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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第4章 秦の終焉

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第91話 鹿と馬

 その日の夜、胡亥(こがい)は誰も信用できなくなっていた。


 昼間、壁に描かれた鹿を指して、趙高(ちょうこう)は馬だと言った。明らかな鹿だったにもかかわらず、居並ぶ臣下たちは皇帝である胡亥(こがい)ではなく趙高(ちょうこう)へ従い、次々と「馬でございます」と答えた。


 あの瞬間から、胡亥(こがい)の中で何かが崩れていた。


 自分は皇帝として秦のすべてを動かしているつもりだった。しかし実際には、何を聞くかも、誰に会うかも、どの報告を信じるかも、趙高(ちょうこう)によって選ばれていた。玉座に座っているのは自分でも、その周囲を支配しているのは別の男だったのだ。


 ならば、趙高(ちょうこう)を消さなければならない。


 そう考えた胡亥(こがい)が、その夜に呼び出したのは王賁(おうほん)だった。


◆


「これを使ってくれ」


 閨の中で差し出されたものを見て、王賁(おうほん)は眉を寄せた。


 剣だった。


 これまで武器を持つことさえ許されなかった自分へ、胡亥(こがい)自身が剣を差し出している。王賁(おうほん)はすぐには受け取らず、まず胡亥(こがい)の顔を見た。


「何のつもりだ」


「趙高(ちょうこう)を殺してほしい」


 胡亥(こがい)の顔には、昨日までの傲慢さよりも焦りが強く出ていた。


「俺の周りの奴らは信用できない。今日、分かったんだ。臣下どもは俺じゃなく趙高(ちょうこう)を見ている。俺が鹿だと言っても、あいつが馬だと言えば馬になる。宮中の兵だって、もう信用できない」


「それで私か」


「お前は趙高(ちょうこう)を嫌っているだろ」


「陛下のことも好いてはいないが」


 胡亥(こがい)の顔が僅かに歪んだが、怒鳴り返すことはなかった。


「それでもいい。趙高(ちょうこう)さえいなくなれば、俺はもう一度やり直せる」


 王賁(おうほん)はそこでようやく剣を受け取った。


「分かった」


 胡亥(こがい)の表情が明るくなる。


「やってくれるか」


「ああ」


 短く答えたものの、王賁(おうほん)が考えていた相手は、すでに趙高(ちょうこう)だけではなかった。


◆


 王賁(おうほん)は昼間の一件を陰から見ていた。


 胡亥(こがい)が鹿だと言い、趙高(ちょうこう)が馬だと言った場面も、その後に臣下たちが次々と趙高(ちょうこう)へ従った光景も見ている。その中で、一人だけ気になる女がいた。


 子嬰(しえい)。


 秦王族の血を引き、胡亥(こがい)とも血縁の近い女である。


 趙高(ちょうこう)から問いを向けられた時、子嬰(しえい)もまた「馬」と答えた。だが、その表情は他の臣下とは違っていた。唇を噛み、眉を寄せ、自分が口にした言葉そのものを恥じるような苦しさが浮かんでいた。


 従ったのではない。


 耐えたのだ。


 王賁(おうほん)には、そう見えた。


(まだ一人いる)


