第91話 鹿と馬
その日の夜、胡亥は誰も信用できなくなっていた。
昼間、壁に描かれた鹿を指して、趙高は馬だと言った。明らかな鹿だったにもかかわらず、居並ぶ臣下たちは皇帝である胡亥ではなく趙高へ従い、次々と「馬でございます」と答えた。
あの瞬間から、胡亥の中で何かが崩れていた。
自分は皇帝として秦のすべてを動かしているつもりだった。しかし実際には、何を聞くかも、誰に会うかも、どの報告を信じるかも、趙高によって選ばれていた。玉座に座っているのは自分でも、その周囲を支配しているのは別の男だったのだ。
ならば、趙高を消さなければならない。
そう考えた胡亥が、その夜に呼び出したのは王賁だった。
◆
「これを使ってくれ」
閨の中で差し出されたものを見て、王賁は眉を寄せた。
剣だった。
これまで武器を持つことさえ許されなかった自分へ、胡亥自身が剣を差し出している。王賁はすぐには受け取らず、まず胡亥の顔を見た。
「何のつもりだ」
「趙高を殺してほしい」
胡亥の顔には、昨日までの傲慢さよりも焦りが強く出ていた。
「俺の周りの奴らは信用できない。今日、分かったんだ。臣下どもは俺じゃなく趙高を見ている。俺が鹿だと言っても、あいつが馬だと言えば馬になる。宮中の兵だって、もう信用できない」
「それで私か」
「お前は趙高を嫌っているだろ」
「陛下のことも好いてはいないが」
胡亥の顔が僅かに歪んだが、怒鳴り返すことはなかった。
「それでもいい。趙高さえいなくなれば、俺はもう一度やり直せる」
王賁はそこでようやく剣を受け取った。
「分かった」
胡亥の表情が明るくなる。
「やってくれるか」
「ああ」
短く答えたものの、王賁が考えていた相手は、すでに趙高だけではなかった。
◆
王賁は昼間の一件を陰から見ていた。
胡亥が鹿だと言い、趙高が馬だと言った場面も、その後に臣下たちが次々と趙高へ従った光景も見ている。その中で、一人だけ気になる女がいた。
子嬰。
秦王族の血を引き、胡亥とも血縁の近い女である。
趙高から問いを向けられた時、子嬰もまた「馬」と答えた。だが、その表情は他の臣下とは違っていた。唇を噛み、眉を寄せ、自分が口にした言葉そのものを恥じるような苦しさが浮かんでいた。
従ったのではない。
耐えたのだ。
王賁には、そう見えた。
(まだ一人いる)
秦王族の中に、趙高の言いなりになり切っていない者が。
ならば、まだ打てる手はある。
王賁は手の中の剣を見た。自分から武器を奪った男が、最後には自ら剣を渡してきた。その皮肉に、笑う気にはなれなかった。
◆
「明日の朝までにやってくれるか?」
胡亥が尋ねた。
「待てないのか」
「趙高に気づかれたら終わりだ。あいつは俺が何を考えているかまで知っているような男だぞ」
「そうだな」
王賁は剣を抜いた。鈍い光が灯火を映し、久しぶりに武器を握った感触が掌へ戻ってくる。
胡亥は、その姿を頼もしそうに眺めていた。
「頼むぞ、王賁」
「ああ。まず一人、片づける」
「そうしてくれ」
胡亥は最後まで、刃が自分へ向いていることに気づかなかった。
王賁は一歩踏み込み、その胸へ剣を突き立てた。
「……え?」
胡亥の目が大きく見開かれる。
「なぜ……」
王賁は剣を抜かず、間近から胡亥を見つめた。
「王離を二年間縛りつけたのは、私だ。だが、その鎖を握っていたのはお前たちだ」
「俺は……お前を……」
「私がお前の魅力に気づいたとでも思ったか?」
胡亥の顔から血の気が引いていった。
「昨夜、お前に抱かれたのは、お前を欲したからではない。娘が死んだと聞かされ、もうどうでもいいと思ったからだ」
その言葉を聞き終える前に、胡亥の身体から力が抜け始めた。
王賁は支えなかった。
「だが、一晩で十分だった。自棄になってすべてを投げるのは、もう終わりだ」
