、秦側からは王賁(おうほん)だけである。


「沛公に、一つお願いがございます」


 子嬰(しえい)は劉邦(りゅうほう)の前へ座ると、先ほどより柔らかな声で切り出した。


「秦王族と、降った者たちを御庇護いただきたいのです。秦にはもう沛公へ抗う力はございませんが、後から関中へ入る諸侯まで、同じように扱ってくださる保証はございません」


 劉邦(りゅうほう)が何か答えるより先に、張良(ちょうりょう)が口を挟んだ。


「沛公一人の御意向だけでは決められぬ問題もございます。特に秦王族の扱いとなれば、楚や諸侯も無関係ではありません」


「承知しております」


 子嬰(しえい)は張良(ちょうりょう)へ一度だけ視線を向けた後、再び劉邦(りゅうほう)を見る。


「だからこそ、私は秦王としてだけではなく、一人の女としてお願いしたいのです」


 劉邦(りゅうほう)の表情が目に見えて変わった。


 張良(ちょうりょう)はその横顔を見て、早くも頭が痛くなってきた。


「もし沛公がお許しくださるなら、私は沛公を秦王家の婿としてお迎えしたく存じます。関中を制した沛公が秦王家へ入ってくだされば、旧秦の民も従いやすくなり、王族や旧臣を守る理由にもなるでしょう」


「俺を、婿に?」


「はい」


 子嬰(しえい)は政治的な利点を説明しながら、最後に少しだけ目を伏せた。


「もちろん、沛公がお嫌でなければの話でございますが」


 劉邦(りゅうほう)は完全に黙り込んだ。


 少し後ろに控えていた王賁(おうほん)は、その顔を見て確信した。


(落ちたな)


◆


「いけません」


 劉邦(りゅうほう)が答える前に、張良(ちょうりょう)がはっきりと言った。


「何でだよ」


「何で、ではありません」


 張良(ちょうりょう)は子嬰(しえい)へ目を向けた。


 美しいことは認めざるを得ない。だが、それ以上に気になるのは先ほどからの視線や間の取り方だった。


 劉邦(りゅうほう)が自分を見る瞬間には目を合わせ、理屈を説かれれば少し引き、最後には守ってほしい女として弱さを見せる。相手が何を欲しているのかを測りながら、一歩ずつ自分から望んだと思わせる方向へ誘導している。


(この女、分かってやっていますね)


 張良(ちょうりょう)の脳裏に、かつて授かった太公望の兵法が浮かぶ。


 敵を動かす手段は武だけではない。欲、恐れ、名誉、財、そして色もまた人を動かす力になる。


 子嬰(しえい)が本当に太公望の兵法を学んでいるかまでは分からない。だが少なくとも、自分の色香をどう使えば男を動かせるのかについては、十分すぎるほど理解していた。


「沛公。秦王家の婿になるということが、どういう意味かお分かりですか」


「秦の連中が俺を受け入れやすくなるんだろ?」


「そこだけではありません」


 今度は蕭何(しょうか)が静かに口を開いた。


「沛公は楚王・心(しん)様の命を受けて西へ進み、先に関中へ入った者を関中王とするという約定の下でここまで来られました。その御方が秦王家へ婿入りすれば、外からは関中王となるはずの男が秦王家へ取り込まれたようにも見えます」


 張良(ちょうりょう)も続ける。


「もっと悪く言えば、関中王が秦王へ降ったようなものだと見る者さえ出るでしょう。何より、項羽(こうう)殿が間もなく西から来ます」


 劉邦(りゅうほう)の顔から、ようやく少し笑みが消えた。


「項羽(こうう)か」


「はい。鉅鹿(きょろく)で秦主力を破った項羽(こうう)殿にしてみれば、御自分が秦軍と死闘を繰り広げている間に、沛公が先に関中へ入り、そのまま秦王家と結んだことになります。関中を自分のものにするつもりだと受け取られても不思議ではありません」


「しかし」


 子嬰(しえい)が静かに割って入った。


「私が望んでいるのは秦の再興ではございません。ただ、生き残った者たちを守っていただきたいだけです」


 その声が僅かに弱くなる。


「沛公まで私たちを見捨てるのであれば、私にはもう頼れる御方がおりません」


 張良(ちょうりょう)は内心で眉をひそめた。


 理屈で押せば感情へ移る。


 しかも劉邦(りゅうほう)は、女から頼られることに弱い。


「分かった」


 案の定、劉邦(りゅうほう)はそう答えた。


「俺が守る」


「沛公」


「項羽(こうう)が何を言おうが、一度降った奴を後から殺させるつもりはない。子嬰(しえい)も、秦王族も、俺が守る」


 張良(ちょうりょう)は目を閉じた。


 そして子嬰(しえい)は、さらに一歩踏み込んだ。


「では、婿の件も?」


 劉邦(りゅうほう)は張良(ちょうりょう)と蕭何(しょうか)を見た。


 二人とも明確に首を振っている。


 それでも最後には子嬰(しえい)へ目を戻した。


「……悪くない話だと思う」


 蕭何(しょうか)が深く息を吐き、張良(ちょうりょう)は額へ手を当てた。


 王賁(おうほん)だけが、予想どおりという顔をしていた。


◆


 問題は、劉邦(りゅうほう)が子嬰(しえい)に篭絡されたことだけでは済まなかった。


 秦が正式に降伏したことで、劉邦(りゅうほう)軍はほとんど抵抗を受けることなく咸陽(かんよう)へ入った。長い戦いを続けてきた兵たちの目の前には、始皇帝が築いた巨大な都があり、倉には食糧、屋敷には財貨、商家には酒や布が溢れている。