 秦王族の中に、趙高(ちょうこう)の言いなりになり切っていない者が。


 ならば、まだ打てる手はある。


 王賁(おうほん)は手の中の剣を見た。自分から武器を奪った男が、最後には自ら剣を渡してきた。その皮肉に、笑う気にはなれなかった。


◆


「明日の朝までにやってくれるか?」


 胡亥(こがい)が尋ねた。


「待てないのか」


「趙高(ちょうこう)に気づかれたら終わりだ。あいつは俺が何を考えているかまで知っているような男だぞ」


「そうだな」


 王賁(おうほん)は剣を抜いた。鈍い光が灯火を映し、久しぶりに武器を握った感触が掌へ戻ってくる。


 胡亥(こがい)は、その姿を頼もしそうに眺めていた。


「頼むぞ、王賁(おうほん)」


「ああ。まず一人、片づける」


「そうしてくれ」


 胡亥(こがい)は最後まで、刃が自分へ向いていることに気づかなかった。


 王賁(おうほん)は一歩踏み込み、その胸へ剣を突き立てた。


「……え?」


 胡亥(こがい)の目が大きく見開かれる。


「なぜ……」


 王賁(おうほん)は剣を抜かず、間近から胡亥(こがい)を見つめた。


「王離(おうり)を二年間縛りつけたのは、私だ。だが、その鎖を握っていたのはお前たちだ」


「俺は……お前を……」


「私がお前の魅力に気づいたとでも思ったか?」


 胡亥(こがい)の顔から血の気が引いていった。


「昨夜、お前に抱かれたのは、お前を欲したからではない。娘が死んだと聞かされ、もうどうでもいいと思ったからだ」


 その言葉を聞き終える前に、胡亥(こがい)の身体から力が抜け始めた。


 王賁(おうほん)は支えなかった。


「だが、一晩で十分だった。自棄になってすべてを投げるのは、もう終わりだ」


 剣を引き抜くと、胡亥(こがい)は床へ崩れ落ちた。


 二世皇帝は、最後まで自分を取り巻く人間の心を理解しないまま動かなくなった。


◆


 王賁(おうほん)が子嬰(しえい)のもとを訪れたのは、夜がさらに深くなってからだった。


 案内された部屋へ入り、子嬰(しえい)を初めて間近に見た瞬間、王賁(おうほん)でさえ一瞬足を止めた。


 息を呑むほど美しい女だった。


 長い黒髪と白い肌、整った顔立ちだけではない。静かな眼差しには王族として育った気品と、崩れていく秦を見続けてきた疲れが同居しており、その両方がかえって彼女の美しさを際立たせていた。


「夜分に何用です、王賁(おうほん)殿」


 子嬰(しえい)はそう尋ねながら、すぐに王賁(おうほん)の剣へ目を落とした。


 刃にはまだ血が残っている。


「……その血は」


「陛下のものだ」


 子嬰(しえい)の表情が僅かに変わった。


 それでも悲鳴を上げることも、兵を呼ぶこともなかった。


「胡亥(こがい)陛下を、殺されたのですね」


「ああ」


「なぜ私のところへ?」


「昼間、お前を見ていた。鹿を馬と言った時、苦しそうな顔をしていた」


 子嬰(しえい)は少し目を伏せた。


「それだけで私を信用なさるのですか」


「信用はしていない。ただ、他の連中よりはましだと思った」


「随分と低い評価ですね」


「今の宮中では十分だろう」


 僅かな沈黙の後、子嬰(しえい)は小さく笑った。


「否定できません」


 その反応を見て、王賁(おうほん)は剣を鞘へ戻した。


「胡亥(こがい)は死んだ。次に動くのは趙高(ちょうこう)だ」


「でしょうね。陛下が亡くなったと知れば、あの方はすぐに次の王を必要とします」


「その候補がお前か」


「おそらくは」


 子嬰(しえい)は少し考えた後、静かに顔を上げた。


「ならば、こちらから呼びましょう」


「趙高(ちょうこう)を?」


「はい。次の王位について相談したいと伝えれば、必ず来ます。罠を疑うでしょうが、来ないわけにもいきません。趙高(ちょうこう)にとって、次の王を自分の手で決めることは何より重要なはずです」


 王賁(おうほん)は頷いた。


「では、私はどこにいればいい」


 子嬰(しえい)は血の残る剣を見た。


「見えないところにいてください」


◆


 趙高(ちょうこう)のもとへ胡亥(こがい)の死が伝わった時、最初に浮かんだのは驚きではなかった。


(早い)


 昼の一件で、胡亥(こがい)が自分の立場に気づいたことは分かっていた。


 指鹿為馬。


 あれは臣下の忠誠を確かめるためでもあり、同時に胡亥(こがい)へ現実を見せる行為でもあった。恐れることまでは想定していたが、すぐに殺意へ変わるとは思っていなかった。


「陛下を殺した者は?」


「まだ分かっておりません」


「そうか」


 趙高(ちょうこう)はしばらく考えた。


 胡亥(こがい)が死んだ以上、皇帝の座を空けたままにはできない。宮廷を繋ぎ止めるには、すぐに次を立てる必要がある。


 候補を考えれば、すぐに一人へ行き着く。


 子嬰(しえい)。


 秦王族の血を引き、今すぐ宮中で立てられる人物としては最も都合がいい。


 その時、ちょうど子嬰(しえい)から使者が来た。


「趙高(ちょうこう)様。子嬰(しえい)様がお呼びでございます。今後の秦について、お話ししたいと」


 趙高(ちょうこう)は僅かに目を細めたものの、断る理由はなかった。


「分かった。すぐに参ろう」


◆


 子嬰(しえい)は一人で待っていた。


 少なくとも、趙高(ちょうこう)にはそう見えた。


「大変なことになりましたね」


「はい。陛下がお亡くなりになりました」


「次の王が必要でしょう」


「よくお分かりで」


 趙高(ちょうこう)は微笑んだ。


「秦をこれ以上乱してはなりません。王族の中で、今この危機を収められる御方は子嬰(しえい)様しかおられないと、私も考えております」


「私を王に?」


「はい」


 まだ立て直せる。


 趙高(ちょうこう)はそう考えていた。


 胡亥(こがい)を失ったのは痛い。だが、王を替えればいい。これまでだって、自分はそうやって状況を動かしてきた。


 始皇帝が死んだ時、本来の遺詔を潰し、胡亥(こがい)を立てた。


 扶蘇(ふそ)には偽詔を送り、死を命じた。


 それでも生き残れば、今度は血の秘密を使った。


 呂不韋(りょふい)の血。


 始皇帝と呂不韋(りょふい)の間に生まれた子という秘密を公にし、扶蘇(ふそ)を秦の正統から追い落とした。


 すべて順調だったはずだ。


 少なくとも、途中までは。


(どこで狂った)