剣を引き抜くと、胡亥は床へ崩れ落ちた。
二世皇帝は、最後まで自分を取り巻く人間の心を理解しないまま動かなくなった。
◆
王賁が子嬰のもとを訪れたのは、夜がさらに深くなってからだった。
案内された部屋へ入り、子嬰を初めて間近に見た瞬間、王賁でさえ一瞬足を止めた。
息を呑むほど美しい女だった。
長い黒髪と白い肌、整った顔立ちだけではない。静かな眼差しには王族として育った気品と、崩れていく秦を見続けてきた疲れが同居しており、その両方がかえって彼女の美しさを際立たせていた。
「夜分に何用です、王賁殿」
子嬰はそう尋ねながら、すぐに王賁の剣へ目を落とした。
刃にはまだ血が残っている。
「……その血は」
「陛下のものだ」
子嬰の表情が僅かに変わった。
それでも悲鳴を上げることも、兵を呼ぶこともなかった。
「胡亥陛下を、殺されたのですね」
「ああ」
「なぜ私のところへ?」
「昼間、お前を見ていた。鹿を馬と言った時、苦しそうな顔をしていた」
子嬰は少し目を伏せた。
「それだけで私を信用なさるのですか」
「信用はしていない。ただ、他の連中よりはましだと思った」
「随分と低い評価ですね」
「今の宮中では十分だろう」
僅かな沈黙の後、子嬰は小さく笑った。
「否定できません」
その反応を見て、王賁は剣を鞘へ戻した。
「胡亥は死んだ。次に動くのは趙高だ」
「でしょうね。陛下が亡くなったと知れば、あの方はすぐに次の王を必要とします」
「その候補がお前か」
「おそらくは」
子嬰は少し考えた後、静かに顔を上げた。
「ならば、こちらから呼びましょう」
「趙高を?」
「はい。次の王位について相談したいと伝えれば、必ず来ます。罠を疑うでしょうが、来ないわけにもいきません。趙高にとって、次の王を自分の手で決めることは何より重要なはずです」
王賁は頷いた。
「では、私はどこにいればいい」
子嬰は血の残る剣を見た。
「見えないところにいてください」
◆
趙高のもとへ胡亥の死が伝わった時、最初に浮かんだのは驚きではなかった。
(早い)
昼の一件で、胡亥が自分の立場に気づいたことは分かっていた。
指鹿為馬。
あれは臣下の忠誠を確かめるためでもあり、同時に胡亥へ現実を見せる行為でもあった。恐れることまでは想定していたが、すぐに殺意へ変わるとは思っていなかった。
「陛下を殺した者は?」
「まだ分かっておりません」
「そうか」
趙高はしばらく考えた。
胡亥が死んだ以上、皇帝の座を空けたままにはできない。宮廷を繋ぎ止めるには、すぐに次を立てる必要がある。
候補を考えれば、すぐに一人へ行き着く。
子嬰。
秦王族の血を引き、今すぐ宮中で立てられる人物としては最も都合がいい。
その時、ちょうど子嬰から使者が来た。
「趙高様。子嬰様がお呼びでございます。今後の秦について、お話ししたいと」
趙高は僅かに目を細めたものの、断る理由はなかった。
「分かった。すぐに参ろう」
◆
子嬰は一人で待っていた。
少なくとも、趙高にはそう見えた。
「大変なことになりましたね」
「はい。陛下がお亡くなりになりました」
「次の王が必要でしょう」
「よくお分かりで」
趙高は微笑んだ。
「秦をこれ以上乱してはなりません。王族の中で、今この危機を収められる御方は子嬰様しかおられないと、私も考えております」
「私を王に?」
「はい」
まだ立て直せる。
趙高はそう考えていた。
胡亥を失ったのは痛い。だが、王を替えればいい。これまでだって、自分はそうやって状況を動かしてきた。
始皇帝が死んだ時、本来の遺詔を潰し、胡亥を立てた。
扶蘇には偽詔を送り、死を命じた。
それでも生き残れば、今度は血の秘密を使った。
呂不韋の血。
始皇帝と呂不韋の間に生まれた子という秘密を公にし、扶蘇を秦の正統から追い落とした。