 最初に手を出したのは、ごく一部の兵だった。


 だが、一軒の酒蔵が破られれば、それを見た別の兵も続く。無人となった官吏の屋敷から財物が持ち出され、やがて商家へまで兵が入り始めると、略奪は一部隊の問題では済まなくなった。


「勝手に持ち出してはいけません! 秦はすでに降伏しております!」


 蕭何(しょうか)は各隊へ命令を飛ばし、曹参(そうしん)にも兵の整理を頼んだが、都の広さに対して手が足りない。


「沛公へ報告を。本人から全軍へ命令を出していただいた方が早いです」


 しかし戻ってきた兵は、困ったような顔をしていた。


「沛公は、まだ子嬰(しえい)様とお話をされておりまして」


「呼んできてください」


「すでに何度か」


「何と?」


「後にしてくれ、と」


 張良(ちょうりょう)の表情が固まった。


「……樊噲(はんかい)殿を呼んでください」


◆


「私が兵を止めるのか?」


 呼ばれた樊噲(はんかい)は、すでに酒壺を抱えて逃げようとしていた兵を片手で捕まえていた。


「はい。言うことを聞かない者がいたら、多少乱暴でも構いません。街路から追い出し、各隊の宿営地へ戻してください」


「沛公はどうした」


「今は役に立ちません」


「随分な言い方だな」


「事実です」


 樊噲(はんかい)は大声で笑った後、捕まえていた兵から酒壺を取り上げた。


「分かったよ。おら、あんたら! 戦が終わったからって好き勝手やってんじゃないよ! それ置け、そっちも店から出な!」


「樊噲(はんかい)様、これは戦利品で」


「秦は降ったんだろ! 戦ってもいない相手から奪ったら、ただの泥棒だ!」


 こうなると樊噲(はんかい)は頼もしかった。


 声と腕力の両方を遠慮なく使い、従わない兵は本当に襟首を掴んで街路から放り出す。そこへ曹参(そうしん)と蕭何(しょうか)が各隊の指揮官を動かして兵をまとめ直し、略奪はようやく収まり始めた。


 だが、一度民の目に映った光景は消せなかった。


◆


 咸陽(かんよう)の民は、閉ざした戸や窓の隙間からその様子を見ていた。


 秦は降った。


 だから戦は終わり、少なくとも都が焼かれることはないと思っていた。


 ところが城へ入ってきた兵は酒蔵を破り、商家から品を持ち出し、皇帝に代わってこの地を治めるかもしれない男はそれを止めにも来ない。


「これが……関中王になる男なのか」


 年老いた商人が、荒らされた店先を見ながら呟いた。


「秦が終わっても、次がこれでは何が変わる」


 怒りよりも落胆が大きかった。


 始皇帝の法に縛られ、胡亥(こがい)の重税と労役にも耐え、ようやく秦という時代そのものが終わろうとしている。その先に現れた男は、美しい秦王に夢中になり、自分の兵が都を荒らしていることさえ満足に聞いていない。


 劉邦(りゅうほう)がここまで多くの郡県を穏便に降し、降伏兵や民への略奪を禁じて進んできたことなど、咸陽(かんよう)の民には分からない。


 彼女たちが見たのは、この一日だけだった。


 そして、その第一印象はあまりにも悪かった。


◆


 一方、鉅鹿(きょろく)を離れた項羽(こうう)軍と扶蘇(ふそ)軍も、西へ向けて進み始めていた。


 秦軍主力を破ったことで、行く手を塞ぐ大軍はもういない。だが、勝利によって生まれた別の問題が、日に日に軍を圧迫していた。


「……また増えたな」


 俺は街道の後方まで延々と続く人の列を見ながら呟いた。


 秦軍から降った兵たちだった。


 章邯(しょうかん)が自刃した後に俺たちへ降った者だけではなく、鉅鹿(きょろく)で敗れて散った秦兵も各地から集まり、楚軍や俺たちの周囲へ次々と加わっている。


 その数は、すでに十万を超えていた。


「扶蘇様」


 蒙恬(もうてん)が険しい顔でやって来た。


「兵糧の消費が想定を大きく上回っております。秦軍が残した糧秣を確保できたため、すぐに飢えることはございませんが、この人数を養いながら関中まで進む量ではありません」


「楚軍も同じだろうな」


「はい。向こうも降兵を抱えておりますし、もともと項羽(こうう)殿の軍は三日分の食糧だけで鉅鹿(きょろく)へ入りました。秦軍の兵糧を奪えたことで助かりましたが、それを十万を超える降兵と分ければ、余裕などすぐになくなります」


 俺は改めて列を見た。


 昨日まで敵だった兵たちが、今は武器を置き、生きるためにこちらへ従っている。一人一人を見れば、疲れ切って腹を空かせた普通の人間に過ぎない。


 だが、それが十万人を超えれば話は変わる。


 食わせなければならない。


 逃亡や暴発を防ぐために見張りも必要になる。


 しかも、こちらの兵まで食わせながら関中へ進まなければならない。


「勝った後の方が、面倒が増えてないか」


 俺が苦笑すると、蒙恬(もうてん)は笑わなかった。


「戦には、勝った後にしか起きない問題もございます」


「……だよな」


 秦軍には勝った。


 それでも、勝ったことで抱え込んだ十万を超える命が、今度は俺たち自身の進軍を圧迫し始めていた。


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