 扶蘇(ふそ)が死ななかったことか。


 北辺の兵を率いて南へ来たことか。


 李信(りしん)も章邯(しょうかん)も死に、秦軍そのものが崩れたことか。


 それとも。


(……胡亥(こがい)か)


 そこで初めて、趙高(ちょうこう)は思い至った。


 自分は胡亥(こがい)を追い詰めすぎた。


 何も知らせず、何も選ばせず、周囲の臣下まで自分の言葉へ従わせた。皇帝という名だけを与えながら、実際には何一つ握らせなかった。


 そして昼間、鹿を馬と言わせた。


 あれで胡亥(こがい)は、自分が皇帝ではないと知った。


(見せる必要などなかった)


 気づくのが遅かった。


◆


「趙高(ちょうこう)」


 子嬰(しえい)が呼んだ。


「はい」


「あなたは、私も胡亥(こがい)陛下と同じように扱うつもりですか」


 趙高(ちょうこう)の目が細くなる。


「何のお話でしょう」


「王にはする。けれど何も知らせず、何も決めさせず、あなたの言うとおりに動かす。鹿を馬と言わせたように」


 趙高(ちょうこう)は黙った。


 その時、背後で僅かな音がした。


 振り返ると、暗がりから王賁(おうほん)が姿を現す。


「……なるほど」


 そこで、すべてを理解した。


「陛下を殺したのは、あなたでしたか」


「ああ」


 王賁(おうほん)は剣を抜いた。


 それを見て、趙高(ちょうこう)は微かに笑った。


「陛下があなたへ武器を?」


「お前を殺せとな」


「……そうですか」


 やはり。


 胡亥(こがい)は自分を殺そうとした。


 そのために王賁(おうほん)へ剣を渡し、その剣で先に自分が殺された。


 皮肉な結末だった。


「私は、どこで間違えたのでしょうね」


 趙高(ちょうこう)が呟く。


「知るか」


 王賁(おうほん)は冷たく答えた。


「ただ一つ言える。人を駒だと思いすぎた」


 趙高(ちょうこう)は否定しなかった。


 扶蘇(ふそ)も、李斯(りし)も、胡亥(こがい)も、王離(おうり)も、自分が置いた場所で動くものだと思っていた。だが人は、追い詰めれば予想外の方向へ動くことがある。


 その当たり前のことを、自分は忘れていたのかもしれない。


「……呂不韋(りょふい)なら」


 ふと口から漏れた。


 あの男なら、どうしただろう。


 人を操りながら、それでも最後まで人の欲を見ていた。


 自分は呂不韋(りょふい)の血を恐れ、その血を引く扶蘇(ふそ)を追い落とした。それなのに最後は、自分の方が人の心を読み違えた。


「皮肉なものです」


 趙高(ちょうこう)が小さく笑った直後、王賁(おうほん)が踏み込んだ。


 剣が胸を貫く。


 趙高(ちょうこう)は僅かに身体を揺らしたが、逃げようとはしなかった。


「……陛下を、追い詰めすぎましたか」


 誰に問うでもなく呟く。


 王賁(おうほん)が剣を引き抜くと、趙高(ちょうこう)は膝をつき、そのまま床へ崩れた。


 始皇帝の死後、秦の宮廷を裏から動かし続けた男は、そこで息絶えた。


◆


 夜が明ける頃には、宮中の力関係は完全に変わっていた。


 胡亥(こがい)は死に、趙高(ちょうこう)も死んだ。臣下たちは大きく動揺したが、子嬰(しえい)はすぐに王族と重臣を集め、宮門と兵器庫を押さえさせた。


 もはや皇帝を名乗って天下へ号令できる状況ではない。


 武関(ぶかん)は落ち、劉邦(りゅうほう)が関中へ入っている。北では秦軍主力も敗れ、咸陽へ迫る敵を押し返す力もほとんど残されていなかった。


 それでも、秦にはまだ民がいる。


 咸陽も残っている。


 ならば、終わるとしても最後まで誰か一人の都合だけで壊させるわけにはいかない。


 子嬰(しえい)は帝号を用いず、秦王として立つことを選んだ。


「この国を、あとどれほど保てるかは分かりません」


 臣下たちを前に、子嬰(しえい)は静かに告げた。


「ですが、終わるとしても、これ以上誰か一人の都合だけで秦を壊させるつもりはありません」


 その傍らで王賁(おうほん)は黙って立っていた。


 娘は死んだ。


 そう信じている。


 胡亥(こがい)も趙高(ちょうこう)も、自分の剣で終わらせた。


 それで失ったものが戻るわけではないが、自暴自棄になってすべてを投げ出すことだけは、もうやめていた。


 こうして二世皇帝・胡亥(こがい)の治世は終わり、秦王・子嬰(しえい)が立った。


 だが、その頃にはすでに南から劉邦(りゅうほう)が迫っている。


 秦に残された時間は、もうほとんどなかった。


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