すべて順調だったはずだ。
少なくとも、途中までは。
(どこで狂った)
扶蘇が死ななかったことか。
北辺の兵を率いて南へ来たことか。
李信も章邯も死に、秦軍そのものが崩れたことか。
それとも。
(……胡亥か)
そこで初めて、趙高は思い至った。
自分は胡亥を追い詰めすぎた。
何も知らせず、何も選ばせず、周囲の臣下まで自分の言葉へ従わせた。皇帝という名だけを与えながら、実際には何一つ握らせなかった。
そして昼間、鹿を馬と言わせた。
あれで胡亥は、自分が皇帝ではないと知った。
(見せる必要などなかった)
気づくのが遅かった。
◆
「趙高」
子嬰が呼んだ。
「はい」
「あなたは、私も胡亥陛下と同じように扱うつもりですか」
趙高の目が細くなる。
「何のお話でしょう」
「王にはする。けれど何も知らせず、何も決めさせず、あなたの言うとおりに動かす。鹿を馬と言わせたように」
趙高は黙った。
その時、背後で僅かな音がした。
振り返ると、暗がりから王賁が姿を現す。
「……なるほど」
そこで、すべてを理解した。
「陛下を殺したのは、あなたでしたか」
「ああ」
王賁は剣を抜いた。
それを見て、趙高は微かに笑った。
「陛下があなたへ武器を?」
「お前を殺せとな」
「……そうですか」
やはり。
胡亥は自分を殺そうとした。
そのために王賁へ剣を渡し、その剣で先に自分が殺された。
皮肉な結末だった。
「私は、どこで間違えたのでしょうね」
趙高が呟く。
「知るか」
王賁は冷たく答えた。
「ただ一つ言える。人を駒だと思いすぎた」
趙高は否定しなかった。
扶蘇も、李斯も、胡亥も、王離も、自分が置いた場所で動くものだと思っていた。だが人は、追い詰めれば予想外の方向へ動くことがある。
その当たり前のことを、自分は忘れていたのかもしれない。
「……呂不韋なら」
ふと口から漏れた。
あの男なら、どうしただろう。
人を操りながら、それでも最後まで人の欲を見ていた。
自分は呂不韋の血を恐れ、その血を引く扶蘇を追い落とした。それなのに最後は、自分の方が人の心を読み違えた。
「皮肉なものです」
趙高が小さく笑った直後、王賁が踏み込んだ。
剣が胸を貫く。
趙高は僅かに身体を揺らしたが、逃げようとはしなかった。
「……陛下を、追い詰めすぎましたか」
誰に問うでもなく呟く。
王賁が剣を引き抜くと、趙高は膝をつき、そのまま床へ崩れた。
始皇帝の死後、秦の宮廷を裏から動かし続けた男は、そこで息絶えた。
◆
夜が明ける頃には、宮中の力関係は完全に変わっていた。
胡亥は死に、趙高も死んだ。臣下たちは大きく動揺したが、子嬰はすぐに王族と重臣を集め、宮門と兵器庫を押さえさせた。
もはや皇帝を名乗って天下へ号令できる状況ではない。
武関は落ち、劉邦が関中へ入っている。北では秦軍主力も敗れ、咸陽へ迫る敵を押し返す力もほとんど残されていなかった。
それでも、秦にはまだ民がいる。
咸陽も残っている。
ならば、終わるとしても最後まで誰か一人の都合だけで壊させるわけにはいかない。
子嬰は帝号を用いず、秦王として立つことを選んだ。
「この国を、あとどれほど保てるかは分かりません」
臣下たちを前に、子嬰は静かに告げた。
「ですが、終わるとしても、これ以上誰か一人の都合だけで秦を壊させるつもりはありません」
その傍らで王賁は黙って立っていた。
娘は死んだ。
そう信じている。
胡亥も趙高も、自分の剣で終わらせた。
それで失ったものが戻るわけではないが、自暴自棄になってすべてを投げ出すことだけは、もうやめていた。
こうして二世皇帝・胡亥の治世は終わり、秦王・子嬰が立った。
だが、その頃にはすでに南から劉邦が迫っている。
秦に残された時間は、もうほとんどなかった。




